道化の唄 | ナノ

 ◆混声 1


さあさあと、細い雨が降る晩だった。だからミケは、最初それをただの雨音だと思っていた。しかし今晩の細い雨の音にしては些か水温が大きい。おまけにシャワー室に近づくほどにその音は大きくなる。

(こんな夜更けに……)

と考えながらも、彼は特になんの感慨も抱かずにそこを通り過ぎた。明らかに今は入浴時間外だが、かと言ってシャワー室内の人間に直接注意する行為も憚られる。

通り過ぎ、ミケは目的地の書庫まで至ろうとした。至ろうとしながら、何故この様な時間に、と思った。

ーーーーーなにかが気にかかった。まさかと思いながらも彼の足は自然と進行方向を変えようとする。………が、今の彼には仕事があった。思い直して再び書庫へと続く薄暗い廊下を辿り直す…………





書庫で過ごすこと小一時間、しかしどうにも彼は仕事に集中することができなかった。目的の書籍は無事に見つかり、必要な文章の羅列にも辿り着いたのだが、視線が文字をなぞるだけでどうにも内容が頭に入ってこない。

(ええい)

という気持ちになる。溜め息を吐く。このままでは仕事にならん、とかぶりを振ってはまた溜め息を吐いた。

そうして彼は…手にしていた書籍を今一度本棚に戻した。…………ひとまずは事実確認を、とその場から歩き出す。

歩きながら、これはあくまで部下の素行を気にかける上官としての行為なのだ、と胸の内から何者かに弁明をした。





そして、ミケはユーリの部屋の前まで辿り着く。辿り着いてどうしたものかと思う。そして、自分は何故ここに来たのか、何を期待してここに来たのかを考えあぐねいた。

(何を期待…いや違うな。俺は期待したんじゃない。不安になったんだ。)

(では、一体何が不安なのか。)


ーーーードアの外から伺う限り、室内は静かだった。


(俺の取り越し苦労なら良いのだが)

(取り越し苦労?何を取越している。………一体、何がそんなに不安なんだ。)


ここ最近、ミケは自分の心象が分からなくなっていた。厳密に言えば、ユーリに関する心象に限るのだが。それには、数日前エルヴィンに聞いた話が関係している。恐らく。きっと。


………ユーリを街から連れ帰った前回の休み…その翌日。ミケはエルヴィンの部屋へと赴いた。

夜分に断りもなく突然やってきた彼を、エルヴィンはいつものように快く迎えてくれた。

仄かなランプの灯に照らされた部屋の主の相貌は、相変わらず美しかった。年齢よりも幾分か若く見える友人の顔を眺めながら、ミケは二言三言たわいもない言葉をかける。エルヴィンもまたそれに応じて、優しく笑った。

ーーーーーやがて談笑がひと段落してしまうので、ミケはようやくといった形で本題を切り出した。


先日……街で、ユーリと偶然出会ったこととその仔細を。明らかに彼女の挙動や精神が安定していなかったこと。

ミケの班にユーリを所属させたのはエルヴィンである。彼が与り知らないユーリの事情を、エルヴィンなら知っているのではないかと思ったのだ。


「俺とあいつには…もう少しの相互理解が必要…なのだと思う。それに俺にはよく分からないんだ。何故お前が、あれを俺のところに寄越したのか。」


エルヴィンは黙ってミケの言葉を聞いていた。時折何かを考えるかのように、ゆったりとした所作で足を組み替える。ミケもまたエルヴィンのことをあまり構わず、独り言のように言葉を続けた。


「何か……。あいつには、普通の兵士とは違った事情があるのだろう…?突然、数日ほど休むことが多々有る。それなのに咎められることがまるでない。休み明けは心身ともに明らかに疲弊している。それに…………」


続けかけて、ミケはしばし口を噤んだ。室内には静かな空気が漂う。少しして、エルヴィンが小さく笑った。そうして、ミケを促すように口を開く。


「ここ最近…何か、ずっと聞きたそうにしているな。」

ミケは頷き、それに応えて続けた。


「噂だが……ユーリが兵団へと所属するまでの間、諸々の教育をしていたのはお前だと聞く。短い間だが、その間共に暮らしたりもしていたと……。」

これはあくまで噂である。一見、エルヴィンとユーリは互いに無干渉を貫いていた。ミケもまた、彼ら二人が会話を交わしているところを滅多に見かけない。

だが、ミケは薄々とこの二人の間に普通ではない何かが横たわっていることを感じ取っていた。

ーーーーーーそのことが、最近折に触れては彼の心に引っかかるのだった。


「そんなことを尋ねるために、俺を訪ねたのか。」


お前らしくもないな、とエルヴィンは笑った。ミケは笑わなかった。

…………エルヴィンは何かを自分に隠していると思ったのだ。ミケとエルヴィンは長い付き合いであり、またミケは人を観察することに長けていた。

単刀直入に、「お前たち二人の関係はなんだ。お前は……何を、ユーリにさせている。」と尋ねる。

エルヴィンは一瞬驚いたような表情で瞬きをして、言葉を詰まらせた。喉から小さくヒュッとした音をさせる……が、すぐに、いつものように美しく笑って見せた。ミケはそれが取り繕ったものだと見抜く。

「俺にお前の嘘は通じないぞ」

一言そう言えば、エルヴィンはミケにしか分からない程度にほんの刹那表情を歪ませる。

そして、開き直ったかのようにあっさりと返答した。


「そうだな…なんと言えばいいか。端的に言えば、ユーリは俺の為に、俺たちの為に人を殺している。」


今度はミケが言葉を詰まらせる番である。………色々と、言いたいことが多いにあった。だが、何から言えばいいのか皆目見当がつかない。

やがて、ミケはゆっくりとした声でエルヴィンに「それが、お前が……あいつを拾った理由か。」と尋ねる。


「正解だ。」

エルヴィンの返答には迷いがなかった。


「利用価値があるから、取り戻したまでだ。」

良心の呵責すら、微塵も感じ取ることができない。


「取り戻す……?」


エルヴィンの言葉をただ反復して、ミケはその意味を伺った。

エルヴィンは頷き、「そうだ、取り戻したんだ。」と同じように繰り返す。


「あれは元は俺のものなんだ。」


エルヴィンはまた足を組み替えては小さく溜め息を吐く。開いていた窓から弱い風が吹き込んで、彼の金色の髪が僅かに揺れた。


「ユーリは、俺の子なんだよ。」


エルヴィンの声は静かだった。ミケは相槌は打つことも忘れて、しばし呆然としたまま、眼前の美しい男を眺めていた……。

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