◆笑い声
「…………………。おんやあ、夜這いですかあ。」
深夜だった為……ノッカーを控えめに叩いてみれば、顔を出したのは見覚えのある顔だった。
ミケは軽く息を吐いてから、「随分遅くまで起きてるな」と呟いた。
……………出迎えてくれたユーリの背後に広がる部屋は、ベッドが置かれただけの殺風景なものだった。
(当たり前か)
彼女がこの部屋に移ったのは、壁外調査が終わった後……つい最近である。
入団してから間もない新兵に個室が与えられるのは実に珍しいことである。それだけ彼女の働きが優秀だったのと……空き部屋が随分とできてしまったことに、理由は起因していた。
「いや………夜這いではない。」
実直に返事をするミケがおかしかったのか、ユーリは押し殺したような笑い方をした。
「こんな夜更けに明かりが漏れている部屋を不審に思うのは当然だろう。」
淡々と言葉を連ねながら、ミケはユーリへと視線を落とした。
……………寝間着ではなかった。部屋で過ごすようなリラックスした様子でもない。まるで今しがたまで外にいたような…雑踏と酒気、それから紫煙。そう言った皮膚と肉の匂いが彼女の周囲には漂っていた。
「夜間外出の届け出を受け取った覚えはないぞ」
確かめるように今一度、スンと鼻腔で空気と臭気を感じてから少し厳しい口調で言ってみる。
…ユーリはちょっと肩を竦めてから、「別に外になんか出てませんよ…。今起きてたのだって、ちょっと日記を書いていただけですから………。」と笑ってみせた。
「日記………?机もない部屋でか……」
ユーリの背後の薄闇へと視線をやりながら、ミケは追求する。
彼女は「ええ、机もない部屋で、ですよ。」と悪びれずに答えた。少し低くなったミケの声にもまるで怯む様子がない。
「ああ、そうだミケさん。訪ねてくれて良かったです。そういえば私、貴方に伝えたいことがあったんですよ……!」
彼の威圧を物ともせず、ユーリは何かを思い出したようにポンと掌を打ち合わせた。
そして何故か嬉しそうにしながらミケのことを見上げた。薄い金色の髪の隙間から青い瞳がチラと覗く。それが随分と優しい形に細められていたので、面食らったミケは言葉を失った。
「あの………ちょっと遅くなりましたけど、壁外調査から帰ってきた日………。慰めてくれて、どうもありがとうございました。」
気恥ずかしそうにユーリは言葉を紡いだ。
…………ミケは言葉を失い続けていた。彼女の口から出た言葉と、今の状況と、ユーリという女のキャラクターが全く一致しない為に軽い混乱に陥っていたのだ。
「あー……なんか恥ずかしいですね。呆れちゃいましたね。忘れていいですよ。」
ユーリもまた堪らなくなるらしく、頬を軽く色付かせながら早口で弁明をする。
「いや……呆れてはいないが。」
「それなら良かったです。お礼を言いたかったんですよ、ずっと。」
「別に…礼など」
言いかけて、ミケは口を噤んだ。唐突ではあるが、悪い気分ではない。深夜という時間帯の力も手伝ってか、思わず彼は心弱く笑ってしまった。
ユーリが不思議そうに彼のことを見上げるので、「いや…………。気にするな。」と呟いた。そして、「お前こそどうしたんだ。」と続ける。
「お前こそ…どういう風の吹き回しなんだ。」
幾分緊張が解けた場で、ミケはドアの桟に軽くもたれながら訪ねた。
ユーリはどこか照れくさそうに笑い、「いえ…最近、ありがとうって言ってもらって嬉しかったんですよ。」と応える。
いつもの気怠そうな声と違い、弱々しい響きをした応答である。
彼女の内面…深いところの一部を垣間見た気がして、ミケは不思議な気持ちに陥った。
「ああいう……人を嬉しい気持ちにさせてあげれる子に………私、憧れちゃって。」
頬を薄く色付かせて語るユーリは、歳の頃よりも少々若く見えた。まるで少女である。
しかし………その周りには未だ猥雑な夜の香りが色濃く漂っている。ミケにはそれが気がかりだった。
「真似してみようかなって思ったんです。それだけ…………」
照れくさそうにしながら、彼女は口を噤んだ。ミケは、「そうか。」と一言だけ応える。
(…………………………。)
少しの間思考を巡らせた後、ミケは溜息をする。そして、今夜は彼女の素行を追求しないことにした。
そこまで分別がない人間ではないだろう、と一度は彼女に信頼を置いてやろうと思ったのだ。
「…………分かった。日記もほどほどにして、もう寝ろ。寝坊は遅刻の言い訳にはならんからな。」
むっつりとして彼が言えば、ユーリは薄い笑みを唇に浮かべて「はあい。」と返事した。
彼女に一瞥して、ミケは石造りの廊下を歩んでいく。その背中をユーリは観察するように見送っていた。…………振り向けば、笑って手を振ってくる。
「なかなかかわいいところがあるな…。」
呟くようにすれば、それは彼女の耳に届いたらしい。嬉しそうな笑みが、その見え辛い顔に描かれていった。
*
ぽん、とユーリは丸めた紙の束を机上に置いた。
側の椅子に腰かけていたエルヴィンはそれをチラと見下ろした後、「ご苦労」と一言零した。
「……………髪くらい乾かしてから来い。部屋が濡れる。」
一仕事終えてリラックスしているのか、傍らのソファに深く身を沈めたユーリへと、エルヴィンは淡々とした口調で述べた。
「乾かしてから来ると夜が明けちゃいますよ。」
「ならシャワーくらい明日の朝済ませば良いだろう。」
「いんやあ。貴方ヒラ兵士の兵役が何時から始まるか忘れてますね。私だって一時間くらいは寝たいんですよ。」
冗談めかしたユーリの返事に応じることをせず、エルヴィンは押し黙った。
彼女は質の良いソファに気分よさそうに収まったまま鼻歌をしている。
「……………随分と、機嫌が良いな。」
ユーリによって齎された紙束を解きながら、エルヴィンは呟いた。
しかし彼女が至極楽しそうに「あっ、分かりますー?」と返すので聞かなければ良かったと後悔する。この女が楽しそうな時は大抵ロクでもないことが起こるのだ。
「……………私、かわいいって言われちゃったんですよ。」
何かを思い出しては幸せそうに笑いながら、ユーリは聞かれてもいない理由を話した。
エルヴィンは今初めて娘の方へと視線をやる。しかし彼女はそれに気がつかないらしく、相変わらず幸せそうな笑みをたたえているだけだった。
「ねえ、お父さん。」
「…………そう呼ぶな。何度も言っている。」
「じゃあ……団長。貴方は私のこと、かわいいって思いますか?」
ようやく、ユーリもエルヴィンのことを見る。冷たく青い二人の視線が中空で意味深に交わった。
「…………………。いや。」
まっすぐと見つめ返して、エルヴィンははっきりと言った。
「俺はお前を……かわいいとは思わないな。」
それを聞いて、ユーリは唇に緩やかな弧を描いた。乾ききってない髪をかきあげて父親似の顔を露わにしながら、彼女は相変わらず笑い続けている。
「そりゃそうでしょうよ。」
エルヴィンは、自分によく似た顔から視線を逸らして掌中の紙束の眺める。しかし内容はまるで頭に入ってこなかった。
「そりゃあ、お父さんはそうでしょうよ……。」
呟くように零した後、彼女は笑ったらしい。薄闇に覆われた部屋の床へと、ユーリの小さな笑い声が響かずに沈んでいった。
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