道化の唄 | ナノ

 ◇保留


「…………………。」


ミケは、無言で自身の椅子を見下ろしていた。

朝早い時間の執務室である。この時間に来れば、自分以外は誰もいないのが常だった。

しかし、今日は先客がいた。しかも何故か自分が座るべき椅子の上に座って、寛いだ様子で本を読んでいる。


「………………。おい。」


一言声をかけると、ユーリは顔を上げてこちらを見た。…………どうにも嬉しそうににっこりと笑うと、「おはようございます、ミケさん。」と穏やかな声で挨拶をされた。


「………………。敬礼くらいしたらどうだ…。」


呆れながら言葉を返すと、「勤務時間外ですので。まあ……大目に見てやって下さい。」とこれもまた笑顔で応えられる。


「記憶が正しければ、そこは俺の席の筈だが。」

相変わらず調子の良い奴だな、と思いながらミケは歩を進めて彼女の元へと近付いた。

ユーリが「ふふ、」と笑い声を漏らす。何を笑っているのかと尋ねれば、「久しぶりにミケさんに会えて嬉しいんですよ。」と冗談か本気か分からない返答をされた。


「………私、クビになっちゃいました。」


ユーリは本をパタンと閉じ、机に肘をついて頬杖しながらなんでもないように言った。

意味が飲み込めず、不思議そうな表情をするミケに対して、彼女は「リヴァイさんの班。」と言葉を付け加えた。


「………何かやらかしたのか。」

「いいえ、とんでもない。誰よりも誠心誠意込めて仕事に励んでいたつもりですよ。大方私の才能に嫉妬した何者かの陰謀です。」

「………………。」

「…………冗談です。そんな顔しないで下さい。」


…………若干恥ずかしそうにしながらユーリは言った。照れ隠しなのか手持ち無沙汰に髪を弄るので、その際に右の袖口から白い包帯がちらと見え隠れした。


(……………………。)


おもむろ掌を引いてその場所を確かめようとする。

ユーリは少し驚いたようにするが、すぐに腕を自らに寄せて袖を正そうとした。しかし、ミケが彼女の腕を離さなかった為にそれは適わない。


…………そのままで、暫時二人の間に気まずい沈黙が横たわる。それを誤魔化すように、ユーリが愛想の入り混じった笑みを浮かべた。


「……………まあ。そんな訳で、またミケさんのところでお世話になるので……ご挨拶を、と。」


スローなテンポで言葉を紡ぎながら、ユーリは今一度腕を引いて解放を促した。

彼女の言葉を無視して、ミケは「これは………どうしたんだ。」と訪ねる。「一体、なにがあった。」と続けて。


「何も……。」


ユーリが、ミケの瞳を見つめながらポツリと応えた。


「何も…ないですよ。いつも通りなんです。………だから分からないんです。私、役立たずなんでしょうか。」



ユーリは机の上へと置いた書籍を、空いている手の指先で軽く触った。深い赤色をした表紙が、使い古されて皮膚病のように斑らに禿げ上がっている。


はあ、とミケは溜め息を吐く。それから、「他は………」と呟くように尋ねた。

「はい?」

ユーリは質問の意味が分からなかったらしく、首を僅かに傾げて聞き返す。


「他に…他の箇所に、怪我は。」

ミケが自分の言葉を補ってやると、ユーリは「ないですよ。心配して下さってありがとうございます。」と淀みなく返答する。

「嘘だな。」とミケは彼女の答えが終わらないうちに言葉を被せた。……ユーリは少し驚いたようにパチパチと瞬きをした後、え…?と小さく呟いた。その後に続く言葉は、選べずにいるようである。

やはり嘘か、とミケは心の中で呟いた。


「………………見せてみろ。」


彼は、言い聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。ユーリは未だにじっと彼のことを見上げていた。前髪の間から覗いた青色の瞳の中に、いつかと同じような迷子の子供に似た不安げな陰が宿る。

……しかし、すぐにそれは鳴りを潜めた。ユーリは先ほどまで書籍になぞらせていた人差し指の先をぴっと立ててミケの方を指す。そして唇にニコリとした弧を描いた。


「タダじゃあ見せてあげれない場所なんで、駄目です。」

「…………………。」


ミケは思わず閉口し、呆れた奴だ…と呟きそうになる。……が、すぐに気を取り直し、「そうか。」と相槌を打った。


「なら払おう。いくらだ。」

「えっ」


今度はユーリが閉口する番だった。しかし彼女もすぐに元の笑顔を取り戻し、「やだミケさん、助平ですねー。」と楽しそうに応える。


二人は少しの間、互いをじっと見つめ合った。ユーリが「ふふ。」と小さく笑う。それから、「ありがとうございます。」と静かな声で言った。


「………何に対しての礼だ。」

「色々ですよ。私…こうやって貴方に気にかけてもらえるのが、嬉しいんです。」


すごくね、と呟きながら…ユーリは人差し指を立てていた掌をそっと、自身の腕を握っているミケの手の甲の上に置いた。そのまま持ち上げ、自分の近くまで彼の手を導いていく。


「…………見たいですか。」


両手でミケの掌を包み込むようにしながら、ユーリはゆったりとした口調で尋ねた。

握られた手に、力が少しずつ加わって行くのをミケは感覚する。黄金を透明にしたような光が執務室の中へ細く差し込んでいた。それに反射して、彼女の髪が淡く光る。

こう言ったときのユーリの表情は、ミケ自身も驚くほどに劣情を煽ってきた。しかし、彼は身体の中に蟠り始めた熱を逃がすように、細く細く息を吐く。そして、一拍おいて「いや。」と否定した。


「遠慮しておこう…。」

やや掠れた声でようやくそれだけ返すと、ミケは何だか身体がどっと疲れるような心地になった。

ユーリは「そうですか………。」と応える。そして、やっと聞こえる位の声で「優しいですね…ほんと。」と言葉を零す。


彼女はミケの手を握り続けている。重なると、二人の皮膚の色だとか質感の違いがより一層際立った。白い彼女の手の甲に青い血管が薄く透けているのが、妙に生々しく印象的な光景としてミケの瞳の中へと映り込む。


「じゃあ……代わりと言っては何ですけど。ねえミケさん、なにか欲しいものはありますか。」


…………ふと、ユーリが仕切り直すように声の調子を明るくしてミケへと尋ねる。

その表情にはもう先ほどの扇情的な様子は無く、平素の人懐っこい笑顔が宿るだけであった。

残念なようなホッとしたような気持ちになりながら、ミケは「どうした急に。」と彼女につられるように気の抜けた笑みを浮かべながら質問を返す。


「いえ…急って訳じゃないんですけどね……。」

答えるユーリを、「良い加減そこから立て」と握られたままだった手を握り返して立たせてやる。

………力が強かったのか、ユーリは立ち上がるついでに大きくミケの近くに引き寄せられる。しかし嫌がる様子もなく、むしろ嬉しそうに彼女はミケの傍ら、すぐ側に立った。


「なんて言えば良いんでしょう。………私、よく分からないんですよ。何をすれば人が喜んでくれるのか。」

今まで、あんまりにそういうことを無下にし続けてきました…。とユーリは少ししょんぼりとした情けない声を出す。

その様が何だか可笑しくて、ミケは思わず鼻で笑ってしまった。「…………何ですか、その反応。」と、彼女は些かムッとしたようなので一応の謝罪を述べる。


「……………。まあ。質問に質問で返すようで悪いが。逆にお前、何か欲しいものはないのか。」

「え?」

「自分が欲しいものを与えてやるのが、まずは良いんじゃないのか。汎論としては……。」


ユーリにしては珍しく、随分真面目な表情でミケの言葉に耳を傾けている。そして、彼女は数回ほど何かを確かめるように頷いた。それから「欲しいものか…」と呟く。


「私だったら……そうだなあ。」


独り言のように言葉を零してから、ユーリは両の手をゆっくりと伸ばしてくる。

彼女はミケの両頬を、触れるか触れないかの微妙な仕草で包み込む。そして、ようやく思い付いたように「ああ、そうだ。」と声を上げた。


「笑ってくれませんか、ミケさん。」


そう言って、ユーリはあどけなく笑った。…………恐らく。歳の頃より幼くも見えるこの表情が、彼女の本質なのだろう。違うかもしれないが。だが、ミケはそうあって欲しいと願った。


(若しくは、それに限りなく近しいものに………。)


こちらを見上げていたユーリが、可笑しそうに小さく吹き出す。どうした、と尋ねれば、貴方の笑い方が下手くそすぎるのだと言う。


「普段人を鼻で笑ってばかりいるから、いざという時にちゃんと笑えないんですよ。」

「それは……悪かったな。」

「…。ああ、面白かった。…ふふ。………悪くなんかないですよ。やっぱりミケさんは素敵です。……とても。」


ユーリはミケの皮膚の近くから指を離し、僅かに色付いた自分の頬をそろりと抑えた。

愛情深い仕草だと思った。彼女なりに、この数年間何かを変えようと努力はしてきたのだろう。悩みは未だ尽きない様だが、その安らかな姿は随分とミケを安心させた。


「…………………。」


見つめるほど、痛いくらいに愛しさが込み上げて来る気持ちがして、掌でそっと彼女の髪から頬を撫でさすった。ユーリは少しこそばゆそうにしながらもその行為を甘受して瞼を下ろす。

指先に感じる暖く滑らかな触感はミケの身体の芯を熱くした。抱きしめて思い存分愛しがってやりたくなるが、顔を近付け額を静かに合わせるだけに留める。

ミケは、彼女に対する直接的な愛情の表現を意識して控えていた。………且つて彼女がいた場所の人間と、同じようには思われたくなかった。


(だが…………。)


「ユーリ」

名前を呼ぶ。囁くような声で、返事がなされる。


「俺が欲しいものを…教えてやろうか。」


そこで言葉を切って、ミケは僅かの間思案する。それから、ゆっくりと言葉を続けた。


「いずれ………な。」



ユーリの唇は明け方の空と同じように淡い色をしていた。どこかで、これに似た色の花をミケは見たことがあった。いつかは思い出せないが。

心の中に湧いて来る種々の思いに応じて、物は言わないでも震えているらしい彼女の唇に口付けた。今は、触れるだけで。

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