◆言葉 2
「もう、死んでいる。」
ミケが、ユーリの背中へと声をかける。彼女は振り向き、額に滲んでいた汗を手の甲で拭った。その指先は冷たい水と摩擦とによって赤く色付いている。
「あ………。すみません、ぼーっとしてて………」
そう呟き、一応ユーリは敬礼をした。敬礼と呼ぶにはあまりに適当な、形ばかりの様子で。辺りは静かであった。穏やかな夜の雨が医務室の屋根を叩く音がするばかりである。
「………………。もう、彼は息が無いのだと先刻医師が俺に言って来た。……お前の必死の形相から、直接は言い出せなかったんだろうな。」
「………そうですか。」
別に必死じゃありませんよ、と呟きながら、彼女は脱力したように傍の椅子へと身を預けた。
完全に四肢を弛緩させている。背もたれに頭を乗っけている為、その白い首筋がくっきりと暗闇に浮かび上がるのが印象的だった。
「初めての……壁外調査は、どうだった。」
ミケは、ほぼ義務的に尋ねた。………そこそこの期間この兵団に携わっているのに関わらず、こういう時になにを言っていいか分からないのは彼にとっての相変わらずであった。
「もう……最悪ですよ……。雨とか聞いてませんし。」
「この時期の天候は変わりやすいからな。」
「しかもなんですか巨人って………気持ち悪いことこの上ない……おっきいオッサンじゃないですかアレ……」
「まあ……初めてにしてはよく相手をしてくれた。中々に期待通りだ。」
「それは良かったですよ。お役に立てたのなら。」
ユーリは、握ったままになっていた濡れた布巾を眺めては…………役目を終えたそれを、ポイと傍の机へと放った。ランプの光は鈍いオレンジ色を辺りへと投げかけている。彼女の視線の先に、ベッドに横たわる傷だらけの白い肢体を浮かび上がらせながら。
ユーリは、ノロノロとそれにシーツを被せてやった。痛々しい赤色が滲む包帯が巻かれた身体を隠してやるように。
「…………………死ぬんなら、私だと思ったんですがね。」
「まあ……。俺も、お前が死ぬ……死ななくても、無事ではないと思ったよ。あの時は。」
「ほんと格好良い人なんですから。女の子庇って死ぬなんて。」
ユーリは薄く笑った。それから、「すみません、ふざけすぎましたね。」と小さな声で謝った。ミケは「いや………」と言ったきり、黙った。
私は強い
唐突に、ユーリの胸の内にいつかの自分自身にとっての正義が思い出される。
弱い人間は死ななくてはいけない。弱いことは悪なのだから。
(本当に……そうなのだろうか?)
初めて、彼女は生まれてから疑ったことのない歪んだ己の正義へと問い掛ける。
この眼前の、冷たくなってしまった少年は弱かったのだろうか。悪かったのだろうか。
(いや………)
弱くなかった。
悪くもなかった。
こんな、天使みたいな人間に出会ったのは初めてだった。
(そうか、弱くて悪いのは………むしろ)
私は強い
私こそが正しい
そのふたつが、可哀想な彼女が自分を保つ為に掲げた見栄と虚構に満ちた正義だった。
ランプの鈍い色の灯りが揺らめく。油の生臭さが鼻についた。ユーリが溜め息をする。
「私が死ねば良かったのに」
とくに感慨のこもらない声で、彼女は呟いた。
ミケは首だけ動かして年端の行かない部下を見下ろすが、黙したままだった。
「………………この子、家でお母さんが待っていたんですよ。きっと悪いことを今までしたこともなかった。善良が服を着て歩いてるような人間ですよ。私なんかよりずっと生きて人の役に立ちます。………なんでまた、ねえ。ほんとに神様は不公平ですよ。」
私なんかの為に、と一気に吐き出して、ユーリも黙った。辺りは静寂が支配する。雨の音は止まない。遠くで雷が鳴っている。
(ねえ……。私、君の想いを無下にしたんだよ。例えふたりで生き残っても、君にあげれるものはなんにもない。なのになんで私を助けたの。分からないよ。)
(なにを考えていたの。なんの為に、こんなになって。)
シーツの下から、女のようにたおやかな指が覗いている。指先の桜色だった爪も、今は色を欠いて青白くなってしまっていた。それを眺めているうちに、ユーリの胸の底から突き抜けるような痛みが浮かび上がった。………今、ようやく彼女は状況を理解する。そして……本当に生まれて初めて、人の死が悲しくなった。とても寂しくなった。
「なにを言っても……結果は変わらないだろう。」
ミケが重々しく口を開いた。ユーリは「その通りですね……」と相槌する。
「こいつのお前への好意は分かりやす過ぎるほどだった。好きな女の為に死ねたなら、男冥利にも尽きることだろう。」
「そういう……ものですか。私は彼になにもしてやれなかったのに。」
「なにもしてやる必要もないだろう。人への思慕や愛情は見返りを求めないものだから。」
それだけ言って、ミケはすっかり汗でしっとりしてしまっていたユーリの頭髪をわしゃり、と撫でた。ぎこちない手付きで。
「もう、寝たほうが良い。お前は疲れている。」
呟くように言う彼のことを、ユーリは見上げる。優しく落ち着いた色をした瞳が彼女を見下ろしていた。
ふと、泣きたくなる……が、堪えて、「はい、おやすみなさい。」と努めて笑顔で返した。
ミケがいなくなり、ひとりとひとつとなった医務室で彼女は少しの間じっとしていた。
そして、先ほどのミケの言葉を思い出す。
(思慕や愛情は見返りを求めない)
その本当に何気なく言われたことが、彼女には理解し難かった。ユーリにとっての愛とは恋とは、肉欲に結びつく下らないものであった。
まあ………理解は出来ずとも、意味が分からないわけではないが。高尚で鼻持ちならない一般論として、似た言葉を耳にすることはあったから。
けれど、ミケの発言は今まで聞いたものとは違う響きをしていた。自然とああいったことが言える人間を、彼女は初めて目の当たりにした。
(でも……それなら、尚のこと……私は誰のことも愛することはできない……)
自分は、無償の愛など体現することは出来ないと思った。
もらったことのないものは与えられない。愛されたことがなければ、愛することはできない。
ユーリは、今一度死の淵に落ち込んでしまった天使のように優しい少年の顔を眺める。
…………かわいいな、と彼女は思った。生まれ変わったら、この子のお姉さんにでもなりたいと思った。そこにはきっと幸せな家族の形があるのだろう。
「でもね……好きって言ってもらえて嬉しかった。それは本当だよ。」
ユーリは呟いた。いつか雨も止んだようで、辺りはぞっとするほどの静寂であった。
「ありがとう。」
「ごめんね。」
やはり無力すぎるふたつの言葉であった。それは誰にも聞き届けられることなく、暗闇に沈んでいく。
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