◆通告
地下街においては『女神の百合』との呼称で親しまれていた劇場が憲兵たちに摘発されたのは、雨がしとどに降る土曜日だった。
天から降りしきる雨は一度地上との狭間にある配管を通り、様々な汚水と混ざって再び地下の石壁の隙間から滲み出す。ひどい悪臭を伴って。その日も、街の至る所には濁って如何にも不衛生な水たまりが多数出来ていた。
「………これはひどい。」
ナイルがそう零したのは、劇場内奥の部屋を覗いたときだった。
外に輪をかけて悪臭の物凄いそこでは、動物の檻に似た箱状の格子が無造作にいくつも置かれていた。格子の奥には、雑巾のような衣服を纏った…身体の大きさから、恐らく子ども…が、眼光だけは異様に鋭くこちらを伺っていた。飢えた猛禽のような瞳だった。薄暗い室内、彼らの眼の気に圧倒されそうになる。
(これが、『女神の百合』の見せ物≠ゥ)
ナイルは努めて穏やかな声で、自分たちが危害を加える存在では無いことを訴える。そうして先程押収した鍵をひとつずつ確かめ確かめ、彼らを解放してやった。
意外にも子どもたちは従順であり、黙ってナイル、そして憲兵の動きを見守っていた。手足は痩せ、明らかに栄養状態が悪かった。中には佝僂を発病しているらしい者もいた。
ただ、それぞれ顔の造りは美しかった。それが彼らが生き長らえた理由であり、この…地下街においても闇深い場所に繋がれた所以でもあるのだろう。
辺りには、少年少女の今にも途切れそうな息遣いと、憲兵たちが忙しく働く物音だけが木霊した。誰かが溜まった汚水を踏む。ぱちゃりと小さな水音がはぜる。誰一人として声を発するものはいなかった。誰一人として……。
『女神の百合』は、少年少女が虐殺される様、あるいはする様を見せ物≠ニしていた。ある時は獣、ある時は大勢の大人たちに、ある時は同じ年の頃の子どもによって蹂躙される様を見せて楽しませる悪趣味な劇場だった。
そこに、彼女はいた。幸か不幸か才能に恵まれていた為にすぐには殺されず、むしろ殺す立場に立って。道化ではなく、狂言を廻す場所を選んでは勝ち取って。
そうして檻の中から解放され、部屋の中に座らされた十人にも満たない見せ物≠フ生き残りたちと共に膝を抱え、ただ自分たちの周りを動く大人たちの動きを、じっと見ていた。
「ナイル、ここか」
細い光を投げ掛けていた入口の隙間が広く開き、身の丈の大きな男性が複数人入ってくる。……普段目にする男たちとは違い、清潔な身成に健康そうな肉体の造りから、真っ当≠ネ人間なのだろうと彼女は薄ぼんやりと考えた。
「ああ、お前の言っていた通りの被害者……十才前後の少年少女たちだ」
ナイルがその方へと目をやる。年はそれこそ自身の子どもと変わりないのに、表情に現れているのは真っ当≠ネ人間一生分もの辛苦を舐めてきた、疲れ切った表情だった。やりきれず、彼はひとつ溜め息を吐いた。
「それにしても…よく分かったな。うまい具合に隠れている訳だ。」
咳払いをして、ナイルは入ってきた男…エルヴィンへと再び話かける。彼は繁々と室内を見回していた。
「……まさか、宗教施設を隠れ蓑にするとは。これでは憲兵も迂闊に立ち寄れない。」
ナイルの言葉に相槌を打ちながら、彼は皮膚病のように剥げた壁の漆喰に触れる。ぱらぱらと乾いた音がして表面が剥離した。その様を眺めて、冷たさを孕んだ蒼い瞳はそっと細められる。
「なに、探し物をしている延長で見つけた偶然の産物だ……」
静かにそう応えて、エルヴィンは疲れ切っては踞っている少年少女のほうへ歩を進める。
一人一人の、無表情な顔を覗き込んで何かを確認するようにしている。……ナイルはその真意を分かりかねた。だが言うべきことも見当たらないので、黙ってそれを眺めていた。
「…………金色の髪は、お前だけか。」
やがて彼はとある一人の前でそう告げる。………話しかけられた金髪の子どもはなにも答えなかった。
「顔を見せろ」
構わず、エルヴィンは子どもの顔を自身の方に無理に向かせる。長い髪の間から蒼い瞳が現れる。澄んだ色ながら白目が異様に血走っており、不気味な様相を呈していた。
しばし、二人は見つめあう。エルヴィンは何かをよくよく吟味しているようだった。
「名前は、なんだ」
やがてエルヴィンは一言簡潔に質問をする。………金糸の髪の、少年だか少女だか分からない子どもは未だ口を噤んでいる。エルヴィンはもう一度名を尋ねた。今度は、やや高圧的に。
「ペレキーズだよ………。」
掠れた返事がなされた。喉元を抑えてエルヴィンの方を向かされているので、掴んでいる彼の掌には子どもの小さな声が振動として伝わってくる。如何にも頼りないながら、頑としたなにかを孕んだ声色だった。
「ペレキーズ……?」
どこかで聞いた単語だと彼は考えた。そうして思い当たる。
(pélekys…?……πέλεκυς。古い言葉で『斧』か)
なるほど僥々しい、見せ物≠ノはうってつけの名前だ。……先程発見された大量の残酷な器機の中にも、確かそれは存在していた。
(これは、傷付けるほうの存在だった訳か。)
被害者ではなく、加害者か。元より彼らに対する同情心など欠片も持ち合わせていないエルヴィンだったが、これを聞いてよりその気持ちを強めた。そうして好都合だと思った。……その方が、扱いやすい。
(しかし、加害者にも見えて間違いなく被害者でもある。)
もしも予想通りならば、これは狂言を廻す役目ながら紛うことなき道化でもある。見事に落ちぶれた、哀れで無様な子どもの姿がそこにあった。
「………違うな。」
たっぷりと間を置いてエルヴィンは言った。「そう?」子どもはとくに興味が無さそうに答える。
「お前の名前はユーリだ」
………彼の言葉に、ようやく子どもの表情が微かに動く。少々訝しげな表情だ。
エルヴィンはそれの首元にかける力を強めた。……しかし、少し眉を動かしただけでもなんとも無いようだ。考えれば当たり前である。もう慣れているのだろう。こういうことには。
「もう一度聞く。お前の名前はなんだ」
しかしエルヴィンは辛抱強く、もう一度尋ねてみた。
「…………ユーリ?」
いかにも面倒な様子でそれは答えた。
「そう…そうだ。……ユーリ。」
エルヴィンは顔を寄せ、耳元で呟くようにする。そうして一段声を抑えて囁いた。
「そして、お前は、俺の子だ」
道化の唄 第一章 Sonate
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