道化の唄 | ナノ

 ◆告白


夜中、何度も悪夢で目を覚ました。

覚えてはいないが、ひどい夢だった。魘されて、涙を流して、助けを求めたくて、誰かの名前を呼んでみたかった。

でも、誰を呼んで良いのか分からなかった。呼ぶのが怖かった。きっと私の呼びかけには誰の返事もない。そこには、何の救いも無い。


黒い霧がかかったように辺りの景色はまるで見えなかった。

それでも、何かを求めて喘ぎながら手を伸ばす。


「……………けて」


囁けば、指先が冷たい何かに触れる。

違う、触れたんじゃない。触れられたんだ。


(誰かいる。)


それだけで、心の底から安心することができた。

触れた誰かの指先を握り、絶対に離さないようにしながら自分の方へと引き寄せた。


「ここに、いて」


自分の声は全く響かず、驚くほど小さかった。それでも縋るように同じ言葉を繰り返す。

誰かの冷たい掌が、自分の頬に触れていく。安心させようとしているのか、そっと頭を撫でられた。


(これも夢かな。)


夢でもいいと思った。覚めた時に悲しくなるだけだと分かっていても、繋がれた掌を決して離したくは無かった。







(もう直……夜明けかな。)


夜の終わりを、ユーリはなんとはなしに感じ取る。夜間朦朧としていた意識はどうにか定まるようになっていたが、全身が鉛のように重く身体は全く動かなかった。

感覚で、自室のベッドに寝かされているのだと分かる。恐らく気絶している間にミケかナナバが運んでくれたのだろう。


「いやあ……迷惑かけまくり、って感じかな?」

へへ、と力なく笑いながら独り言ちてみれば、「全くだ…」と思いがけず相槌が返ってきた。


「…………………。」


ゆっくりと瞳を開き、ユーリは声がした方へと視線を向ける。

…………いつかと同じように、馴染みの上官がベッドの傍らの椅子に腰掛けてこちらを見下ろしている。


「どうも。すみません。」

ユーリは弱々しく笑った。ミケはそれに応えない。暫時、二人は黙ってお互いの顔を眺めていた。


「……。すまなかったは、俺の台詞だ。………悪かった。」

ようやくミケはその一言を彼女に対して告げる。ユーリは何も言わずに、じっと彼の言葉に耳を傾けていた。


「俺は、どうやらお前にとって踏み込んではいけない場所を侵してしまったようだ。」

そうだよな、と確認を取るようにミケは続けた。

しかしユーリからの答えを待っているというわけではないらしい。返事は待たず、独り言のように言葉を続けていく。


「これからは、決して深入りはしない。親密さを無理に求めることも控えよう。」


薄い青色に色付いた外の空気が室内に斜めに差し込んでいる。それに照らされて、サイドテーブルの空き缶の銀色が鈍く光った。


「お前は…優秀だ。いなくなられては、兵団として手痛い。」


あくまで事務的な口調を心がけて、ミケはユーリへと言葉をかけ続けた。

彼女はただじっとしてそれを聞いていた。もちろん、高熱の所為で動くことはままならない筈だが。


ユーリの青い瞳は宵の空のように透き通った色をしていた。

その目で真っ直ぐに見られるのが、今のミケには辛かった。


ゆっくりと、ユーリが半身を起き上げようとする。

無理をするな、とミケはよろめく彼女の身体を支えてやった。

ミケの肩に頭を乗せたユーリの体温はやはり高く、このまま溶けてなくなってしまいそうな心地がした。


「違う………」


先程よりも随分と距離が近くなったので、ユーリの声は聞き取りやすかった。

しかしながら、その声はか細すぎる。ミケはできるだけの神経を耳に集中して彼女の言葉を聞き逃さないようにした。


「謝らないで下さい…どうか。貴方は何も悪いことをしていない。」


ユーリの青白い指先が、ミケの服を弱々しく掴む。あまりにも頼りない仕草が不安で、思わず彼はその掌を包み込むように握ってやった。


(しまった)

ついさっき、余計な深入りはしないと言ったばかりにも関わらず、である。どれだけ自分の意思が弱いのかと頭を抱えてしまいたくなった。


「私、本当は……ミケさんに触ってもらえて嬉しかったんですよ…。だから、貴方が気にすることは何もないんです。」

しかしユーリは構わないようで言葉を続けていく。


「ここに来て……何も分からなくて不安な時に、いつも温かい言葉をかけて優しくしてくれて……私は本当に救われていたんです。」


ミケの肩に乗せていた頭を、ユーリは首筋の方へと移動した。

熱に苛まれながら辛うじて何かを伝えようとする、彼女の弱い吐息がミケの皮膚へと直に伝わってくる。


「貴方を思って、身体が熱くなる日がいつの間にか続いていました。今だって…きっと、熱のせいだけじゃないんですよ……。」


ねえ、知っていましたか。


握られていない方の彼女の手がミケの背面へと回る。弱い力ながら、ユーリはしっかりとミケの身体を抱いていた。ミケもまたそれを拒否しなかった。握る掌の力を強くして、応えてやった。


「貴方みたいな素敵な人、好きにならない方がどうにかしています。……………本当に、本当に…ごめんなさい。」

「………。先ほどから、一体何に対してそんなに謝るんだ。お前に謝罪すべき咎は何も無いだろう。」


彼女を落ち着かせるように、ミケはその金色の頭髪を撫でてやった。

しかしユーリは首を横に振る。


「泣き虫だな」

そう言って苦笑すれば、ユーリは「ミケさんの前で…だけですよ。本当に…」と言って流れ始めた涙を拭った。


「私は今、自分がひどく軽蔑していた人たちと同じ感情を持っています。私は…自分が汚らわしい…。許せない、大嫌い……どうか、軽蔑していください…。」


ああ、とミケは思った。

この女は、人を愛したことも愛されたこともないのだ。そして何より、自分を愛することが出来ずにいる。


「私はあなたに触りたいんです…。こんな触れ合いだけじゃ、全然足りない…………。」

好きになっても迷惑だって、分かってます。増して愛されたいだなんて…そんな烏滸がましいことを…………


私は。ずっと。



ユーリは顔を上げ、ミケのことをはたと見据えた。

ミケもまた、彼女の瞳をしっかりと見つめ返してやった。ごく近い距離で視線を交えたまま、二人はしばし沈黙する。


「好きです。」


そして、ユーリはゆっくりと言葉を告げた。


「愛しています。」


外の雨脚はやや弱くなっているらしい。しかし静寂した室内、雨の音はよく響いた。


「ごめんなさい………!」


それは、愛の告白と言うにはあまりに切迫し、悲哀に満ちたものだった。

こんなにも辛苦に塗れた言葉をミケは初めて耳にした。


だから、何も言えずにいた。

そして………今、とにかく彼女の気持ちを楽にしてやりたいと思った。少しだけでも。ただの気休めだとしても。


「軽蔑など…しないさ。」


自身の身体に寄りかかるユーリの身体を少し離し、ベッドの中へと戻るように促す。

彼女は離れたがらなかったが、「安心しろ、傍にいる。」と呟いては今一度頭を撫でてやれば、大人しく従って横になる。

そして、幼い少女のように高い体温を孕んだその掌を今一度握ってやった。当たり前のように握り返される。

ようやく…ユーリは笑った。彼女の笑顔を随分久しぶりに見たような気持ちがする。


掌を、握る。

決してそれ以上の行為を、今のミケはしようとは思わなかった。

彼女が知る行為以外での愛の形があると、教えてやりたかった。果たしてそれは成功したのだろうか。成功して欲しい、と思った。


「何も、お前ばかりが咎を追って生きているわけではないだろう。皆、多かれ少なかれ誰かを傷付けて生きている。」

くしゃくしゃとベッドの端で丸まっていた毛布をユーリの身体にかけ直してやりながら、ミケは言い聞かせるように言葉を紡いだ。


「それに…どんな罪人でも、助けを叫ぶ権利はあると…俺は思う。それに応えが返ってくるかどうかの保証は出来かねるが……。」


自分の言葉を、ユーリが真剣に聞いてくれているのが気配で分かった。

雨は降り続いている。中々、止む気配は無い。


「ユーリ。お前は……俺に、助けを求めてくれるか。」


掌を握ったまま、心から真摯な気持ちになって聞いてみる。

ユーリはゆっくりと瞬きをした。未だ涙の気配が残る青い瞳には、潤んだ光が宿っている。


「ミケさん」


囁くように、彼女はミケの名前を呼んだ。

少し目を伏せて、ミケはそれに応えてやった。


「助けてください。」


ようやくその言の葉を伝え、ユーリは瞼を下ろした。

ミケは彼女の手を握ったまま、「ああ」と相槌を打った。


「………助けてやるよ。」


ユーリは瞼を開けることをしなかった。

場合によっては、再び眠りに落ち着いてしまったのかもしれない。


「助けて、やるさ。」


何者かに言い聞かすように、ミケは繰り返した。

時刻はすでに夜明けを迎えたのに関わらず、辺りは未だ暗かった。

雨は降り続いている。公舎の傍らで咲く名前も知らない花の上、遠くに見える黒い山、そして未だ見たこともない壁外にも。

青白い雨が、地平の彼方まで降り続いている。







ふう、とエルヴィンは息を吐いた。

しっかりと誂えられた自室とは違い、下級兵士の部屋の造りは雑も良いところである。

室内の会話は、僅かに開いてしまった扉の隙間からしっかりと聞き取ることができた。


(……………………。)


腕を組み、彼は暫時何かを考え込む。

ちら、と視線を扉の隙間へとやる。細く切り取られた殺風景な部屋の中、同僚がベッドの傍らに腰掛けているのが辛うじて見える。


…………エルヴィンは、もう一度溜め息を吐いた。


(まさか、こんなことになるとは)


今はその感慨しか抱くことができなかった。

薄々、それに似た気配を感じ取ることはあったのだが。


(だが……まさか。)


室内の二人に気がつかれないよう、彼はゆっくりとその場を後にする。

エルヴィンの足音は静かだった。雨音に紛れてしまえば、彼自身も聞き取れないほどに。

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