◆自問 2
公舎内の空気は、弛緩しきっていた。
休日はいつもこうである。そもそも公舎にいる人間が少ない。ミケもまたやり残していた雑務を早々に終わらせてはなんとなくぶらついている身である。
だが、彼はこう言ったなんでもない時間が嫌いではなかった。壁外調査の前後最中の目の回るような忙しさを思えば、この一時さえ愛おしく感じるというものだ。
そんな折である。廊下を当てもなく歩む傍、ふと窓の外に視線をやったミケは、公舎の尖塔のてっぺん近くで奇怪な何かを発見する。
(…………………?)
…………一応、この公舎にいる年月は相当長い部類に入るミケである。
彼の記憶が正しければ、眼前の尖塔はほぼ飾りで、あの場所へと通じる階段は現在安全上の理由から閉鎖されている筈だ。
(鳥………にしては、でかいな。)
何となく、彼はため息を吐いた。
(……………………。)
そして、進行方向を変えては上へと続く階段の場所を思い出そうとした。
*
「…………。生きてるか?」
「んっふー……死んでまあす。」
「そうか、死んでるのか。」
ユーリの冗談を取り合わず、ミケは尖塔の下、空へと突き出た縁に体を横たえる彼女の隣に腰を下ろした。
ユーリの膝から下は空中に放り出されており、彼女は力の抜けた仕草でそれらをぶらぶらと風に煽られるままに揺らしていた。
「よく………こんなところまで登ったな。」
「馬鹿なんで高いところが好きなんですよ……。ここ、静かだし。」
そう言って彼女はゴロンと寝返りを打って、ミケの方に顔を向けた。
その際に、薄く垂れている前髪の間から青い瞳がチラと覗く。しかしそれはすぐに隠れ、彼女の表情は分からなくなってしまった。
少しの沈黙。柔らかい風が、遠くの山から青臭い匂いを運んでくる。
「折角の休日だが…お前は出かけないのか。」
「出かけませんよ…。」
「ペトラ達は連れ立って街へと行っているだろう。」
「らしいですね。」
「随分他人事だな。」
「そりゃあ…他人事ですから………。」
ユーリはひとつ息を吸い込み、んふふ、と心弱そうに笑った。
「他人事と言うことはないだろう。同じ兵団員だ。」
どういうわけか、ミケにしては珍しくムキになって言葉を返す。ユーリは少しびっくりしたように黙り込んだ。薄い金色の髪の間から、こちらをじっと伺うように眺めている気配がする。
「………そうですね。すみません、自分勝手でした。」
そして……彼女は存外素直に謝罪を述べた。ミケは少々面食らい、「いや……」と短く相槌を打つに留まった。
また、風が吹く。空は瑞々しい色に晴れ渡って青だった。
心地良い空気の中、些かの気まずさを覚えてミケは黙り込む。
………最も、彼は元よりよく喋る方でもない。それでも、彼女との会話はいつもこうだった。何を話すべきか、いつでも思慮しては結局正解に辿りつけずにいる。
「お前はいつも……そうなんだな。」
「………何がですか…。」
「いつも周囲と関わろうとしないでいる。」
「まさか……。」
「まさかではない。俺は…それが少し、気がかりだ。」
ユーリはゆっくりと上体を起き上げながら、曖昧に相槌のようなものを打った。
二人の顔の高さが先ほどよりも幾分か近づいた。隣り合う身体の距離も随分と近い。彼女が寝そべっていた時にはその距離感をよく理解していなかったが。
「ごめんなさい…。もしもそれでミケさんに不快な思いをさせちゃったのなら、謝らせてください。」
「い、や…………。」
不快な思いなど。と、否定しようとするが、どうにもそれが言葉にならなかった。
…………会話が噛み合わないのだ。ややクセがあるが、ごく普通の常識を持ち合わせている人間のように見えるのに、どうにも自分たちの常識と、彼女の常識は乖離しているように思えた。
(あの場所の常識と……ここでの常識が…)
それ故に、言葉のひとつひとつに少しずつの齟齬が生じてしまうらしい。だから彼は黙った。ユーリもまた黙っていた。
静かだった。ただ、先ほどよりも隣り合って触れていた肌の面積が広くなった。ユーリがややこちらに体重を傾げているのだろうか。
「……………何も用事が無いなら、花でも買ってきたらどうだ…。」
「花?」
「お前の…ユーリの部屋に飾れば良い。あまりにも殺風景だろう、あそこは。」
「花なんて…買わなくてもそこいらに生えてるじゃ無いですか……。」
ユーリは、足元遠く下に広がる緑へと視線を落とす。思わずミケは彼女の腕を掴んだ。放っておくと、するりとここから飛び降りてしまいそうだったからだ。
………しかし勿論そんなわけはなく、ユーリはミケの行為に驚いたようにする。後、ちょっとだけ笑って「心配しなくても落っこちませんよ。装置も無しに飛び出したら死んじゃいますから。」と彼の意を汲んだ発言をする。
「………買うより、摘みますよ。折角ですから、ここに生えているものの方が良いです。」
彼女は笑ったままで、穏やかに言葉を続ける。
「ミケさん、暇なら付き合ってくださいよ。」
「…………………。」
ユーリが立ち上がるので、腕を掴んだままだったミケも連られるように一緒に腰を上げた。
「急に馴れたな…」
と呟やけば、
「ミケさんは……おじさんなので良いかなあと思ったんです。」
と幾分失礼且つよく意味の分からない応答をされる。
特に意味もなく、ミケはその腕を掴んだままで彼女の隣を歩いた。そして二人で、地上へと続く長い階段をゆっくりと下っていく。
*
「ああ、ああああ」
何の音だろうと思った。数秒後、自分の声だと思い出した。
緩慢にベッドから起き上がり、ユーリは激しく脈打つ自身の胸元に掌を当てた。
ーーーーー辺りは既に真っ暗だったが、感覚で眠りに落ちてからあまり時間が経っていないのだと分かった。
(口の中……まずい…)
噛み締めていた奥歯を緩めると、頭痛の気配も遠ざかった。……しかし噛み締めすぎていたらしい。口の中のまずさは口内の出血に由来しているようだった。
(自分の血か………良かった…。)
周囲を見渡して見覚えのある自室であることを確認すると、ようやく彼女の胸中に安堵が訪れる。
ほっと息を吐いてから再び顔を上げる。明かりをひとつ灯すと……暗闇の中で、何かが淡く白く浮かび上がっていった。
(ああ、)
昼間に柄にも似合わず(最も付き合ってくれた人間は更に柄に似合っていなかったが)摘んだ名前も知らない小さな野花だった。
すぐ側のサイドテーブルの上で、花瓶の代わりにした缶詰の空いたものに無造作に生けられている。
『……………何も用事が無いなら、花でも買ってきたらどうだ…。』眺めていると、上官の低い声が思い出される。
『お前の…ユーリの部屋に飾れば良い。あまりにも殺風景だろう、あそこは。』可愛らしい小さな花びらが、開け放した窓から吹き込んだ夜風に煽られて揺れている。
思いの外匂いが強く、骨に応えるように甘く香った。
やがてユーリはゆっくりとした動作で、同じくサイドテーブルにあった水差しから直接口内に水を注ぎ込む。
そうやって鉄臭い血液を喉の奥へと無理やり流し込むと、自分を落ち着かせるように深い呼吸を2、3回繰り返した。
(そうだよ……これは私の血なんだから……)
水差しから溢れた水滴が垂れる。それがぽたりと野花の上へと落ちたので、花弁は自分たちの重みでふらふらと動いた。
ーーーーーーーあの時は、食いちぎった男の腕の内側の肉と血液の味だった。自分の顎の力がそこまで強いとは思わなかった。それだけ必死だった。
それが……ユーリの愛情や恋慕に対する嫌悪の始まりだったのかもしれない。
(私は………)
生々しい感触を思い出しながら、彼女は自分自身を抱きしめるようにした。
(此の期に及んで、自分が可愛かったんだろうね)
「いやなやつ………」
ユーリは名もない花へと弱々しい言葉を投げかける。………直、父親の部屋へと訪れる約束をした時間になる。それまでに、この情けない顔と声をどうにかしなければ。こう言う感傷を、あの人は一番嫌うから。
(好かれなくて良いから、嫌われたくない)
(たった一人の家族だもの)
野花はただ甘い香りを漂わすだけで、勿論のこと返事をしない。黙したまま……
prev /
next