◆質疑 1
また二週間が巡り、調査兵団に束の間の休日が訪れた。
ユーリは花瓶代わりにしていた缶詰の空いたものをぼんやりと眺めながら、ハア、とため息をした。
(花ってすぐダメになっちゃうな……いや、私の育て方が下手なだけなんだろうけど。)
そこには、もう随分前から花は生けられていない。
先の休日で摘んできた花は僅か数日で枯れ、空き缶だけが所在なさげにユーリのベッドサイドのテーブルに置かれているだけであった。
(新しいの……買うか、摘むかしようかな。)
それは、空の容器を見ながら何度も彼女が考えたことだった。しかしそれを実行することは今日までついになかった。
(花……摘みたい……って、言ったら。また……一緒にいてくれるかな。)
ユーリは、ぼんやりとした輪郭を頭の中に描く。ようやく気持ちが馴染んできた、長身で頑健な体躯を持つ上官の姿に。
ハア、とまたため息が出る。
相も変わらず、この日は宿舎も公舎も静かだった。ペトラが実家に帰っている為に、ユーリを構う人物はまるでいない。その事実が辺りの静寂を一層深めているように思えた。
……………今日は休日である。忙しい分隊長にも少しの暇はあるだろう…。それならばきっと、優しいあの人はなんだかんだで自分に付き合ってくれるに違いない。
(でも……今日は駄目。)
空き缶を軽く爪で弾けば、いかにも空虚な音が響く。
自分の気持ちを切り替えるために、ユーリは垂らしたままだった後ろ髪を縛りながら立ち上がった。
「家族との用事を優先させますので……?」
誰に対してという訳でもなく、ユーリは言い訳じみた言葉を声に出す。そうしてさっさと自室を後にした。こうする、と決めた後の彼女の行動はいつも迅速だった。
*
ユーリは、父親が用意してくれた官僚の屋敷までの地図を広げては見下ろしていた。見下ろしたままで、「遠いですね」とぼやくように言う。
「この距離じゃあ、用事を終わらして帰る頃に辺りは真っ暗ですよ。」
くるくると地図を巻き取りながら、ユーリは相変わらず自分の方を見ようとしないエルヴィンへ言葉を投げかけた。
「何か問題があるのか。」
しかし彼は淡白にそう返すだけである。
「問題……は、まあ。無いですけど。休日ですし?でも休日なんで私もちょっとくらい休みたかった……なんて。」
「…………休日の方が…公舎に人が少ないだろう。お前や俺の行動をあまり周囲に悟られずに済んで都合が良い。それに毎度、こう言った日の翌日は休んで構わないと言っているだろう。話は通しておく。」
「ええ。ありがたく休ませて頂きますが……。でも、休みが人と被らないもんだから、中々友達と遊びに行けないのが残念ですね。」
「そうか。」
(そうか………って。)
エルヴィンはいつもユーリとの会話を早々に切り上げてしまう。だからこの親子はじっくりと言葉を交わしたことがなかった。話すことは事務的な内容がほとんどで、ユーリの軽口や冗談を彼は全く取り合ってくれなかった。
二人が口をつぐんだので、辺りはしんと静寂した。その静寂がユーリは嫌いだった。冷え冷えとした空気を感じないように、無理に楽しいことを考えようとした。
(例えば……私とこの人が、なんでもない会話を楽しく、交わすことができたら……普通の親子みたいに………なんて。)
しかし胸の内に浮かんだ想像はあまりにも寂しいことだった。するだけ無駄な空想を描いてしまったことをユーリはひどく後悔した。
「ペトラちゃんは………今日、実家に帰って家族に会ってるみたいですけど……」
なんでもない風に平静を装いながら、ユーリは窓の外へと視線を向ける。
細い枝の先に真っ赤な実が鈴なりにぶら下がっていた。灰色の空の下、嫌にそれが鮮やかに見える。
「折角の休日に…団長は家に帰ったりしないんですか。」
……………エルヴィンはやはり黙ったままだった。ユーリの方を見ずに、着席したままで何かの書類に折り目正しい文字を書き綴っている。
「………………………なぜ、それを聞く。」
たっぷりと間を空けて、エルヴィンが応えた。やはり視線は書類へと落としたままだったが、彼から言葉が返ってきたことはユーリをやや安堵させる。
「いえ………。貴方、いつもここにいるから。私みたいな拾われっ子でもないのに…何でかなって、思って。」
窓の外の実を食べに、黒々とした鴉が低く鳴きながらやってくる。その嗄れた声はどこか女の哄笑を連想させた。
「家は……ないんですか。」
なんとはなしに鴉の嘴の中に消えゆく鈴なりの果実を眺めながら、ユーリは質問を重ねる。
「貴方の、家族は「家族は、父親が一人いた。」
彼女の言葉を打ち消すように、エルヴィンが声を上げた。返答というよりは威圧するような彼の声色に、ユーリはびくりと肩を震わせて父親の方を見る。
「だが、お前には関係のないことだ。」
言葉の硬さを隠さずに、エルヴィンは淡々と告げた。
ユーリはしまった、と思う。どうにも深入りをしすぎてしまったようである。そういった自分の迂闊さを彼が嫌っていることを思い出せば、その気持ちは尚更であった。
「……………ごめんなさい。」
小さな声で謝り、ユーリは父親の元を立ち去った。こういう時は何も言わないのが得策だ。これ以上彼との関係が拗れるのはごめんだった。
*
(全然………距離、縮まらないな。)
長い公舎の廊下を歩きながら、ユーリはなんだか泣きたかった。
しかし距離が縮まらないのは当たり前である。二人の関係や絆を深めることはエルヴィンが最も望まない行為だった。それは初めて会った時から、繰り返し繰り返し教え込まれていることだ。
(私って、物分りが本当に悪い。)
歩む廊下が永遠に続くような閉塞感を覚えながら、ユーリはただ歩を進めた。歩く度に、長く伸ばした前髪が眼前で揺れる。父親によく似た顔を隠すために伸ばした前髪が。
(家族は、一人、いた…………ね。)
(今は?)
(私は家族じゃないんだよね…………。)
(当たり前か。)
いつの間にか、外に出ていた。地図はもう暗記している。その足で、目的地まで向かうことが出来る………。
街は笑い声で溢れていた。流行の店の前や公園、甘い匂いを漂わす何かの屋台。鮮やかな景色の中を、ユーリ一人だけが色彩を欠いてしまったような気持ちになって歩んでいく。
(皆、楽しそう……)
(笑ってる……)
(私、あの人が笑ってるところ一回も見たことない。)
(一度も、私に笑って見せてくれたこと……ない。)
笑顔。
笑顔にも様々な種類がある。人の数だけ。ユーリがかつて過ごした地下街の劇場でも、皆笑っていた。興奮と嘲笑。刹那を楽しそうにしながら、皆笑っていた。
(私はずっと、強いから……弱い人間を犠牲にしても揺るがない精神力があるから、蹂躙できるだけの力があるから、あの場所で生きていけたんだと思ってた。)
道化の格好に扮した男が、子供達に風船を配っていた。色とりどりの丸い風船玉はふわふわと空に漂い、道化の周りに立った沢山の小旗も気持ちよさそうに風に吹かれている。
(でも、本当は違うよね。惰性、だったんだよね。ただ…流されて、そこに斧があったから、手に取った……本当に、それだけ。)
(今だってそうじゃない。惰性で人を傷つけて、殺してるんだ。)
道化の男はユーリの視線に気が付いたのか、風船玉をこちらに差し出してくる。曖昧に笑い、彼女は仕草でそれを断った。
(償うこともせず、ただ運命に流されて操られるだけの、道化……)
(ただの、道化……。)
赤、青、黄。風船だけでなく、紙吹雪も辺りに漂っていた。今日は何かの祭りなのだろうか。街は殊更鮮やかな色彩と華やかな装飾で彩られていた。それが、一層にユーリの心にやりきれない陰影を落とし込んでいく。
(滑稽で、憐れだ。不憫で、痛々しい……)
見せ物≠やめてようやく舞台から降りれたと思ったのに、未だ道化のままでいる。何も、変わっていない。自分は何も変われていないのだ。
ハア、とユーリはまた溜め息を吐く。しかし足取りだけはしっかりと、目的地を目指して歩み続けていた。
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