◆誓い
気配を感じた。覚えがある感覚だ。
急がなくては、とユーリは思う。自分は早く目を覚まして、この気配の主を確かめなくてはいけない。
(…………………。)
しかし、急いでベッドから起き上がってみれば、どうやら目を覚ましているのは自分だけのようだった。
昨晩遅くまで飲み、食べ、言葉を交わした仲間たちは未だ夢の中らしく、部屋は穏やかな寝息で満たされていた。
「…………ふふ。」
ユーリはなんだかおかしくなって笑ってしまった。
この部屋で、こんな朝を迎える日が来るなんて。初めてこの物置みたいな場所に足を踏み入れたときは思いもよらなかった。
いつもは多少広すぎると感じるベッドも、現在はリーネとペトラが大部分を占拠している為にまるで窮屈な状態だった。
彼女たちを起こさないようにユーリはそっとベッドから立ち上がる。
驚いたことに、床にも平気で寝ている男たちがいる。寒くはなかろうか、と心配になったユーリは壁に引っかかっていた自分のコートをかけてやる。
ミケも、例の…いつもの椅子に座ってすっかりと眠ってしまっているので、ストールをそっと膝の上に乗せてやった。
(………昨日、楽しかったなあ。)
笑ったままで、ユーリは窓の外へ視線をやる。明けたばかりの空の色は薔薇によく似た甘い色をしていた。
(あれ…………。)
ふ、と視線を机の上にやる。乱雑に食器やグラスが置かれている中に、見慣れないものがひとつ。
(……………くま?だよね。)
ブロンドの体毛を持つぬいぐるみを抱き上げてやれば、柔らかい感触がそっと指先に伝わる。
しばらく、じっとそのくまの顔を見つめてみる。ガラス玉で作られた瞳がじっとこちらを見つめ返してきた。
その瞳に、朝日の薔薇色が反射している。あくまで愛らしい容姿をした彼が、くたりと重力に従って首を傾げた。その際に、覚えがある匂いが微かに香る。
(……………!?)
……………勢いよく、ユーリは顔を上げた。扉を眺める。古びた木の扉は半開きだった。その先には暗い廊下が広がるのが見える。………しかし、そこに人の気配はなかった。どこからか吹く風によって、小さな軋みを上げながら動くだけだった。
(そんな、嘘だ。)
(こんなの)
(嘘だよ。)
きっとまた、夢を見ているに違いがないと思った。
しかし、彼女が立つ場所は間違いなく現実だった。………何かを誰かに訴えようと、唇が半開きになる。しかし言葉を出なかった。代わりに透明色の涙が頬を伝う。
(こんな……小さい女の子にあげるようなもの……)
「どうか、してるよ……」
小さい声で呟きながらも、ユーリは嬉しかった。
そして、今更ながら自分がひどく幸せな場所に立っていることに気が付く。………本当に、今更。
黄金色の毛並みのぬいぐるみを、ユーリはぎゅっと抱き寄せた。予想した通りに柔らかく、温かい彼の質感が皮膚へと伝わってくる。
―――薔薇色の朝日はやがて部屋の中をゆっくりと白く照らしていく。それが眩しかったのだろう。立ち尽くすユーリの傍、ミケが身動いで目を覚ます気配がする。
彼はユーリに気が付いたらしい。「ああすまない、寝てしまって…」と回らない舌で謝罪を述べる。
しかし、反応がない彼女を不思議に思ったに違いがない。顔を上げ、改めて「ユーリ?」と尋ねてくる。そして彼女の姿を認めては、静かに息を呑んだ。
「……………。なんだ、お前………」
また、泣いてるのか。
ミケの言葉が言い終わらないうちに、ユーリは勢いよく彼の腕の中に飛び込んでいった。黄金色の毛並みのぬいぐるみを抱き締めたままで。
ミケが昨晩のユーリのように状況が掴めず驚いているのが、なんとなくではあるが伝わってくる。それでもゆっくりと抱き返してくれるところが、彼の彼たる所以だろう。
「い、今からでも……私、遅く、ありませんか……。」
彼の逞しい胸板によって遮られ、ユーリの声はいくらも響かなかった。ユーリは顔を上げる。黄金を透明にしたような朝日の中で、驚いたような表情をしたミケが彼女を見下ろしていた。
「私……今からでも…変われますか。」
ユーリはミケの身体を抱きしめる力をしっかりと強くしていった。彼の戸惑いも構わず、自分の不安と焦燥、それから嬉しさと喜び、全てをない交ぜにした感情を辿々しく伝えていく。
「私なんかでも…皆に、なにか返すことが出来ますか。」
喋るたびにポタポタと涙が落ちて、彼の衣服を汚してしまうのが分かった。それでも、離れたくはなかった。
「だって私……私だって、皆に愛されたいし、愛したい。」
昨晩抱いた感謝の気持ちが、せめて少しでも伝えることが出来たら、と願いながらユーリは彼のことを抱き締めた。
「好き……大好きです。皆、大好き。ありがとうございます。嬉しいです。………本当に。」
堰を切ったように、今まで言えずにいた正直な言葉がユーリの唇から紡がれるように続いた。
ミケはしばらく彼女を落ち着かせるようにその背中を撫でてやっていたが…やがて、ゆっくりとした動作でユーリの唇に指先を当てる。
彼は声は出さずに口の動きだけで「分かった。」と伝える。そして辺りを見回し、周囲の未だ眠りの中にいる仲間たちを見回しては「起きられると困る。」と視線で示した。
ユーリはハッとなり、それもそうか、となんだか照れくさくなって笑った。
ミケが立ち上がり、自分にかけられていたストールを机の上に置く。そしてユーリへと小さく笑いかけてから、その白い指先を引いて歩き出した。
ユーリはぬいぐるみを抱いたままで、促されるまま後に続く。
薄暗い廊下には、窓から斜めに朝日が差し込んでいる。光の粒が石造りの床に散らばり、この世の始まりとも終わりともつかない光の風景が薄闇の中に浮かび上がっていた。
「どこへ……」
ユーリが言葉少なに尋ねると、ミケもまた「花を…」と言葉少なに答えた。
「花を、摘もう。………新しい花瓶も手に入れたことだろう。」
ぼんやりとした気持ちで、ユーリは自分の手を引いて一歩前を歩む大切な人の背中を眺めた。
「はい。」
小さな言葉で、返す。
「はい……!」
その一言に、自分の全ての気持ちを込めたような心地がした。
「……泣くな。」
こちらの様子をちら、と伺ったミケが言う。
「泣くな……ユーリ。」
繰り返し優しく言葉をかけてくれることが、ありがたかった。
本当に少しだけでも、優しくしてもらえれば自分は生きていける、とユーリは思った。
(だって…ここの皆は、私のこと、歓迎してくれた。ここにいて良いよ、って許してくれた……。)
こんな救いようのない人間でも、生きていても良いのなら。生きているのが許されるなら。許してくれる人間がいるならば。人を愛することが出来たなら。
(せめて、愛する人を笑顔にしたい………)
外に出ると、空は気持ちよく晴れ上がり、透明の光が真っ直ぐに地面へと降ろされていた。
ミケの掌を握ったままで、ユーリは一度深呼吸をする。
そこでミケは……ようやく、と言った体で彼女の腕の中に抱かれたぬいぐるみへと言及する。
「さっきから気になってたんだが…お前、一体何を抱いてるんだ。」
「さあ……私もよく分かりません。起きたら机の上に置いてあったんですよ。」
ようやく涙が収まったユーリは、少し困ったように笑いながら返答する。ミケは「……はあ。」と相槌を打つに留まった。
「摘んでくれるですよね、花。一緒に。」
嬉しいなあ。とユーリは気持ちよく笑ってみせた。ミケは黙っていたが、ユーリは本当に嬉しかった。こうして一緒に過ごす時間に、ずっとずっと憧れていた。
「見て下さい。すごい、綺麗……。世界って美しいんですね。」
朝日に照らされて白く輝く景色を眺めて、ユーリは溜め息交じりに述べる。
今度はユーリがミケの手を引いていく番だった。
……彼女は、未だミケが自分に対して抱くものは本気ではないと信じていた。
一時の同情的な気持ちなのだ。彼は優しいから。
そしていつか、自分に対する愛情が勘違いだったと気が付く日が来てしまう。
だが、良い。
良いのだ。そういう、哀れな存在でも良い。運命に翻弄され続ける道化でも構わない。
好きな人に一番に好いてもらわなくても…ひと時だけでも笑顔にすることが出来れば、それが自分にとっての幸福だ。
ひとりでも多くの大切な人に笑ってもらえることが、きっと………
「ユーリ。」
ミケが、ユーリのことを呼び留めた。振り返ってみると、ミケは所在無さげな表情でこちらを見下ろしてくる。
「本当に…嬉しいのか。俺なんかといて。」
そして、至極真面目な表情で訪ねてくる。
なんだかユーリは堪らない気持ちになった。……勿論、と答える代わりに、「ミケさんはどうなんですか。」と無粋と理解しながらも質問に質問を返す。
「俺は………そうだな。」
元より言葉が足りない彼は、少し考えるような素ぶりをして黙った。冷たい風が、彼の燻んだ色の頭髪を揺らしていく。
やはり、彼の言葉は足りなかった。ミケは繋がっていた手を離し、そのままユーリのことを不器用な仕草で抱き寄せた。まるで何かに戸惑っているように。
「ユーリ。…………ユーリ。」
ミケはかすれた声で腕の中の存在の名前を呼ぶ。
……彼が何を自分に伝えたいのか、今のユーリにはよく理解できなかった。
ただ、幸せであることは確かだった。今この時がずっと続けば良いと思った。
だからせめてその気持ちを伝えておこうと、心を込めて「大好きですよ。」と呟く。
(そして………私はずっと覚えておこう。)
愛しい人に抱かれる幸せを全身で感じながら、ユーリは心の中で誓った。
傷付けた人、これから傷付ける人。笑ってくれた人、笑って欲しい人。
清濁合わせて全部を覚えておこう。
目も背けたくなるような傷も罪も、全部が自分を形作っている。
(そして、それだけが私の明日を形作ってくれる)
小さな葉、可愛らしい花、遠くへと続く青い山、その更に向こうにある影色の壁さえも、朝日を一面に受けて輝きわたっていた。総べてのものは、よりよく生きようとしている。
ユーリは愛の言葉を繰り返しては、自分にこの光を与えてくれたひとりであるこの男性にただ、ただ、感謝をした。
第一章 Sonate - end
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