◆否定
(また……夜の街。)
ふらりと調査兵団から姿を消したユーリは、ただ当てもなく繁華街の雑踏に揉まれながら歩いていた。
弱い雨は昼過ぎからずっと降り続けている。ユーリは傘を持っていなかった。羽織った薄すぎるコートはすでにしっかりと水分を吸い、凍てつくように冷たさを肌に齎している。
別に……脱走したわけではない。ただ、ちょっと散歩をしに行くくらいの心地だった。
だがどういうわけか公舎へと足が進んでくれず、気が付けば数日ほど路上を彷徨っている。
(夜になって……街灯の明かりとか、それに照らされた水路の水面とか……そういうの見ると、どうしてもあの時を思い出すんだよね。)
水路近くの縁に腰掛けて、ユーリはぼんやりと黒い水流を眺めた。身体は雨に打たせるままにする。
水面には雨による沢山の波紋が浮かんでは消えを繰り返していた。街灯のオレンジが滲んでいる箇所だけ、琥珀のように鮮やかに明るい。
背面からは、街から家へと帰る人々、はたまたここで一夜を過ごす人々の楽しげな声が聞こえてくる。それはユーリをより一層孤独な気持ちにさせた。
(あの時と……似たような景色だけど、やっぱり違うよね。雨、降ってるし。今は私…一人だし。)
一週間ほど前、偶然夜の街でミケに出会った。そして、手を引かれて帰った。
誰かと一緒に辿る帰路、その初めての感覚を……ユーリは、握られていた自身の掌を眺めながら思い出していた。
(ああ………)
眺める色の悪い掌が二重にぶれている。頭がフラフラとして、全くもってまともな思考が出来なかった。
(熱い……)
体には冷たすぎる雨が降り注ぐのに、内臓の奥、脊髄の辺りが湿った熱を持っている。濡れた髪が熱い頬にまとわりつき、大きな雫を彼女の皮膚へと落としていった。
(こうしていても…仕様がない。)
こんなところでじっとしていたって、何の解決にならない。
(私…期待しちゃってるんだろうな。)
誰かが、私を探しにここに来てくれるって。
(誰も来るはずはないよ。だって、貴方は一度も私を探して、私を助けてって人に言わなかったじゃない)
言えるはずないじゃない。人に弱さを見せて、信じて、それから裏切られるのはもう嫌なんだ。
(そんなのは言い訳だよね。)
そう、私…怖いの。本当に辛くて、悲しくて、助けてって言った時…誰もそれに応えてくれなかったら?
やっと仲良くなった友達や仲間…それが全部私の思い込みだとしたら?
「本当に………本当に、ひとりぼっちだと分かってしまったら…」
雨脚が強くなる。秋の雨粒の冷たさはまるで容赦なかった。氷のような雫を全身に受けながら、ユーリは自分が溶かされて消えてしまいそうな心地を味わった。
ふ、と顔を上げた。誰かが視界の端にいる。まるでユーリの姿を認めて足を止めたように。
ユーリは立ち上がり、その方に顔を向けた。すっかり濡れてしまった前髪を払い、耳にかけて彼女を見上げた。
「…………すごい偶然。久しぶりだね。」
大きな青い傘を広げた女性が、ユーリのことを蒼白な顔をして眺めていた。
ユーリは小さく笑い、立ち上がって彼女の方へと足を進めた。それに伴い、女性の美しい顔に恐怖の色が走った。
「劇場…“女神の百合”が摘発されて以来だね。元気だった?」
傘の下の顔を覗き込むようにすれば、女性の喉の奥で引きつったような音がする。
ユーリは冷え切った掌を伸ばしてその頬に触れようとした。
まるで凍りついたように動かなかった女性の身体が弾かれたように大きく身じろぐ。彼女は無我夢中だった。傘が掌中から放り出されるにも関わらず、ユーリの体を強い力で突き放す。
受け身を取るつもりもなかったユーリは濡れた石畳で強かに身体を打った。
半身を置き上げ、今一度彼女のことを見上げる。……女性もまたユーリから目を離さずにいた。整った顔立ちが恐怖からか焦りからか、ひどく引きつってしまっている。
絵画に描かれたような美しい顔。人形のような肌の白さ。そして、衣服の下から僅かに覗く生々しい痕。
自分と同じ箇所を見つける度に、どうしようもなく忘れがたい過去がお互いの胸の内に蘇る。
二人は暫時黙したまま、ただ雨に打たれて佇んでいた。
「あ……あんたなんか、知らない……。」
やっと、彼女が振り絞るように声を出した。
ユーリは冷えた石畳に腰をつけたままでそれを聞いていた。
「私は、あんたなんか知らない……!さっさと私の前から消えていなくなれ!!!」
彼女の張り詰めた叫び声が、雨音の間を縫ってユーリの元まで届く。
彼女が吐く息は白かった。黒く艶やかな長髪はすっかり雨に濡れてしまっている。
ユーリはただ…呆然と、彼女の深緑色の瞳を眺めながら…地下街で過ごした昔日、共にいた日々を思い出していた。
そして、こんなものか、と思った。改めて、思い知らされた。
「リーア!こんなところで何してるんだ。」
誰かが雨の中を駆けてくる音がする。ユーリを見下ろしていた女性が、ハッとした表情でその方を見た。
「急にいなくなるからどうしたかと思ったんだぞ。ああ…何してるんだよ。傘こんなところにすっ飛ばして。濡れて風邪でもひいたら……」
女性をリーアと呼んだ男性は親しげな様子で彼女に声をかけながら、青く大きな傘を拾ってやっている。
そして…地面に座り込んだままのユーリに気が付くと、「…………知り合い?」と彼女へと尋ねた。
「………………………。」
リーアは答えなかった。
男性はユーリに手を貸して起き上がるのを助けようとしてくれるが、彼女はそれを断って自力で立ち上がる。
「あんたすごい濡れてるな。傘持っていないのか?」
鈍感なのか気が付かないふりをしてくれているのか、男性はユーリとリーアの間に流れる不穏な空気には触れずに話しかけてくる。
「ええ、まあ……」
出てくるときは、こんなに降るとは思っていなかったので。
ユーリは応えながら、リーアと男性を一瞥する。
男性は心配そうな表情でユーリを眺めていた。リーアはまるでこちらを見ようとしない。
「じゃあ…あんた。この傘やるよ。持って行きな。」
男性は、今しがた拾ってやったリーアの青く大きな傘を差し出す。
勿論のことリーアは驚いたように「ちょっと、その傘は…!」と口を開きかけた。
「大丈夫だって。傘くらいまた買ってやるから。大体お前散々センス無いとかこの傘に文句言ってたじゃねえか。」
今度はもっと良いの買ってやるよ。
と軽く片目をつぶり、男性はリーアを自分の傘の中へと招き入れる。
青く大きな傘は、ユーリの手の中に収まった。
「じゃ、あんたも風邪引かねえうちに帰んな。」
立ち尽くすユーリに軽く挨拶して、二人は立ち去っていく。
お互いが濡れないようひとつの傘の下で身を寄せ合って、歩いていく。
雨音に遮られて聞こえないが、仲睦まじく楽しげな会話を交わしながら、この場所から遠ざかっていく。
「リーア………」
ユーリは呟き、青い傘を畳んだ。
そして、近くの街灯に出っ張っている杭へと引っ掛ける。
…………とてももらえないと思った。
こんな幸せな匂いのするものは、とてももらえない。
自分の惨めさが分かって、いたたまれなくなるから。
「今は…リーア、って名前なんだね。」
ユーリは畳まれた青い傘を眺めながら、黒髪の女性を思い出しては囁く。
美しくなっていた。愛されているのだろう。そして愛しているのだろう。眩しくて、見ていることができなかった。
「私はね、今は。ユーリ……。ユーリ、って名前なんだよ。」
歩き出せば、水を十分に吸った衣服が重かった。立っているのも歩いているのも辛い。休みたかった。けれど、留まって休める場所はまるで見当たらない。
(貴方が忘れても……私は、覚えてるよ。)
自然と、ユーリの足は明るい表通りから薄暗い裏道へと向かっていく。
(あの場所の血生臭さを……自分の醜悪さを……下劣さ…下品さ……)
今までいた場所はやはりユーリには明るすぎた。
自分があるべき場所へ、戻りたくなる。
その気持ちが、彼女を更に奥まった暗い地区へと向かわせた。
(自分が殺した人間、傷つけた人間……。これから殺してしまう人間、傷つけてしまう人間を……。)
「私は、覚えているよ。」
(罪は罪で……。許される筈なんか、無いんだ。だから私は………)
「愛してもらおうなんて、そんな夢見がちなことを………いつまでも………」
日が沈み、辺りが暗くなる。雨脚は弱まらなかった。容赦なく体を打ちつけ、ユーリの濡れ切った髪から頬へと大粒の雫が落ちてくる。
「ご、ごめんなさい……」
誰に向けた謝罪かは分からなかった。
足取りがふらつき歩くのが困難になったユーリは、傍の壁を通る配管に手をかけて体重を支える。
「生きていく為……自分がひどい目に合わない為に………仕方がなかったんです……!」
体は冷え切っている筈なのに、頭の芯が沸騰したように熱かった。その熱が眼球の裏へとわだかまっている。それは雨に濡らされた彼女の顔面へと滑るように流れていった。
「でも、やり過ぎでした…!本当にごめんなさい、許してください……!!」
立っていられなくなったユーリはその場に膝をつき、頽れるように倒れこんだ。
行倒れた彼女の上に、夜の青さを吸い込んだ雨がしとどに降り注ぐ。奇しくもそこは路地の脇に捨て置かれたゴミの山の上で、ひどい悪臭が彼女の鼻をついた。
しかし、それはユーリにとっては懐かしい臭いだった。腐敗した悪臭。その中で育ち、暮らし、染まり切ってしまった、逃れようのない故郷の臭いだった。
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