道化の唄 | ナノ

 ◆残響


美しい花崗岩で形作られた墓石の前で、亜麻色の髪の女性が両手を合わせて佇んでいる。ユーリはその姿をしばらく後ろから眺めていた。

やがて、彼女も一歩後ろから……それに倣って掌を合わせる。

この国で、宗教を信じている者は少数の特異な人間に限るのに、人々は死者を悼むときに必ずこの姿勢で祈りを捧げる。

ユーリもまた、漠然とそうしながらなにかを祈ろうとするが……なにも、思い付かなかった。何故なら、少年と彼女の会話はいつも彼が話すことによって成り立っていたから。

(話し相手がいなくなっちゃった…。)

ユーリは呑気にそんなことを考えていた。

最も、ユーリは彼の気持ちをあっさりと一蹴してしまった身である。よしんばふたり共々生き残って、以前と同じように仲良く出来るとは思えなかったが。

(いや………でも、あの子はそれでも私に優しくしてくれるんだろうなあ。)


ふうと息を吐けば、後ろにいたユーリの存在にようやく気が付いたように……少年の墓に懸命に祈りを捧げていた女性が、振り返った。ユーリはにこりと笑って応える。


お互い、顔を知っていた。調査兵団の兵士同士である。最もユーリが人付き合いの深入りを避ける傾向にあった為、当たり障りのないことしか話したことは無かったが。


「えっと………。貴方、確か……」

「ユーリですよ、ペトラさん」

「ええ…。知ってるわ。」

「どうもありがとうございます。」


少しの沈黙。ユーリが乾いた愛想笑いをすると、ペトラは微かに眉を下げる。

ユーリは笑ったままで、先ほど花屋で購入した白い花束を墓前に備えた。その様子をペトラの飴色の瞳が辿るように追っていく。沈黙は続いている。その背景では木の実が風に煽られてカラカラと鳴っていた。


「従兄弟だったの。」


白い花弁が甘い香りを乗せて、鈍色の景色の中へとひとつふたつと放れていく。


「私の…………。」


長い沈黙を終わらせたのは、短いペトラの言葉だった。ユーリは繊細な石細工が施された墓石から視線を起こし、亜麻色の髪の乙女をじっくりと眺める。歌にあるように、その美しい髪は寒々とした風の中でさやかに揺れていた。


「ユーリ君……。この子と、仲が良かったの?」


ペトラに問われたので、ユーリは「そうですね。よく話し相手になってもらいました。」と率直に返事をする。


「そ、う………。ごめんなさい、人懐っこい子なの。迷惑だったかしら。」

「いいえ、全然。むしろ…………」


きっと、私の方が迷惑でしたよ。


言葉を飲み込みんで、ユーリはまた愛想笑いのような表情をする。これほど下手な愛想笑いはない、と彼女は内心毒吐いた。いつもそうなのだ。いつも人との距離を測りかねる。こればかりは卒なくこなすことがどうしても出来なかった。


「今日はこの子のお墓参りに来てくれてありがとう。」

「とんでもないです。志を一緒にする仲間なら当然ですよ。」

「あら、そう……かしら。そうなのかしら。」


ペトラは独り言のように繰り返す。ユーリは居た堪れなくなった。早くこの場を離れたいと強く思った。


「わざわざ足を運んでくれて、嬉しいわ。」

「いえ、そんな………。」

「それで……あの。ユーリ君。
もし少し時間があれば、なんだけど。良かったらお茶でも……どうかしら。」


遠慮がちにペトラは言う。え、とユーリは一瞬言葉に詰まった。

お茶をするほどの………親しい間柄では、勿論ない。ユーリはゆっくりと瞬きをして、その申し出を断る言葉を探しながら小柄な彼女を見下ろした。その間に、ペトラが慌てたように「勿論私が奢るわよ、お金の心配はしないで頂戴…」と付け加える。

彼女の掌は、やはり少年に似て白く美しかった。爪はかわいらしい桜色をしている。それが胸の辺りで組まれて微かに震えていた。


(今…………ひとりにしたら、可哀想。)


ユーリはそろりと目を伏せる。そして……少し考えた後、「はい……よろこんで。」と静かに答えた。


ふたりは並んで歩き出す。歩く度に、足下で枯れた葉が乾いた音を立てた。ぱちり、と。







地下街には、朝も夜もない。日が差し込まない不潔な土地では、街の中心にある時計塔だけが時刻を知らせる基準であった。その崩れかけの塔の鐘を鳴らす為に、毎日毎時間片目が潰れた白痴の男がそこを登っていく。

ユーリはその鐘の音を毎日聞いていた。憂鬱で陰気なその音を…………



「まったく、よりによって便所で首吊るかね。せめて人知れず死んで欲しかったわ。」

「うん………。そうだね。」


開け放した窓から唾を吐き捨てた少女の言葉に応えながら、ユーリは軽く溜め息をした。

時間的に今は夕方である。今頃地上では、夕日が赤く潤んだ硝子玉のように輝きながら地平へと向かっているのだろう。

しかしユーリはそんなことは知らなかった。彼女に読書の習慣があれば、まだ存在として太陽を認知することはあっただろう。しかし残念なことにユーリは本が嫌いであった。知識人の背筋が痒くなるような高説などには、毛程も興味が抱けなかった。


とにもかくにも―――朝も夜も無い地下街であるが、劇場が開くのは時間的には夜と決まっていた。夕方頃になると、その日見世物となる役者たちはのそりと寝床から抜け出していく。

そして目覚め一番に便所でユーリが見たのは、随分と自身に執着して言い寄ってきていた下男の屍体であった。昨晩、あまりにもしつこく関係を迫られた為に……出し物の直前で気が昂ぶっていたことも手伝って、手酷く痛めつけてしまった例の男である。

…………首を括ってから少々時間が経っていた為、流石のユーリも良い気分の目覚めではなかった。お陰でちっとも食欲が湧かない。


「なんで死のうと思ったんだろうね、あいつ。」

同僚…ユーリと同じく踊り子の少女が気怠げに呟く。とくに驚いた様子はなかった。殺人も自殺も、この界隈では珍しいものではない。彼女の言葉も、質問というよりは単なる話のタネのひとつなのだろう。


「さあ………。薬で脳みそ溶かしすぎちゃったんじゃないのかなあ。」


ユーリもまたなんでもないように返事をする。温くじっとりとした風が、彼女のはだけた寝間着の襟を揺らした。白い胸元と共に桜色の乳頭が露わになる。

やだあだらしないと少女が笑った。ユーリもまた笑って、あんまり見ないでよ。と無邪気そうに言う。見せたのはそっちでしょうと軽口。もう、話題は別の方向へと流れ始めていた。



しかしその白く柔らかな乳房の奥、ユーリの心臓は鷲掴みされたような感覚に陥っていた。


なぜ、よりによってこの時に。

私………のせいなのだろうか。

これがただの自惚れであって欲しいと切に願った。



――――『何故生きているのか分からなくなった』



その金釘文字の走り書きが、いなくなった男が残した遺言というにはあまりにも簡潔な言葉であった。


ユーリとその下男が心を通わせたことは一度もなかった。彼が考えていることなど理解できなかったし、理解しようとも思わなかった。

けれども、今。死の淵へと落ち込んでいったその気持ちが、とてもとてもよく分かってしまうような気がした。そして、彼が飛んでしまう為の最後の一押しは自分の行為と言葉だった。恐らく。いや、確実に。


(あ、の………クソ、)


思わず、自分が彼へと放った汚い言葉が胸の中で反芻される。


(畜生…………っ)


また遠くで鐘の音が鳴る。単調に、低く。


ユーリはこの時唐突に、そして激しくここから逃げ出したいと思った。

そう思ってしまった自分を胸の内で叱った。そんな思考は弱い人間の考えだと罵った。

自分の弱さに足を掬われた時。その先に待っている人生は、悪戯に春を売り罪を重ね、そしてぼろ雑巾のようになって死んでいくことだけだった。それだけはごめんだった。


(私は強い………から、ここでだって生きていける………
いつまでもこうして劇場の道化のままでいるものか。狂言回しの役を勝ち取ってやる………!
いくら周りを傷つけても……勝って、奪って、殺して…………)



だから、勝たなくては。

だが、いつまでこれを繰り返さなくてはならない?



(死ぬまでずっと)



毎日、その寂寞と焦燥だった。ユーリはそれが辛かった。残忍な行為への自責や、悪趣味な仕事の内容よりも、明日に対して希望を抱けないことが、ずっとずっと辛かった。

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