道化の唄 | ナノ

 ◇声


ギッと重たい木の扉が鳴って、少し震える。

暫時の間の後、それは内側へと開かれた。そしてユーリの「ただいまぁ…!いやぁめっちゃ寒い……」という間延びした声が耳に入る。


横になって少しの間ぼんやりとしていたミケは、ハッとしてその方を向き、起き上がろうと片腕で身体を支える。

しかしながら、うまく力が入らない。むしろバランス感覚を失って妙な方向に姿勢が崩れる。

扉から入ってきたユーリはまさにその光景を目の当たりにし、焦ったようにして「わ、ミケさん。大丈夫大丈夫。そのまんまでいて。」と言ってはこちらに駆け寄ってくる。


「いや……ヒヤッとしたよぉ。ミケさんベッドから落っこちちゃうかと思った。」


ミケの身体を支え、彼が態勢を立て直すのを確認すると…ようやくユーリはハァ、と息を吐いて安堵の表情をする。


「………今日はまたどうしたんですか。それとも、そんなに私が帰ってきたのが嬉しかったぁ?」


ユーリはニヤニヤと嬉しそうにしながら、手にしていた鉢を持ち直してミケの顔を覗き込む。

ミケは……ユーリの台詞はひとまず無視し、「レモングラスをどうするつもりだ。」とその鉢植えについて訪ねた。

「あら、ミケさん知らないんですか。レモングラスは寒さに滅茶苦茶弱いんですよぉ。そろそろ屋内に移してあげないと枯れちゃいます。」

答えながらユーリは鉢を床の上、適当な場所に下ろした。そして「もう少し日当たりが良い場所の方が良いかな……」と呟いてはまた別の場所へとずらす。


「ユーリ。」


ミケがそんな彼女の名前を呼ぶと、応えて立ち上がり、彼の方へと振り向いてくる。

その際に下ろされていた金色の髪が揺れて、淡い夜の匂いが運ばれてきた。ミケが好きなユーリの匂いだった。


(………伸びたな。)


それに感じ入りながら、ミケはぼんやりとした感慨を抱く。且つては肩に触れるくらいだったその髪は、今は肩甲骨の辺りにまで真っ直ぐに伸びていた。


…………呼び止めたは良いが、一向に要件を切り出さない彼に対してユーリは不思議そうな表情を向ける。

それに気が付いたミケは、「いや…外はそんなに寒いのか。」と取り敢えずの言葉を呟いてみた。


「ええ、もうそりゃぁ。初冬でこれなんだから、今年の冬の寒さは絶対ヤバいですって。」

答えながら、ユーリはミケが半身を起き上げていたベッドの傍まで歩みつつ外套を脱いだ。


「まあ…でも。この屋内はあったかいですね。つくづく良い家ですよぉ。」


ユーリはベッド脇の椅子の背にそれを掛け、自分自身もそこに腰を下ろした。

そうして彼の顔を覗き込むようにして微笑むので、眉の辺りで綺麗に切り揃えられた前髪の下、青い瞳がそっと優しい形になる。

ミケも同じように微笑して、傍まで来た彼女の頬を掌で触った。ユーリは少しくすぐったそうにするが、嬉しそうにその行為を甘受する。


本当は、両の掌でそこを包み込むようにして額を合わせたかった。

だが、その為に必要な右の腕が自分には無かった。

立ち上がって、彼女を出迎えてはその冷えているであろう身体を抱いてやる為に歩む脚も。ひとつ、足りなかった。


だから…彼女の後頭部に手を添えるようにして、額を合わせた。

自分の胸中のやり切れなさに反して、ユーリは至極幸せそうだった。


風に煽られたのか少しもつれていたユーリの髪から掌を離す傍、自分の腕が目に入る。そこを眺めながら、思わず「随分、細くなったな…」と小さく呟いてしまった。

ユーリはミケの気持ちを汲んだのか、少し目を伏せて「……仕様がないですよ。」と同じように小さな声で返す。


「でも…昔の逞しいミケさんは勿論格好良かったけれど、今の儚い感じだってとってもセンシティヴでセクスィーですよ?」

「……お前、発言する前にちょっと考えた方が良いぞ…。言葉の選び方に馬鹿っぽさが滲み出ている。」

「貴方ひどいこと仰る!私の渾身の褒め言葉に対してなんちゅう言い草だよコラぁ」

「こ、渾身だったのか。すまん、ハッキリ言うがお前ってセンス無いよな。」

「おおぅ!!この寒空の下身を粉にして働いて帰って来たのに亭主からのこのひでぇ言い草はどうよ!!?吐いた唾飲まんときよぉぁあん!?」

「おいだからあまり汚い言葉を使うな。子供が聞いてて真似したらどうするんだ。」

「………まだレンズ豆くらいの大きさですけど。」

「大豆くらいはあるだろう。」

「いや…別に何豆でも良いですけど……。所詮豆ですから聞こえやしませんよぉ。」

「お前は胎教という言葉を知らんのか。母親になる自覚がまるで足りて無いな。そもそも「ああんもう分かりましたよぉ、なんすか説教ですか。もう貴方は私の上司じゃ無いんですよ?」

「だが旦那だ。それにお前の腹の中の子供の父親でもある。説教したくもなるのは当たり前だろう。」

「なっ、成る程。……確かに。」

(こいつは馬鹿だから言い包めやすくて助かるな…。)

「ちょっとぉ!!何失礼なこと考えてるんですか!!!」

「……相変らずこう言うことにだけは敏感なんだな……。」


呆れつつもなんだかおかしくなって、ミケは笑みを漏らした。

ユーリはじっとりとした視線でミケのことを眺めていたが、やがてひとつ溜め息をしては彼と同じように笑う。


「……………で。今日はもうお仕事は終わりなの?ミケさん。」


そしてミケが半身を埋めていたベッドの上へと頬杖をつきながら、人懐こい笑顔を浮かべて尋ねてくる。


「そうだな……。中々調べることが多くてあまり進まなかったが…。」


応えて、ミケは先ほどまで自身が作業していた机へと視線を向ける。

少々疲れていたので、片付けはおざなりだった。資料の紙束や書籍、万年筆とインク壺などが規則性なくその上に散らばっている。

………今の自分にとっては、ベッドと机の僅かな距離の移動も不便極まりなかった。杖も車椅子も未だに慣れず、長時間使用していると変な汗が吹き出てくる始末なのが情けない。


「ふうん………。」


ユーリもまたそちらへと顔を向けては少しだけ目を細める。

そして、「お疲れ様。」と穏やかに呟いた。


「ミケさんって、頭良くて良いね…。家の中でもこうやってお仕事できるんだもん。」

すごいなあ、とユーリは感心したような声を小さく漏らす。


「ああ、そうだな……。こればかりは、こうなったのが俺の方で良かったとしか言いようがない。……お前には、色々と迷惑だろうが…。」

「そんなこと言わないでよ。……まあ、でも確かに私はあんまり頭良くないからね。片腕じゃお裁縫だって出来ないし。」

「………あまり自分のことを悪く言うな。」

「あれ、しょっちゅう私のこと馬鹿にしてるミケさんがそれ言うんだぁ。」

「俺が言うのは別に良いんだ……。」


俺はな、と呟いて、ミケはユーリの方へと視線を戻す。ユーリもまたミケのことを見ていた。

彼女は少しだけ苦笑して、「そう言うもんですか。」と言う。「………そう言うものだ。」とミケは静かな声で応えた。


「お前の方は今日…一日は、滞りなかったか。」

「うん、いつもと一緒だよ。あぁ、でも…もしかしたら近いうちに別の店に行くことになるかも。って言うのも、今のテーラーが新しく店舗構えるみたいでね。ドレスメーカーなの。私、そっちの経験もそこそこあるから……。」

「場所はどこだ。」

「街の中心のカリヨン棟のすぐ傍。」

「………少し遠くないか。」

「そうかな。」

「そうだろう。」

「んふふ、私の帰りが遅いとミケさん寂しいもんねぇ。」

「……………………。」

「あらヤダ、こう言うことになるといっつもだんまりですよこの人は。」


軽快に笑いながら、ユーリはミケの肩の辺りをペチンと叩いた。

それを甘受しながら……決して明るくはない二人の生活にいつも笑い声が絶えないのは、ひとえに彼女の一見軽薄とも取れる性質のおかげだとミケはしみじみと感じた。


気を使う必要の無い人間の存在とはありがたいものだと考えながら、ミケは残されていた左手で彼女の髪をひと房掬う。

それに気が付いたユーリは少しこそばゆそうにしながら目を細めた。


「うーん…。でも私、やっぱりドレスメーカーの方に移るよ。……お金欲しいし。」

「相変わらず現金な奴だな。」

「違うって!ミケさん知らないの、子供って滅茶苦茶お金かかるんですよ!?あとなんて言うか、お金は全てじゃ無いけれど……やっぱり、出来るだけこの子が自由に生きていけるようにさぁ…ある程度の余裕は欲しいじゃない。」


ねえ、と言いながらユーリは自分の腹部に手を当てがって首を傾げた。

ミケは彼女の頭髪を指先で弄びながら、ゆっくりと瞬きをする。そして「ほう……。」と声を漏らした。


「なんだ、ちゃんと母親の自覚があるんじゃないか。」

「あるに決まってるでしょ。」

「それは……馬鹿にして悪かったな。」

「ほんとですよ、全く。反省してます?」

「あんまりしてない。」

「貴方ほんっとムカつきますねぇー。」


怒りますよ?と言いつつもユーリの表情は楽しげだった。

そして、自分の髪に触れていたミケの掌を取っては指先に軽く口付ける。


「さっ…、軽口はここまでにしてご飯かお風呂にしましょう。どっちが良いです?どっちにしても漏れなく私が付いてきますよぉ。」

「……………取り敢えず飯にしよう。お前は抜きで頼む。」

「あれ、そんな心ないこと言うと本当に抜いちゃいますよ?」

「………………………。意地が悪いな。」

「いやいやぁ、意地悪はミケさんでしょ。最初から素直に愛情表現して私のこと大事にしてくださいよ。」

「まあ許せ……。俺なりの愛の形だ。」

「んふ、分かりにくい。でもちゃんと知ってますのでご安心を?」


ユーリはクックと可笑しそうにしながらミケの掌を撫でたり、指先でクルクルとなぞったりする。

………随分と肉が落ちてしまった身体とはいえ、手の大きさは変わらずにユーリのものと随分差があった。

自分に比べたらまるで子供のような彼女の手を握ってやりながら、ミケはまた心弱い笑みを漏らす。


「なんです、今日はよく笑ってくれますねえ。」


ユーリは嬉しそうにそこを握り返しながら、安心しきっているのか…柔らかい表情で言う。

ミケは「いや…。」と呟いて、首をゆるゆると横に振った。


「なんだか……幸せだと、思う……。」


ユーリに伝えてやりたいことは沢山あったが…それでも自身の性格上、的確な言葉を選びきれずに結局口に出来たのは僅かだった。

それでもユーリは、至極幸せそうにしながら優しく笑い続けている。その穏やかな表情を見ていると、ミケは胸が締め付けられる感覚がした。痛いほどである。


「…はは……、」


思わず、笑ってしまう。

そして自然と胸の内を呟いた。


「まるで……夢のようだ。」


自分自身にこんな平穏が訪れるとは。……人並みの、幸福が手に入るなどと。


ユーリはそれに応えるように目を伏せてから、今一度視線を上げてミケの方を真っ直ぐに見た。

そして、ゆっくりとした所作で彼の些か伸びてしまった髪を耳にかけてやりながら、紅色の唇を開く。


「……夢みたいなのは当たり前だよ。」


ミケの髪に触ったままの掌でその箇所をそっと撫でながら、ユーリは優しく言葉を紡いだ。



「だって、これはミケさんの夢だもん。」



彼女のその一言が、まるで洞窟の奥から鳴ったように辺りに伝わり、残響した。


そして周囲の温かい景色は消失し、真っ黒な空間だけが視界一面に凄まじい勢いで広がっていく。


良く洗濯されたシーツも、やや硬い枕も、自分の仕事机も書物も資料も紙束も、少し禿げた床板、厩を改造して作った為に煉瓦が剥き出しの壁、ユーリが丹精込めて育てた植物の数々や二人の子供の出産日を二人で指折り数えた暦も全てが無と暗闇の中へと溶けてなくなっていく。


「……………ユーリ…?」


空恐ろしくなって、ミケは今の今まで自分のすぐ傍にいた伴侶の…伴侶だった筈の、女の名前を呼んだ。

…………返事が無い。確かにその肌に触れ、掌を握っていたのに関わらず、その声も温もりも息遣いすらも感じることが出来なかった。


「ユーリ………っ、」


焦れて、不安になって、もう一度その名前を呼ぶ。視界を覆い尽くす闇へと手を伸ばして、その存在を掴み取ろうとした。


だが、自分の腕がなかった。

それどころか、身体も見当たらない。


……………思い出した。


(あの時、俺は胸部を抉られて……、っ……)


四肢を引き裂かれた壮絶なまでの痛みがまざまざと感覚として思い出された。


違う、これは思い出などではない、だって、今まさに、…っ………



ーーーーー真っ暗だったミケの視界の中、急激に鮮烈な黄金色が飛び込んでくる。

深い蒼の中に浮かぶ月は、細い金色の光を静かに周囲へと垂れていた。

それらが茂る草の夜露に乱反射して、炉にくべた錫のように激しく煌めいては消えていく。


そこに浮かび上がるのは、おぞましく巨大な異形の顔、顔、顔、顔、顔顔、顔顔顔、
顔顔顔顔顔、顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔顔



「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」



そしてミケは自分の壮絶なまでの悲鳴を聞いた。

身体を貪り食らわれるという凄まじさ、慟哭と砕かれる骨、絶叫とすり潰される肉、自分の体液と奴らの得体の知れない体液が混ざり合って粘着質なまでに糸を引き、嗚咽、嘔吐、嚥下など到底ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ


灼熱を帯びた自分の断末魔は彼らの汚らしい咀嚼音の中、しめやかな円い月に照らされた青い景色を引き千切るようにして四方へと響き渡っていく。

だが、それに応えるものは誰もいない。救済は成されず、為す術は何もない。


そしてぼろぼろと掻き毟られて剥がれ落ちていく意識の中で、思い描いたのはやはり彼女のことだった。


(………こっ、これから……ユーリは、永遠に俺の手が届かない場所で新しい傷を作り続けるのか……っ……!???)


そんなことは堪えられなかった。

自分こそが、自分だけが、今度こそユーリの拠り所になってやりたいと心から願っていたのに…っ…!!!

すぐ傍まで、幸せな未来の姿が確かに見えていたというのに………っっっ!!!!!!!!!


最後の力を振り絞って、臓腑の奥から愛しく思うその名前を絶叫した。


だが声は届かない。

もう、永遠に。



850年、ウォール・ローゼ内で猿の巨人に遭遇。


ミケ・ザカリアスは死んだ。



第二章 Scherzo - end

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