道化の唄 | ナノ

 ◆確認 2


「ねえミケさん。外に出ても良い?」

ミケが持ってきた食事を綺麗に胃に収め終わったユーリは、毎度馴染みのベッド脇の椅子に腰掛けるミケへと小さく首を傾げながら尋ねる。

「駄目だ。」

ミケはにべもなく答えた。ユーリは些か不満そうな表情をするが、すぐに「ミケさんと一緒でも?」と食い下がってくる。


「…………お前。謹慎の意味を分かっているのか。」

「分かっていますよ。崖よりも深く壁よりも高く反省しましたって。」

「…………………。」


はあ、とミケは溜め息を吐く。

やっぱりダメかあ、とユーリはちょっと肩をすくめてみせる。当たり前だ、とミケは眉をしかめつつ応えた。


「じゃあ、窓を開けて良いですか?」


続いたユーリの質問に、それくらいなら…とミケは承諾する。

自分の望みが聞き届けられたことが嬉しかったのか、彼女は殊更幸せそうに笑ってみせた。


ユーリの部屋の窓………古く傷んだ木の桟に縁取られた窓が、軋んだ音を立てて開かれる。

その晩は満月だった。石鹸玉に似た虹色の月が、糸のような細い光を部屋の中へと運んでくる。


「すごい…綺麗ですよ。」

見てください、ほら…!とユーリは椅子に座ったままだったミケの方を振り返って声をかける。

促されてミケは彼女の傍らに立って窓の向こうの空を見上げた。

しかし、ミケにとってはいつもと変わらない月としか思えなかった。確かに満月であることは美事だが、それも月に一度必ずあることだ。少し待てば、また同じものが空に浮かぶ。だから彼は満月に対して特別の感慨を抱くことは無かった。

だが、ユーリはまるで心を奪われたかのように月を眺めていた。「綺麗。」溜め息。「本当に……」後、目を閉じた彼女の前髪が月光に照らされて金色に光る。


「そんなに………か。」

無意識に、ミケは下ろされていたユーリの髪へと指先を触れる。彼女はゆっくり目を開き、自分よりも随分と背の高いミケの顔を見上げた。

ふとミケは我に帰り、ユーリの肌へと触れようとしていた掌をそこから離す。しかし彼女はそれを留めるように握っては元の位置に戻した。


「そんなに、ですよ。」


ユーリは窓の桟に寄りかかり、銀色のガラス玉のような月をまた見上げた。その瞳の形はどこか寂しそうで、何故か悲しそうだった。

「私……月を初めて見たのって、つい最近なんです。育った場所には空がありませんでしたから……」

それを聞いて、ミケはようやく納得した。なぜ彼女がここまで月光に感動を覚えるのか、空に近い場所を好んでは留まっていたのか。


「この景色を見られただけでも……あそこから抜け出して…生きてきた価値があったと、そう思うんですけど。」

ミケさんも、あの時私を助けてくれた人の中にいましたよね。……どうも、ありがとうございます。


ユーリの感謝の言葉には、どこか儀礼的な響きがあった。恐らく彼女は気が付いているのだろう。

かつて、ミケがどんな気持ちでユーリに接していたか。現に、彼女独特の夜の匂いは未だにミケにとって馴染まないものだった。

そういった生き方しか選べなかったとはいえ、軽蔑………そのような感慨が、ミケの胸になかったとは言い切れない。


「でも………それでもやっぱり私、ダメですね。もっと多くを望んでしまって………」


月を見上げていたユーリの顔が、ひとしお悲しそうにくしゃりと歪んだ。

本当に微かな声で、彼女は お父さん と呟いた。それを、確かにミケは聞いた。


(ああ)


彼女が今一番に望んでいるのは、父親の愛情なのだ。


(結局………俺は、その代わりなのだろうか。)


それを思うと、ミケの心には言いようのない憤りが走った。彼女に触れていた指を離し、深い溜め息を吐く。そうして、低い声で「俺はお前の父親ではない。」と言った。


「俺は……ミケ。ミケ・ザカリアスだ。決してエルヴィンではない。勘違いをするな。」


…………思いもかけず、冷たい言い方になってしまった。ユーリが少々驚いたように彼の方へと再び視線を戻す。

そして、彼女は苦笑した。


「なんだ。知ってたんですね……。私の、お父さんのこと。」

また……ユーリは、離れて行ってしまったミケの掌へとそっと指を伸ばした。両手で包み込むように触れて、自分の頬の側へと持ってくる。大切な何かを扱うように、ひどく丁寧な仕草で。


「ミケさんがミケさんだってことくらい、馬鹿な私だって知ってますよ。」

ユーリの視線は未だにミケの瞳を捉えたままだった。青白い月光がその顔へと斜めに差し込み、白い肌を陶器のように無機質に光らせていた。


「ミケさんがもっとずっと若くても…同じ年でも、例え私より年下でも…私きっと、貴方が好きです。」

好きなんです。


告白に続けて……ユーリはまた、ごめんなさい、と謝った。

謝らせてばかりだな、とミケは思った。それと同時に、自分の幼稚な嫉妬とも思える感情を恥じた。


彼女が望むように、再び掌でその頬を撫でてやった。前髪の奥の瞳がゆっくりと細くなっていく。その唇が、緩やかな弧を描いた。………本当に、ごく稀にしか見られない彼女の心からの笑顔だった。

撫でていた掌を後頭部へとそっと回す。ユーリの真っ直ぐに伸びた髪が指の間に滑るように入り込んできた。

…………自室謹慎の甲斐あってが、彼女から漂う夜の匂いは薄くなっていた。


ミケは一瞬逡巡した。またユーリを傷付けはしないだろうかと。

だから、聞いた。「良いか。」と一言。

暫時、ユーリはきょとりとした表情をする。それから、「そんなこと聞いてきたの、ミケさんが初めてですよ。」と可笑しそうに笑った。


だが、確認を取った割にはミケの空いていた腕はいつの間にかユーリの身体をしっかりと抱き寄せていたし、後頭部に回った掌だって彼女を逃さないようにするには十分すぎるほど力がこもっていた。


………ふう、とユーリが苦しそうに唇の端から漏らした息が彼の皮膚を淡く掠めた。それを飲み込むように彼女の唇を舐めとり、その際に開いた僅かな隙間から些か乱暴に入り込んでしまう。

ここまでは、しないつもりだった。いつもそうなのだ。ユーリはミケの何かを衝動的に揺さぶるものを持っていた。こらえきれず、どうしても求めてしまう。


月が。月が、糸のように細い光を窓辺から室内へと運んでくる。その光がユーリの髪の向こうで眩しいほどに輝いていた。

この時、随分と久しぶりにミケは月を美しいと思った。弱い光が自らの皮膚をなぞるのを感じる度に、心と体が打ち震えて……本当に、どうしようもなかった。





ミケに強く抱かれ、焦燥すら感じるほどに激しく求められる中……ユーリの心は、どこか冷めていた。

彼女は、自分が誰かに心の底から愛されることは一生無い、とすでに理解していた。

ミケは……彼女がどういった人間なのか、どういったことをしてきた人間なのかすでに知っている。

ひと時の気持ちに身体を委ねることはあっても、所詮戯れに過ぎないのだろう。そのことを繰り返し、繰り返し。自分自身に言い聞かせては…彼から与えられる全てを甘受し続けていた。


(ミケさん)


そうしてユーリは………本当に、心の底から彼のことを愛しているのだと改めて痛感させられる。(やっと)しかし想いが成就することは無いのだ。(初めて)この片思いが永遠に続くのかと思うと、目の前が真っ暗になるような絶望感が胸の内に押し寄せる。(人を恐れず愛することができるようになったのに)


(ミケさん……)


彼は、調査兵団の分隊長である。兵団内でも1、2を争う実力の持ち主で、優しく人望も厚く、皆から愛されている。

彼のような素敵な人間をユーリは見たことがなかった。そんな彼が、年端もいかない心も体も薄汚れた小娘にどうして本気になれるのだろう。


(いつか、私は彼にお別れを言われる時が来る。)

(それでも……そのほんの束の間を。)


未来。自分たちのような職業に必ずしも未来があるとは限らないが………それでも、彼の未来。

素敵な女性と寄り添い、幸せになる。子も成すのかもしれない。そうして自分のことなど遠い記憶の彼方に忘れ去るのだろう。


(でも、私は覚えています。)


なぜ、いつもこうなのだろうか。とユーリは改めて運命を呪った。


(ずっと……永遠に。)

(約束します。私は私に、そう……約束します……。)


いつも想いは伝わらず、声は届かず、望んだものは手に入らない。

だからこそ、欲しいのだ。欲しくて欲しくて……けれど、決して手に届かない自分だけの愛情を……



胸の奥深くを走る張り裂けるような痛みをこらえながら、ユーリは口付けられる合間にようやくただ一言、「好きです」と呟いた。繰り返して、呟いた。

それに応えたのかどうかは分からない。彼女を抱きしめるミケの腕の力がまた少し、強くなっていく。

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