道化の唄 | ナノ

 ◆約束


すっかりと日が落ち、夜になった。

未だ、雨は降り続いている。

ぼんやりとしながら…ミケは古い木の桟に縁取られた窓の外の暗い風景を見下ろしていた。

見下ろした先、濡れた草の間には白い花が点々と咲いている。青白い夜の雨に浸されて、まるで浮かび上がるような存在感であった。


(あの花………。何という名前なのか。)


今までまったくもってそんなことを考えたこともないミケだったが、ふと気になっては思考を巡らした。

しかし、花の種類など花弁が多いか少ないかくらいでしか見分けができないミケである。思考を巡らしてもわかるものではなかった。


(随分、奴はあれを気に入っていたな。)


今では、共に過ごした温かな昼下がりが懐かしいものに思える。

あのような穏やかな時は、もう二度と訪れないだろう。

…本当に少しずつ、ようやく積み上がった信頼関係だった。壊れてしまうのはあっという間だった。そして壊してしまったのは、他でもない自分だ。


青白い空気の中で、静かに濡れている花を眺めた。深い紺色の空から垂らされる雫がその花弁を滑っていく。

何者かが、その合間に生える湿った草を踏み分けた。一歩ずつ、花を折らないよう、慎重に彼女は足を進めている。

そして自身の頭上、ミケが向こうに佇んでいる窓を見上げた。


いつものように薄く笑って、ユーリは小さく首を傾げた。

何かを言おうとしている。しかし、ミケはそれを聞き届けなかった。

踵を返して、自室のドアを開ける。開け放したまま、鍵をかけている余裕はなかった。廊下を走った。いつもよりも長く感じる階段を3段ほど抜かしながら降りていく。宿舎の扉。外はやはり雨。しとどに濡れる風景の中、幽霊のように立ち尽くす少女がこちらを振り返った。





しかし、いざ顔を突き合わしてはみたものも……お互い何も言えずに少しの時間が経過した。

ひとまずは屋根のあるところへ、とミケはユーリを屋内へと手招きする。

しかしユーリは動かなかった。仕方がない、とミケは玄関先にあった何者かの傘を拝借してユーリへと手渡す。

…………が、受け取らない。彼は溜め息を吐いた。傘を開き、彼女の方へと歩み寄って入れてやる。

ユーリは一歩後ろへ下がった。その微妙な距離の取り方は、ミケをいたく寂しい気持ちにさせる。


「………三日間、どこをほっつき歩いていた。」


ひとまず、ミケは当たり障りのないことを彼女へと尋ねてみる。ユーリはまた少し首を傾げて、「そこらへんを……ぶらっと。」とヘラリと笑いながら応えた。


「……。それで……気は、晴れたか。」


濡れ切ったユーリの髪からその皮膚へと雫が落とされる。それを拭ってやろうとするが……彼女に触れることを、ミケは躊躇してしまった。


「いいえ……。全然。」

ユーリの声は小さく、まるで雨音にかき消されて聞こえない。だから、ミケはしっかりと耳を澄ませてその声を聞き届けようとした。


「でも……。結局、ここに帰ってきちゃいました。」

彼女がほんの少し、ミケの傍へと寄る。弱々しく疲れ切った笑顔を浮かべて、ユーリはミケを見上げた。


「ごめんなさい………。」


何に対する謝罪だ、とミケは思った。むしろ謝るのはこちらの方だ。しかしユーリはもう一度同じ言葉を繰り返す。彼女の頬を濡らした雨粒に混ざって涙が皮膚を滑っていった。「ごめんなさい。」絞り出すように、三度同じ言葉を繰り返す。


「もう良い。」


ミケは少し腰を屈め、ユーリと視線を同じ高さにした。

濡れた青い瞳が彼の姿を捉える。濡れ鼠になって涙を流し続ける彼女は不思議と幼く見えた。お互いを暫時見つめ合った後、ミケは今一度「もう良い……。」と言い聞かせるように言った。


「よく帰ってきた。」


今度は躊躇せずに、その頬を濡らす涙を拭ってやる。拭ってやるのに、ユーリは後から後へと涙を流す。冷えている筈の頬がひどく熱かった。

まるで小さな少女のように泣き続ける彼女を、ミケは心底いじらしいと感じる。

だからこそ、軽率に傷付けてしまった自分が許せなかった。

だが、今は彼女が自分の、自分たちの元に帰ってきてくれたことが嬉しかった。ただただ嬉しくて、仕方がなかった。







自室にて、ナナバがそろそろ寝ようかと思っていた時である。荒々しいノックが扉を打つ。

こんな時間に、と訝しげに思いながら扉を開けてやれば、血相を変えたミケが顔を覗かせる。

文句のひとつも言ってやろうかと思っていたナナバだったが、尋常ではないミケの様子と、何より……彼の腕に抱えられるようにされているびしょ濡れのユーリを見て言葉を失う。


「ひどい熱がある。今すぐ着替えさせて体を拭いてやってくれ。」

「いえ、そんな……。熱なんか無いですよ。むしろ歩き回ったのに全然疲れてなくて、元気なくらいです。」

「馬鹿、それは感覚が麻痺してるんだ。ナナバ、頼む。」


ありありと焦燥の色を浮かべるミケに比べてユーリは場違いに能天気な様子だった。

ナナバは数回瞬きをしてから、ユーリの額へと掌を当ててみる。


「えっ………。何これ。普通の温度じゃ無いよ…?」


この数日どこにいたのか、何故帰ってきたのか、山程あった聞きたいことはあっという間になりを潜める。

ナナバもまたユーリの身体の状態が尋常では無いことを理解し、ミケの腕から彼女を受け取っては頷いた。


「いや……。でも、熱は確かにあるかもしれませんが…大丈夫ですよ。自室で休めば治ります。」

「そういうレベルの話じゃ……。いや、熱の高低の問題じゃない。なんでこんな風になる前に帰ってこなかったんだ!」


思わずナナバは語気を荒くするが、すぐに思い直して「ごめん」と謝る。


「すみません…。ミケさんとナナバさんの手を煩わせて、本当に申し訳が「だからそういうことじゃなくて!!」

濡れてすっかりと重たくなってしまっているユーリのコートを容赦なくひんむきながらナナバはその言葉を遮った。


「なんでそう、自分を大事にしないの!!」


水を吸ったシャツはピタリとユーリの肌に吸い付いて身体のラインを浮かび上がらせている。

なんだかいたたまれなくなったミケはそっとその場を後にした。


彼がいなくなるのを確認すると、ナナバはユーリのシャツへと手をかける。

水を吸った細いリボンタイはくたりとして彼女の首元にぶら下がっている。指先の動きが覚束無いユーリに変わってナナバはそれを緩めてやろうとするが、「良いです、ほんと…大丈夫です。」と敢え無く拒否されてしまった。


「着替えも…自分で出来ますよ。部屋に帰ります。遅い時間に、本当に失礼しました…」

「待って。」


立ち去ろうとするユーリの腕を、ナナバはしっかりと捕まえた。

双方の瞳がはたと合う。


ゆっくりと、ユーリは息を吐いた。


「……………私、身体に痕が沢山あるんです。見て、気持ち良いものじゃありませんから…」

「良いよ。私はそんなの構わない。」

「…………………。」

「ここに戻って。戻りなさい。」


命ずる口調でナナバは言った。

ユーリは掴まれた自身の腕を見た。それからナナバの顔を今一度眺める。

歩いて、彼女はナナバの傍に戻った。


ナナバの長く白い指がユーリの黒いリボンタイを解き、釦を外した。

水を吸った白いシャツは重力に逆らわずに、彼女の足元へとばさりと落ちていく。


ナナバは目を細めて、眼前の肢体を眺めた。

(痕には、見慣れている筈だった……)


しかしそれは見たことの無い種類の傷で、痕だった。

まるで、ふざけていると思った。人の悪意がそのまま視覚化された光景を、ナナバは息を詰めて見つめていた。


(……ユーリ。)


濡れて役割をまるで果たしていない下着も除いてやった。

その痕は当たり前のように、乳房にも及んでいた。


(ユーリ。君……一体、どこから来たんだ。)


白い皮膚を横切る、腐った果実に浮かんだ沁みような痕。

濡れた体を拭き、隠すように自前のものの中で一番温かい服を着せてやった。


釦をひとつづつ留めていく。その指先が震えているのが、ナナバ自身にも良く分かった。

思わず、嗚咽する。初めてナナバが涙を流していることに気が付いたユーリが驚いたように見上げてきた。

青い瞳が不思議そうにナナバの姿を捉える。


「……………から。」


呟いて、ナナバはユーリの身体をほとんど無意識に抱き締めた。

服越しにも、その身体の熱の高さがしっかりと伝わって来る。きっと彼女は立っているだけで精一杯の筈だ。


「私が、傍にいるから………」


囁くように言って、抱きしめる力を強くした。

………ユーリの過去。彼女はまだ、自分たちに話していないことが沢山ある。きっと、嘘も吐いているに違いない。

愛されたことがないのだ。だから、人を信じることもままならない。


「どんなことがあっても、私が傍にいるから……」


でも、信じて欲しい。自分の、自分たちの愛情をどうか疑わないで欲しい。

心から願い、ナナバは言葉を繰り返す。

抱き返される気配がした。

少しの時間が経過する。

ナナバの腕の中で、ユーリはほとんど気絶するように眠っていた。

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