◆混声 2
ミケは、意を決してユーリの部屋の扉をノックする。
乾いた音が、二回。………相変わらず部屋の中はしんとして、まるで反応はない。
やはり、ミケは取り越し苦労であってほしいと思った。………熟睡しているだけなのだと。部屋の扉が叩かれているのにも気がつかないくらい。
そして例のシャワーの音は、ただ誰かがバルブを締め忘れただけなのだと。今にもユーリが寝ぼけ眼をこすりながら、この扉を開けてはくれないかと願った。
安眠を阻害されたことに彼女は些か憤るだろう。しかし、自分の姿を認めれば少し笑ってくれるに違いない。
(ユーリは……俺に…、よく、懐いている……いる筈だからな……)
これは自惚れではない。他の人間に比べて、自分は彼女に心を許されている筈である。そのことが彼にとっては嬉しかった。だから……
(頼むから何事もないように……この扉を開けては、くれないだろうか。)
しかし、依然として扉の向こうに人の気配はまるでない。ミケはただずっとその場所に立ち尽くした。ノックも二、三回繰り返してみた。だが、残酷な沈黙が続くばかりである。
ミケは焦っていた。焦り、居ても立っても居られなくなる。声を出してユーリの名を呼んだ。……やはり、無反応。
意を決して、その扉のノブに手をかけた。呆気ない手応えの後、木の扉は軋みながら部屋の内側へと開かれる。
…………室内は、以前見たときと同じように殺風景であった。ベッドがひとつと……いつの間にか、机が増えていた。その上に、無造作に脱ぎ捨てられた服が置かれている。
青白い月光の中、衣服には皺のひとつひとつに色濃い影が落とされていた。………以前街で出会った時に彼女が着ていた、薄すぎるコートだ。
近付いて、持ち上げてみる。開け放した窓から吹き込んだ風に煽られ、コートは彼の掌中で揺れた。揺れて、べろりと垂れ下がったそれを見て、ミケは息を呑んだ。
黒々と影が落ち込んでいるだけだと思っていたのだ。しかし、その黒に似た褐色は明らかな汚れ…染みとして、薄手のコートをべたりと汚していた。滲んで、非常に取れにくいこの色はミケにとっても馴染み深いものであった。
驚いて、コートを手放す。布が地面に着地するよりも早く、ミケは踵を返して薄暗い部屋から駆け出していった。
(どうか、取り越し苦労であってほしい。)
繰り返し、先ほどの心象と同じことを胸の内で呟く。深夜の静まり返った宿舎に、彼の足音だけが空虚に響いた。
焦り、急いで走り続ければ、目的の場所はすぐに見えてきた。
…………相変わらず、水音が続いている。雨の音ではないのは最早明白だった。
(………!先ほどから、如何程時間が経っている…!?)
時計を確認すれば、一度ミケがシャワー室の前を通りかかった時から数時間ほど経っていた。
彼は躊躇せずにその扉を開ける。もうもうとした分厚い蒸気が室内には満ちていた。
「ユーリ……!」
名前を呼んでやる。しかし、やはりそれに応える声はない。声はない…が、何かが白い蒸気の中で身じろぐ気配がした。
ユーリは割れたタイルの上にぺたりと倒れこんでいた。流れ放しだった湯が、ただその白い皮膚の上を流れていっている。
……………気は、辛うじて失っていないようだった。ミケの姿を認めた彼女は、先ほど彼が予想していたように…心弱く、笑った。
「すまないな……。勝手に入った。」
バルブを閉めながら、ミケは言った。水音は収まり、辺りには再び静寂が訪れる。
「いいえ……」
そんなの、全然……。と続けた彼女の声は溜め息のように細くなっていく。
ミケは彼女の肢体を見ないようにと努めた。しかし、見ない訳には行かなかった。
その身体を起こしてやろうと手伝う。しかしユーリの肉体は弛緩しきっていた。支えるようにすれば、白い皮膚に幾重にも連なる傷跡が嫌でも目に入る。
明らかに新しいものもあった。銃創もあった。これは平素巨人のみと争うミケには見慣れないものだった。小さいながら、明確な悪意を感じる傷跡…人が人を傷つける為の道具によって付けられた…
「痛い……。」
ミケの腕の中で、小さく彼女が呟いた。ユーリを抱くようにしていた彼の手の甲に、細く血液が垂れてくる。その肢体から滴った水もまた、ミケの衣服をゆっくりと濡らしていった。
「痛いよ……、お父さん。」
ユーリの声色は、まるで少女のように頼りなかった。そこまで言って、遂に彼女の意識は途切れてしまうらしい。
ミケは彼女の身体を抱いたまま、その場所でしばし呆然とした。
………シャワーの音とは違う、弱い水音が先程から続いていた。止んだと思っていた雨が、また降り始めているらしい。
*
「ユーリ、おはよう。」
ユーリが目を覚ますと、穏やかな声がかけられた。よくよく聞き覚えがあるその声の主へと顔を向ければ、自分とよく似た相貌の男性が優しくこちらに微笑みかけている。
「今朝は随分寝坊したね。……よく眠れたかな。」
「………………。」
ユーリはぼんやりとしたままのかぶりを振り振り、ベッドの中から起き上がる。
そして欠伸をひとつしては父親の傍へと寄り、「うーん、寝たけど…なんか変な夢見た…。」と眠たげな声で応えた。
「また夜更かしでもしたのか。父さんがいないからって、あまり遊びすぎても良くないよ。」
「遊んでなんかないよ…。ちゃんと勉強してるし。お父さんだっていつ帰ったのさ。帰るなら連絡ひとつも入れてよ……。」
そしたらご飯くらい作っておくのに、と言いながらユーリはエルヴィンへと甘えるように寄りかかる。彼もまたそれを受け入れて、娘の肩を抱いてやった。
「それは…悪かったな。今回の壁外調査が予定よりも随分早く終わったんだ。……連絡を入れてやるよりも、早く帰ったほうがお前を喜ばせると思って。」
「なにそれ……、自惚れもいいところでしょ…。」
ツンとした態度を取りながらも、ユーリは嬉しかった。ぎゅっと父親の逞しい身体へと腕を回し、抱きしめる。
エルヴィンはなんだか困ったように笑い、「全く…。お前、いくつになるんだ。」と軽くぼやいた。
「……いくつでも良いよ。いくつでも、私はお父さんの子供だからさ。」
「そうか……。そうだな。」
よしよしと頭を撫でられる。それだけで、ユーリは先ほどの悪夢をすっかりと忘れることができた。
安心して、ほうと息を吐いた。そして、口を開く。
「なんだか…お父さん、すごく優しいね。」
エルヴィンはユーリの頭を撫でてやりながら、「そうだな。」と相槌を打った。
遠くで鳥が鳴く声がする。いかにも穏やかな、朝の風景だった。
「優しいのは当たり前だ………。」
やがて、エルヴィンが相変わらず穏やかな声で言葉を紡ぐ。ユーリは黙ってその心地良い声色に耳を傾けていた。
「何故なら、これはお前の夢だからな。」
……………エルヴィンのその一言で、淡い光に包まれていた風景は一転してただの暗闇になった。
ユーリのすぐ傍にいた父親の温もりもあっという間に消え失せる。
暗転した空間の中で、ユーリは長く細い溜め息を吐いた。
(なーんだ、やっぱり夢かあ。)
今まで、幾度もこれに似た夢を見た。
だから、慣れていた。(そんなことだろうと思ったよ。)と思いながら、彼女は身体を空間に漂わすままにしておく。
もう直、自分の意識は目覚めへと持っていかれるのだろう。
しかし諦めにも似た心象を抱きながらも、ユーリは自身の瞳から止め処なく涙が流れるのを感じていた。
(あーあ、嫌になる)
(起きるの、やだな。)
覚醒へと心身が向かう中で、ユーリは今一度自身に優しく微笑みかける父親の顔を思い出そうとした。
しかし、無理だった。夢の中の景色にはあっという間に靄がかかり、恐るべき速度で忘却されていく。夢とはそういうものなのだ。
(そういえば私、いつの間に寝ちゃったんだろ。仕事に行って…帰って、そうだ。シャワー浴びてて…あれ……それから、どうしたっけ。)
眠りにつく前の記憶が随分と朧げであった。……疲れから、気絶するように寝てしまったのか。
(でも……。おかしいな。眠る前に、ミケさんに会った気がする……。そんなこと無いはずなのに。)
確か、彼に名前を呼ばれたんだ。呼ばれて、なんだかすごく嬉しかったような気がする。自分は、その呼びかけにちゃんと笑って応えることが出来ただろうか……。
(ミケさんに呼んでもらえると、嬉しいんだよね。……すごく、優しい気持ちになれる…。)
ミケのことを考えると、彼女の目覚めに対する嫌気は幾分か和らいでいく。また、溜め息が出た。しかし先ほどとは違う種類のものだ。
(………顔、火照ってるなあ。駄目って……思ってるのに……。……また、そんな都合の良い夢を、私は……。)
好きになっても、迷惑だから。
いつかと同じ言葉を、ユーリは声に出して呟いてみた。
先ほどから涙は止まってくれずに彼女の頬を伝っている。
止まってくれ、と念じながらそれを拭った。泣きはらした顔で朝食を摂るなんて、無様なことこの上ない。お願いだから止まってくれ、と。
(でも……どうしよう。だって……あんなに優しくて素敵な人……。)
涙が止まることは無かった。拭っても拭っても、後から溢れてくる。
(苦しい………。)
諦めて、ユーリは声を上げて泣きじゃくることにした。……どうせ、夢の中だ。誰にも聞かれはしないだろうと考えながら。
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