◆質疑 2
(…………………。)
ユーリ、か?
と……夜も更けた時刻…ミケはしばらく首を傾げて、雑踏の向こう側に見え隠れする金色の頭髪の人物を眺めていた。
何ぶん辺りの日はとっぷりと暮れてしまっている。街灯の頼りない明かりで彼女かどうかを判別するのは難しかった。そうしてこの人混みである。よしんばユーリ本人だったとしても、これらをかき分けて声をかけに行くのはどうかと考えた。
(今日………公舎にも、宿舎にも……姿が見えなかったな。)
どういうわけか日中、例の尖塔のてっぺんまで…ミケは赴いてしまった。
そこに彼女の姿は無かった。いつもの、青臭い緑の匂いが風にのってくるだけだった。
(街に出ていたのか。)
ーーーーーー最初の接触と呼べる接触は、いつか飲みに行った日の帰りにその体を背負って道を歩んだこと。その次、夜の邂逅では思いがけず礼を述べられた。
そして二週間前の休日。少ない言葉ながらも一番長く交わし合った日だ。何故か共に花も摘んだ。
こうして、いつもいつも彼女との距離は確実に縮められていると思うのに……いつもそれきりなのだ。
二人きりの時間が終われば、ユーリの態度は元のルーチンに戻ってしまう。決して素っ気なくはないが、どこか人間味を感じさせないそれをミケは好きになれなかった。
(俺は……そこそこ、お前を気にかけてやっているつもりだ。)
それが功を成す事は期待していなかったが……それならば何故稀に心を開くような素振りを見せるのだろうか。その……歳の頃にしては少々幼いような、甘えた彼女の仕草はいつもミケをなんとも言えない気持ちにさせた。
視線の先の金色の髪は、街灯のオレンジ色が滲んで赤味を帯びていた。いつも後ろできちんとまとめられているそれはもつれて垂らされるままになっている。そして……彼女の特徴とも言えるいつも顔を隠している長い前髪が、払ったようにして耳にかけられていた。
……体が大きなミケは、雑踏の中で多くの人にぶつかった。軽く謝罪を述べながら、彼は人の流れに逆らって歩を進め始めた。
*
自分の側で泣き出してしまった子供を、ユーリは弱り果てながら見下ろしていた。
「ご、ごめんね。」
謝りながら、転んでしまった少女へと掌を差し伸べる。しかしそれはまるきり無視されてしまった。
やがて彼女の父親らしい人物が、いなくなって心配したんだぞ、と呆れたようにしながらやってくる。それに気がついた少女は、泣きながらも彼の方へとよたよたと駆け寄って行った。
呆然と立ち尽くすユーリの姿を認めた父親が、すみません、と軽く会釈した。
「いいえ……。」
と、ユーリは小さく返す。父親は少女にも挨拶させてから、その小さな手を引いて雑踏の中へと消えていく。
最後、遠くの方にちら、と見えた少女の顔にもう涙の気配はなかった。父親と並んで、笑いながら家路についている。
(皆…帰っていく。)
街灯が点り空に青白い星が輝き始めれば、昼に街を賑わせていた人々は家路につく。皆、帰るべき家があるのだ。
(私は…家がない。)
(それで、あの人にも……家がないんだ。)
パラ、と顔にかかってくる前髪を耳にかけ直しながら、ユーリは心弱く笑った。
初めて…外見的特徴以外で父親と自分との共通点を見つけられた気がして、複雑ながらも嬉しかったのだ。
(家がないのは……悲しいよね。だからいつも、貴方は寂しそうなのかな。)
秋色を帯び始めた冷たい風が沙耶と吹いた。足元の枯葉がそれに掬われて、カラカラと円を描きながら飛んでいく。
(その寂しさなら……私にも、少し分かる。)
笑ったついでに、ふふ、と声にも出してみる。やはり、風は薄いコート越しに冷たさを運んでくる。それが肌に応えるので、ユーリは小さく身震いした。
そうしてもう一度前髪をかきあげて進行方向を見つめ直す。その視線の先では、よく見知った長身の男性がこちらを見下ろすようにして立っていた。
*
………驚きで、数秒ほどユーリは体を固まらせてしまった。不意の事態に、彼女にしては珍しく…大いに狼狽してしまう。
もう少し彼女に余裕があれば、露わになっていた顔をゆっくりと前髪で隠し、眼前の男性へと笑いかけながら挨拶をしただろう。
しかしあまりにも驚いたユーリは中々の悪手に出てしまった。
ーーーーーーー踵を返して、その場から逃げ出したのだ。
突然反対方向に走り出したユーリの行動に、ミケもまた驚いた。そして当然ながら追いかける。
周囲は家路を辿る人々がそこかしこに歩んでいる。当然ユーリよりも体の大きなミケはそれらにぶつかり、思うように前へと進めなかった。
(勿論、追わない手はあるが………。)
………ここで彼女を見なかったことにするという手も、あるのだ。
そうして翌日、何もなかったようにまたいつもの判で押したような薄っぺらい笑みを浮かべた奴に、決まりきった挨拶、命令、指示を出す。
たったそれだけの話なのだ。何をムキになって、今ユーリの後を追う必要があるだろう。
(…………だがやはり、追わない手はないのだろう。)
少々危険かとは思ったが、ミケは車道の方へと足を踏み出す。途端に目の前を巨大な馬車が通り過ぎて行き、馭者に悪態を吐かれる。
謝罪もほどほどにして、彼は再びユーリ独特の黄金色の探して辺りを見回す。存外それが早く見つかったので、大きくその方に前進した。人がいない分車道の方が幾分か動きやすく、すぐに二人の距離は縮まった。
…………ユーリはこちらを振り向かない。ただ人目をはばかるように狭い路地へと逃げ込んでいく。ミケも車道から離れ、路地の方へと折れた。
ユーリが走るのをやめたので、やがて二人の距離はほぼなくなった。
自身の前を歩む彼女にどう声をかけたものかとミケは考える…が、考えても良く分からなかったので、とりあえずその…薄手のコートの袖からはみ出ている白い指先を捕まえてみた。
ユーリの体が戦慄いた。相当に驚いたようである。ここまで追いかけてまでくるとは考えていなかったのか。
そして、歩みが止まる。だが彼女はミケの方を振り向こうとしなかった。ただ、前方に広がる路地の深い闇を眺めている。
ーーーーー表通りの賑やかさとは打って変わって、ここには人が全くいなかった。
喧騒を遠くに覚えながら、ミケは「………その方向は、違う。」とゆっくり呟いた。
「公舎は……逆だ。」
そして指先を離し、その肩を掴んでこちらに向かせようとする。……が、やはり彼女はこちらを向かなかった。
そのままで、幾ばくかの時間が過ぎた。ようやくミケは、彼女の薄い肩が微かに震えていることに気が付く。
「見ちゃ……駄目です……。」
本当に小さな声で……ユーリが訴えた。そして、その両掌でゆっくりと顔を隠すように覆っていく。
たったそれだけの僅かな言葉の断片と行動だったが、明確な拒絶がそこには含まれていた。
思いの外、その行為にミケは傷付く。傷付いて、次の言葉を探せずにいた。
「…………分かった。」
故、たっぷりと時間をかけてから彼は言った。
「見ない。」
二言目を告げると、ユーリの両肩を掴み直して自分の方へと向けた。視線は律儀に彼女の頭の向こう、薄暗い路地の方へと向けながら。
行くぞ、と付け足してからミケはユーリの指先を再び捕まえた。
そうして有無を言わさずに歩き出す。引きずられる様に、彼女もそれについてきた。
ーーーーーーー路地から、元の賑やかな大通りへと戻る。二人は並ばずに前後に別れて歩を進めた。ただ、掌は繋がったままだった。最もユーリの指先には全く力が入っておらず、ミケが辛うじて掴んでいるだけであったが。
「行くって………どこに。」
やがて、ユーリが細い声でミケへと尋ねてくる。平素からは想像もつかないような頼りない声であった。
ミケはむっつりとしたままで、「公舎に決まっている。」と応えた。今を何時だと思っている、ともう一言。
「公舎……。」
「そうだ。帰るんだ……俺も、お前も。」
「そう………ですか。」
一緒に帰ってくれるんですねえ、とユーリは間の抜けたように言った。
そうしてようやく一歩踏み出し、ミケの隣に並ぶ。
…前髪は下ろされ、すでにその表情は分からなくなっていた。
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