道化の唄 | ナノ

 ◆混声 3


傷の手当て後、ベッドへと収められたユーリは不規則な呼吸をしながらも意識を失い続けていた。

あるいは深い眠りに落ちているのだろうか。息を吸い込むたびにその胸元がゆっくりと膨らみ、また吐き出されて静かになる。………幸いにも、傷は軽いものだった。


ミケはそれをぼんやりと眺めながら、着せてやった衣服の下にある生々しい傷跡を思い出していた。

手を伸ばして、腹に長く伸びていた古い切り傷の辺りをなぞってみようとする。その身体に触れることが一瞬躊躇われるが……撫でてやれば、薄い布越しにユーリの体温を感じることができた。

それにどういうわけか得も言われぬ安心を感じ、ミケはそろそろと息を吐いた。


……………雨は、先ほどからずっと降り続けていた。

運び込んでやったユーリの部屋は、見れば見るほどに伽藍として人の生活感がまるでなかった。

何故か、ベッドサイドの小さなテーブルに空の缶詰の容器が置かれている。中には水が僅かに溜まっていた。


ユーリの体に、毛布をかけてやった。それから彼は黙って部屋を後にしようとする。………しかし、気がかりだった。立ち去ることに幾ばくかの抵抗を感じ、その場に立ち尽くす。


立ち尽くしたままで、少しの時間が経過した。彼はじっとユーリのことを見下ろす。閉ざされた彼女の瞼には黄金色の睫毛が豊かに生えて、頬へと影を落としていた。

今は……平素、その表情を隠している前髪が払われて顔立ちが顕になっている。

なるほど……。言われてみると、確かに良く似ていた。肌の白さや、通った鼻筋、少し厚めの唇までも。むしろ、気が付かなかったのが不思議なくらいに。


仕方がない、と思って彼は傍に無造作に置かれていた椅子に腰を下ろした。

………彼女が目を覚ました時に、何と弁明したものか。普通なら、如何に親密な上官と部下とは言え異性の部屋に無断で立ち入る行為は考えものである。

だが、今はここから立ち去れない。……ただの自己満足なのかも知れないが、彼女が目覚める瞬間、一人きりにさせたくないと思った。


少しこのままで眠るか、と考えて椅子に深く腰掛けるが、生憎眠気はさっぱりと訪れない。仕方がないので、小さく切り取られた窓から外の灰色の風景を眺めていた。

灰色に淡い桃色が混ざって、辺りの暗さがやや和らいだような気持ちがする。……夜明けは、後僅かなのかもしれない。


ふと、先ほど薄手のコートを発見した机の上へとミケの視線が留まる。………気が付かなかったが、一冊の書籍が投げ出すように置かれていた。


なんとはなしに、彼はそれを取り上げた。……本なんぞ読む習慣がこの女にもあるのか、と中身をパラパラと改めてみる。


(ん……………。)



しかし、それは書籍では無かった。


(日記……。本当に、書いていたのか。)


良くないことだ、と思い僅かながらに逡巡する。しかし、結局彼はその特徴的な細長い筆跡の文字へと視線を落とした。

…………書く日と書かない日があるらしく、日付は飛び飛びだった。ので、一番初めのページの記しは随分と前に遡る………



ーーーーーーーー明日から、調査兵団に配属される。どんなところなのだろう。昔いたところより、ひどいということは無いだろうけど。
でも、お父さんが居る場所だから。きっと、悪いようにはならないはず。


ーーーーーーーー自分の直属の上司に初めて相対した。会ったことがある人だ。あの劇場が摘発された時に、お父さんと一緒にいた人。
なんとなくだけど、この人は私を好いてはくれないのだと思う。お父さんと同じように。


ーーーーーーーー私に、初めて自分から話しかけてくれる子が居た。とっても綺麗な子で、最初女の子かと思ったくらい。きっと天使が実際にいたら、こんな感じなんだろうね。


(何かをスケッチした痕跡。上からぐしゃぐしゃと線が重ねられ、失敗!私、絵は下手だ!と走り書きが付け加えられている。)



ーーーーーーーーごめんなさい。



(その一言の後、少し日付に間が空く。)



ーーーーーーーー友達が出来た。すごく嬉しい。
絶対に、大切にしよう。こんな私のことも気にかけてくれる、すごく優しい人だから。


ーーーーーーーー中々、お父さんに満足してもらえる仕事ができないでいる。
許されないことをしたし、し続けている。そして止めるつもりも無い。
でも、自分が悪いことをしてるって自覚はすごくあるの。
どうすれば良かったのだろう。どうすれば、皆が幸せで笑っていられるようになるんだろう。


ーーーーーーーー好きになってもらえないことは分かっているの。だから、せめて邪魔な存在にだけはならないようにと心がけている。
でも、駄目なんです。軽くて浮ついた性質に見える癖して、誰よりも依存心が強くて重いんです。
一度で良いから、優しい言葉をかけてもらいたい。それが無理なら、せめて笑って欲しい。笑いかけてもらいたい。あの綺麗な笑顔を、私に向けてもらいたい。


ーーーーーーーー今日、1日ミケさんが付き合ってくた。すごく楽しかった。
ミケさんは、とても優しくてあったかい人だと思う。一緒に摘んだ花、大切に、なるべく長持ちさせるようにしよう。
それでこの花を見るたびに、ああいう人になれるように、と思い出すんだ。
今から良い人になるのはとても無理だけど、良い人のフリならできるかもしれない。
それに、これからどんなに辛いことがあっても、今日のことを覚えていればきっと大丈夫。
ありがとう、ミケさん。だ……
(擦れて判読不能)




そこでミケはページを閉じた。これ以上読み進めるのはとてもいたたまれなかった。

…………元の場所に日記を戻すのと、ユーリが身じろぐのはほとんど同時だった。

思わずミケは小さく肩を揺らす。彼女の方へと視線を落とした。先ほどまで固く閉じられていた瞼が開かれ、真っ青な瞳が覗く。焦点が合わないらしいその瞳孔は、ぼんやりと天井に向けられていた。そこから縷々として涙が流れ落ちている。

やがてユーリの青い瞳がゆっくりとミケの方へと視線を注ぐ。涙は流れ続けていた。………ミケの姿を捉えても、しばらく彼女は黙ったままだった。

しかし、やがてそろそろとこちらに向けて腕を伸ばしてくる。あまりにも頼りない動作をするので、思わずミケは伸ばされた掌を取ってやる。

触れると、彼女はくしゃりと泣き笑いのような表情をした。

唇が僅かに動いて、開かれる。


「ミケ…さん」


名前を呼ばれる。その声に、先ほどの日記に連ねられた言葉の数々がリフレインのように重なった。

思わず息を呑んだ。気がついた時はもう、ユーリの身体をしっかりと抱いていた。当然、驚いた彼女が身じろぐ気配がする。

しかしミケは離すことをしなかった。むしろ、抱きしめる力を強くする。抱いたままで彼女の頬に自分の頬を寄せた。未だ濡れている髪の感触が肌を撫でる。

不思議なことに、あれ程苦手と感じたユーリ独特の夜の気配を漂わす匂いがまるで気にならなかった。身体をひどく強張らせている彼女に構わず、首筋に顔を埋め、その匂いを吸い込んだ。


少し、身体を離す。ごく近い距離でふたりの視線が交わった。前髪で遮られていないユーリの顔をこんなにもじっくりと眺めるのはミケにとって初めての経験だった。

青色の瞳は見開かれており、信じられないと言った表情をしている。そうだな、俺も信じられない。とミケは心の中で呟いた。


ユーリの眉根が寄った。瞳には涙の気配が色濃く残っている。少女のように淡い色をした唇が、また何かを言わんとしているのだろう…ゆっくりと動く。

彼女が何を言おうとしていたのか、ミケの耳が捉えることは無かった。もう、重なった唇から僅かな吐息が漏れるだけである。


再びベッドへと身体を戻されて、ようやくユーリの体が意志を持って動いた。しかし力がうまく入らないようで抵抗は非常に弱々しく、まるで問題にならなかった。

先ほど着せてやった服に指先を滑らせたところで、彼女の喉の奥から小さな悲鳴が上がった。

…………どうやら、朦朧としていた意識が正気になったらしい。ユーリの表情が一気に恐怖によって青ざめていく。


「や、やめてください……!」


たまらずに……そしてやっと、という体でユーリが絞り出すような声を出した。


「触らないで、本当に……やめてください……!!」


そして自分の体に覆いかぶさるようにしていた上官の身体を力一杯遠ざけようと、掌で押し返す。

古いベッドが強く軋み、サイドテーブルに置かれていた空き缶が床へと転がった。中に溜まっていた水が小さな飛沫を上げて零れ落ちる。先ほどとは違う種類の涙が彼女の頬を伝っては流れていた。

その時には、ミケの意識も正気に戻っていた。


しまった。


それだけが彼の脳裏を埋めた。


暫時、ふたりはそのままの姿勢でいた。今度はミケが声を振り絞る番だった。


「すまない、」

ようやく謝罪を言葉にするが、自分が取り返しのつかないことをしたのだと分からないほど、彼は馬鹿ではなかった。

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