◆噂
愛とか恋とか、そういう感情は最も忌むべきものだと思っていた。
体でしか繋がれない哀れな男女の関係を軽蔑した。
けれど私は自分が楽をする為に、自分の身体や行為を売り物にした。
だから……劇場の客や、周囲の人間をいつも見下していた。
私と彼らの違いなど何一つ無いというのに…
そうやっていつも、自分だけが可愛くて、誰のことも思いやることができなくて…………
*
「駄目だ、どこにもいない。全くもって跡形もないよ……」
はあ、とナナバは溜息を吐き、仕事に勤しむミケの傍の椅子に腰掛けた。
その方をちらと見て、ミケは一度だけ頷く。
「急にいなくなっちゃうなんて……ユーリ、本当にどうしたんだろう。」
呟きながら、ナナバは背もたれへと身体を預ける。そしてミケへと「ねえ、何か思い当たることない?」と尋ねた。
「………………………。」
ミケは何かを考えるように暫時作業する手を休めた。それからゆっくりと「いや………ないな。」と返す。
「そう?」
まあそりゃそうだよね。君とユーリはそこまで親しくなさそうだったから……とぼやくようにしてナナバは肩をすくめた。
親しくないことはなかった、とミケは言い返したかった。少なくとも自分は彼女に対してある程度の親しみを持っていた。
(しかし…………)
当たり前だが、ミケはユーリがこの調査兵団の公舎からいなくなった理由に思い当たる節があった。
だが、それをどうして今言葉にできるだろう。
執務室は相も変わらず沈黙に閉ざされていたーーーーー
*
「いないのよ!!どこにも!!!」
バアン、ペトラが机を叩く音が辺りに木霊する。
向かいに座っていたオルオは、すっかり青ざめたペトラの顔を少しの間ポカンと眺める。
そして一言、「そうか。」と零した。
「そうかじゃないわよ!!こっちは真面目なのよ!??」
掴みかからんまでのペトラの剣幕。オルオは面倒くさそうにしながら「だって俺には関係ねえし…」とそれに返した。
「はあ!??関係ない??仲間でしょ!??」
「そりゃー同僚だけど俺あいつ嫌いだし…」
「嫌い!?妬んでるだけでしょあんたの場合!!よくもそんな薄情なこと言えるわね!この無能!!カッコつけ!!老け顔!!!」
「はいペトラ、そこまでね。オルオが本気でヘコんでる。」
見かねたリーネが横から口を挟んだ。
彼女が言うように、オルオは机に突っ伏して意気消沈していた。しかしペトラの気は収まらないらしく、「でも…!」と言葉を続けようとする。
「私たちがいるのはこういう兵団だ。脱走者だって珍しいことじゃないでしょ。」
ペトラに反してリーネは相変わらずクールだった。
そんな彼女に促されてかペトラの頭も少々冷えてきたようである。長い溜息を吐いては小さく「ごめんなさい、取り乱していたわ。」と呟く。
「でも……ユーリの場合、脱走とは…ちょっと違うと私は思う。」
ようやく落ち着いたペトラを椅子に座るように薦めながら、リーネは続ける。
「私もそう思います…。だって彼女、壁外調査の時だって恐怖しているようには見えなかった。交友関係だって概ね良好で、いなくなる理由なんて……」
「うーん。そういうことじゃないんだよね。」
ペトラに言葉を返しながら、リーネは中空へと視線をやった。
その様を退屈そうに眺めるオルオ。欠伸をひとつ。
「なんていうか…私から見て、ユーリってよく分からないんだよ。まず入団した年齢が普通よりは随分上だった。特に壁外調査や兵団の仕事に対して意欲的という訳でもないし、何の理由があってここに入団したのか皆目見当がつかないんだ。」
「お前良く見てるなあ。あいつの事なんかどうでも良くね?」
「きっと…彼女がここにいる理由は、私たちが抱く理想や目的とは違ったところにある。」
オルオの発言を無視しながらリーネは続ける。ペトラはそれを神妙な面持ちで聞いていた。
「でも…ここにいる理由があるなら、何故今更いなくなっちゃったんだろう…」
「さあ…。逆に考えると、その理由がもう無くなったか…。若しくはいられない理由の方が大きくなったのか……」
二人が話している合間、窓の外では細かい雨が降り始めていた。
リーネは濡れ始めた外の景色を鬱陶しそうに眺めながら、「冷たそうな雨」と呟いた。
ペトラもまた、一帯を灰色に曇らせる霧雨の様子を見つめていた。
「どこかで雨宿りできてればいいんだけど。」
彼女の小さな言葉に相槌を返す者は、誰もいなかった。
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