道化の唄 | ナノ

 ◇沈黙


「寒くなってきた…」


装飾的なタフサのついた重たいカーテンの端を持ち上げ、ユーリは窓ガラスの向こう側…秋に染まりつつある景色を眺めた。

太陽はすでに沈みきり、セピア色の風景の中には夜の濃青が混ざり込んでいる。

そっと窓硝子に触れれば、すでにそこはキンとして冷たかった。


「でも…マフラーには、ちょっと早かった…かなあ。」


ユーリは振り向いて、部屋の扉近くに踞る影に語りかけた。しかしそれは応えず、ユーリの声は豪奢な部屋の中で虚しく反響するに留まった。黒い影はまるで死んだように沈黙している。

…まだ、薬で眠っているだけ。けれど、ドアノブから伸びてはピンと張っている荒縄は徐々にこの老人の首へと食い込み、その眠りは永遠のものへと変わっていくのだろう。


「まあ、いっか。」


ユーリは今一度、彼の太い首にぐるりと巻きついた茶色い縄の具合を確かめる。

そして、待った。彼が完全に事切れるのを。







手芸店がこの時間にまだ開いていることに、ユーリは安堵の溜め息を漏らした。

安堵ついでにご機嫌になりながら、彼女は店の扉を押して開く。軽快なベルの音がそれに合わせて鳴った。


(んん……まずはエレン…。作りかけの山吹色のがもう毛糸無いんだよね。)


なるべく、あの少年の輝くような瞳の色に似たものを。

彼のことを考えながら、ユーリはずらりと毛糸が並ぶ戸棚の傍をうろついた。


(次…ペトラちゃん。女の子らしく薄紅色とかかなあ。でもオルオ君とお揃いとかにしても面白いよね。)


おしどり夫婦のように、息の合った掛け合いをする二人の姿がユーリの脳裏に浮かぶ。

今度は微笑ましい気持ちになって、彼女は自然と頬をほころばせた。


(エルド君は爽やかに若葉色。グンタ君は優しい青色かな。あとリヴァイさんは灰色…じゃ味気ないから、ちょっと落ち着いた胡桃染めの……とか。リヴァイさんが好きな紅茶にも近い色だし。)


想っている人間の顔や性格をひとつずつ丁寧になぞりながら、ユーリは彼らの為のマフラーの完成図を空想した。


(ミケさんや……ナナバさんにも作ってあげたい。でも、迷惑かな。こんなのおせっかいで、自己満足に過ぎないのかな。)


これで、彼や彼女がこの冬に寒い思いをしなくなれば良いのだけれど。ちょっとでも、身を切るような冷たさから守ってあげれたら…………


(良いんだけれど。)


そして、彼女の脳裏にもうひとりの人物の影が浮かんでくる。滲んだ輪郭をしていて、姿をはっきりとは捕らえられない。けれどそれが誰なのか、ユーリは充分に理解していた。







ユーリは、二種類の紙袋を携えて公舎への帰路についていた。

ひとつは、手芸店で手に入れた安っぽい茶色のハトロン紙で作られたものだ。思いの外量が増えてしまった、多様な種類の毛糸が内包されている。

そうしてもうひとつは、金の箔押しで留めらた如何にも丁寧な造りの袋である。結われたシルクのリボンが上品な様子で街灯の光を反射している。押された金の箔は、有名な紳士服のブランド名を形作っていた。


……………実に良い値段のものであった。金勘定には殊更執着しているユーリにとって、この出費は手痛かった。


(でも……手作りとかそういうの、あなたは嫌がるでしょ?)


守銭奴で、銭ゲバ。そういう風に浅ましく生きてきた甲斐もあって、ユーリの懐にはそこそこの金が存在していた。だから、できるだけ高価なものを買ってみることにした。

………けれど、必ずしも高価であれば良いものということではない。

人間は…特にユーリの周りにいる調査兵の人間は、そこにあまり価値を置かない。もっと別のところにある種の価値を見出す。


(でも………。やっぱり、私がそういう風にするの、あなたにとって迷惑でしょう?)


知ってるもの、とユーリは呟いた。


木枯らしが乾いた風を遠く壁外から運んでくる。枯葉がかさかさと足元で音を立てていた。ユーリが歩くと、それはいとも簡単に崩れてしまう。パチリ、と小気味の良い音を立てながら。


ユーリは金を大事にしていた。それによって多くの苦労を味わった彼女は、いつしか非常に金銭に執着するようになったのだ。けれど金の大切さと力を知っている反面、それの限界も分かっていた。そして……それが、自分に出来ることの限界だった。


(お金では買えない…………)


本当に欲しいものは、いつだって金では買えない。

けれど、こういう術しか知らないのだ。

だから、手に入らないと分かっていながら………いつも。


(なにしてるんだろう、私。)


馬鹿らしくなって、ユーリは笑ってしまった。

秋の空気と同じように、乾燥しきった笑い声で。







「……………痩せたのか。」


静かな声と共に、大きな掌がゆっくりと彼女の腹の辺りを服の上から這った。

唐突だった。ユーリは目を見開いて、現在眼前にいる男のことを凝視する。


「…………………。」


それに気がつき、エルヴィンは掌を元の位置に納めた。

そして彼は、小さな声で「すまない」と言った。

ユーリもまた、ごく微かな声で「いいえ………」と応える。


辺りは沈黙の気配を漂わせ始めた。

それが気詰まりで、ユーリは「今日も………滞りなく。」と事務的な報告をした。

エルヴィンは返事をしなかった。


(……………………。)



ここ最近、彼のユーリに対する応答には曖昧さが混在することがあった。

らしくない、と思う反面…彼もまた、自分と同じようにこの距離を取りかねているのかとも彼女は考えた。


(まさかね。)


その考えを、ユーリはすぐに打ち消した。こういう半端な幻想は何時も失望に終わる。それは辛いことだった。避けたいことであった。


(でも………)


触れられた場所が熱かった。その熱を確かめるように、彼女は恐る恐るそこに指先を置く。そうして確かめて、今しがたの感覚を忘れないようにしようと思った。


エルヴィンはエルヴィンで、彼女のそんな姿を眺めていた。

その青い瞳が、一瞬なにかを含んで細められる。しかしそれは本当に一瞬で、すぐに彼はいつもの厳粛な表情を形作った。


「…………育った環境の割には、触られることに慣れていないのか」

「……………!」


ユーリの白い頬がさっと赤く色づく。羞恥、憤り、切なさ、寂しさ。顔色の変化は僅かながら、様々なものが乱暴にぐしゃぐしゃとかき混ぜられたような表情だった。


「そういうこと言って…また、私に嫌われちゃいますよ…………。」


彼女は精一杯に堪えらえない感情を押し殺して、冗談めいたことを言ってみようとしている。


「…………構わないさ。存分に嫌えば良い………。」


俺も、お前が嫌いだからな。


それは、流石に声となっていくことはなかった。

エルヴィンは黙った。彼は、ユーリを傷付けることを躊躇した。………彼女が示す愛情への拒否を迷ってしまった。そしてそのことを、後悔した。


「これ…………。」


黙り込んだ彼に、ユーリは半ば押し付けるようにブランド名が箔押しされた紙袋を渡す。


「寒くなるから………。」



もう、ユーリは話す気力を失っているようだった。

それだけ零してから、「今日はこっちの自分の部屋で寝ます…。古城には明日戻りますから……。」と小さな声で続けて、団長室を後にしていく。


エルヴィンは去っていく娘の姿を見ようともしなかった。

渡された紙袋に、彼の太い指が食い込む。嫌な音を立てて、折り目正しいそれはひしゃげられていった。







そして翌朝。ユーリは公舎のゴミの集積所で、例の紙袋を発見する。

あんなにも折り目正しく、きちんとリボンで結われていたそれには無数の皺が寄っていた。

彼女は幾度目かの溜め息を吐く。そうして、紙袋をゴミの中から拾い上げては見下ろした。ずっと、見下ろしていた…。

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