◆応答
二人は無言のままで夜の街を歩いた。青い闇の中、オレンジ色の街灯がそこかしこに灯っている。
辺りの騒がしさが少し落ち着いてきた所為か、いやに冷える夜風を服越しに感じるようになった。
そしてその分、繋がった指先が暖かだった。僅かながら…そこが握り返されていくのを、ミケは確かに感じていた。
(こういうところだ……)
彼女の、こういう……まるで迷子の子供のように大いなる心細さの表象と、それに反比例するような細やかすぎる愛情表現はいつもミケをたまらない気持ちにさせた。
最初はそれを憐憫の情だと思っていた。しかし今はそれが…憐れという気持ちとはまた違うようにも感じている。
(とにもかくにも……)
指先ではなく、掌を握り直してやった。ユーリが小さく息を飲む気配がする。そして後……おずおずと、握り返される。
「ミケさんって……」
ユーリが少しミケの方へと体を寄せるので、二人が触れ合う面積が大きくなった。彼女のコートは相当薄いようで、すぐにその皮膚の温度が伝わってくる。
「手が大きいし、あったかいです………ね。」
しみじみとした物言いに、なんだかミケは笑ってしまった。
「お前が薄着すぎるだけだ……。」
と返せば、「そうですね。」と幾分穏やかな返事がなされる。
「それに…前も言いましたけど。すごい………とっても…」
彼女の物言いはゆっくりとしていた。しかしミケは急かさないで続きを待ってやる。
「優しい…ですよね。ミケさんって。」
歩を進める石畳には、馬車の轍が深い溝をなして刻みつけられてあった。そこに雨水が溜まって、街灯の光を明るく反射させている。
ミケは黙って、どう返答したものかとよくよく考えていた。こういう際に、旧知の友人…現団長の…とは違い、上手い言葉が出てこないのは彼にとって常なる悩みの種だった。
「………私は不思議ですよ。なんでいつも、こんなに優しくしてくれるのか。」
なんで…。と、ユーリは繰り返した。
車道が人道に接する所には、水道の鉛管がはみ出していた。それが青白く錆びては水滴を細く垂れ流している。いつの間にか、辺りの空気は静かになっていた。
さあ、なんでだろうな。と、ミケはユーリの質問を質問で返す。
正直なことを言ったまでである。彼自身も、何故彼女のことが気がかりなのかはよく分かっていなかった。
(だが………)
「うちの兵団は、多くが何かしら理由ありで……入団してくる。」
真実にハナから人類に心臓を捧げる為にここに来る者が全てではないだろう…とミケは言葉を選びながら続ける。
「しかし、その中でもお前は特に……だ。」
「理由ありだと?」
「その通りだろう。」
彼女の過去を思うと、ミケの鼻腔にはいつもあの劇場の饐えた臭いが蘇った。
その不快すぎる臭いの中で育ち、食べ、生きる心地とはどんなものだったのだろう。
「その上に…ユーリ。お前はひどく繊細なように見える。その精神の脆さから、自分の力が十二分に発揮できないのは……上官としては…勿体ない、と………」
言葉を選びすぎているな、とミケは思った。
これでは自分が嫌っているユーリのルーチンの態度と同じではないか。しかし、それ以上を説明する術を残念ながら彼は持ち合わせていなかった。
そうですか、とユーリも彼に合わせて当たり障りなく応える。それきりしばらく会話は途絶えた。
いつの間にか、馴染みの公舎の前へと二人は戻っていた。
ユーリがこちらを見上げ、別れを告げるタイミングを図っているのをミケはひしひしと感じる。
しかしどういうわけか……彼には別れが、ユーリの掌を離してしまう行為がためらわれてしまっていた。
「わざわざ一緒に帰ってくださって、ありがとうございました。」
ーーーーー遂に、ユーリの方からこの時間の終わりを切り出された。
仕様がないので、ミケは大人しく握った手を離すことにする。彼女は笑い、お休みなさい、と呟いた。
「ユーリ」
何事もなかったように一歩前へと踏み出して宿舎へと向かおうとするその背中へと、ミケは一声呼びかける。応じて彼女が振り返った。
しばらく互いを見つめあった後、彼はゆっくりと切り出す。
「お前は…確かに理由ありで精神が虚弱だ…が。虚弱なりに苦労しながらも、俺たちに心を開きかけているな。」
ユーリは何も応えなかった。ただ不思議そうにミケのブルーグレーの瞳を見上げている。
「そして俺に、幾分懐いているようだ。」
言葉を紡ぎながら、ミケは緩慢に腕を伸ばしては彼女のすっかり冷えてしまった頬に触れてみる。
するとごく自然に、ユーリの瞳…僅かながらに見える…の形が穏やかに細められていった。
彼女のその所作は、予想外にミケの心を揺さぶった。…………気持ちを落ち着かせるために、数回深い呼吸を試みる。
「それが……。嬉しくない、わけではない。」
最後はほとんどため息のようになりながら、ミケは言葉を切った。
ややあって、ユーリが自分の頬に触れる彼の指先に掌を重ねる。
「ええ………そうです。」
先ほどと同じように…彼女の声は子供のように細くなっていた。
それを、ミケは地面に視線を落としながら聞いていた。人よりも自身の感情に対して鈍い彼だが、今が大切な時間なのだと思う自分の心象を、僅かながらに感じることができていた。
「懐いてますよ。」
きゅっ、とユーリが少しだけ指先の力を強くした。その行為に堪らず……本当にふと、ミケは両腕で彼女の身体を掻き抱いてしまいそうになる。…………寸でのところで、思いとどまった。
今度こそ、二人の掌と指先は離れていく。互いに別れの挨拶はしなかった。
ーーーーー時刻はすでに、日付を超えている。
*
ユーリは自室にて、声を上げながら泣いていた。
先ほどまで滞在していたエルヴィンの部屋では、決して涙を見せないようにと懸命に堪えていた。
それがまるで堰を切ったように、子供のようにしゃくりあげながら、彼女は泣いていた。
ーーーーーーー父親に打たれた頬の痛みは、至極軽く…まるで問題にもならないようなものだった。
今だって僅かに皮膚が赤くなっている程度だろう。寝て…明日起きれば、何もなかったようにユーリの皮膚は元の白さに戻るに決まっている。
しかし殺風景な部屋の中、ユーリはベッドの上で自分の膝を抱えながら泣き続ける。体の痛みなどは問題ではなかった。
涙はまるでとめどなく、自身がこんなにも泣き虫だったのかと今更ながらに驚かされる。
つつがなく、父親への仕事の事後報告は終わる筈だった。いつもと同じ、何の感動も悲哀も伴わずに。
だがエルヴィンはミケと連れ立って帰ってきたユーリを目撃したようである。彼の詰問に窮しながらも、ユーリはミケと出会い共に帰路に着いた経緯を説明した。
そして……僅かな間ではあるが彼女の顔を兵団の関係者であるミケに見られた可能性、そこから連想されないとも限らないエルヴィンとの関係、そして彼女の仕事の内容を感づかれた稀有。その周辺の諸々がエルヴィンの静かな怒りを買ってしまったらしい。
(お父さんは……今日、私が仕事をするために沢山の根回しをいつもするから。)
だから、彼女の軽率な行動をエルヴィンは嫌っていた。
ミケと別れた後、どこか地に足がつかなくなっていたユーリはそれをすっかりと忘れていたのだ。
(何故いつも私は、あの人の負の感情ばかり喚起させてしまうんだろう。)
一向に去らない胸中の悲しみと格闘しながら、ユーリは考えた。しかし考えてもほとんど栓はなく、それは彼女の思考を磨耗させるだけだった。
(一度で良いから……笑ってほしい、だけなのに。)
遥か彼方の地平に、一筋の白い光が現れ始めた。
長くなり始めた秋の夜が明けるのは遅い。立ちこめた闇は徐々に払われ始めるが、辺りが明るく照らされるにはもう少し時間がかかりそうだった。
prev /
next