◆独り言
――――ユーリにとって、初めての壁外調査が目前に迫っていた。
(……生きて帰ってこれたら一人前……ねえ。)
その数日ほど前の夜である。彼女は来る日に備えて倉庫でひとり装置の点検を行っていた。
勿論、課せられた訓練の中で必要な確認や点検は行われたのだが、ユーリにとってはまだ充分とは言えなかった。
壁外調査に向けて気が昂っている……のではなく、それは彼女の性分であった。
その軽薄な言動に寄らず、彼女は非常に用心深く慎重な人間である。……言ってしまえば疑り深いのだ。
(劇場に居たときも……あそこで生き残れたのは)
所以、この性分のお陰であった。
地下劇場の役者たちは皆、凄惨な拷問や残虐な行為に堪えうる為にショウの直前にドラッグを支給される。
しかしユーリはそれを一度として服用しなかった。錯乱状態に陥れば痛覚と同時に勘も鈍ってしまう。
どんなに辛くても痛くても、彼女は生き残る為に正気でいることを望んだ。
(興奮……昂り……恍惚…………そういうものは害悪で…………)
装置をばらし終る。眼下の机上には、丁寧に並べられた部品が色濃いランプの光に照らされていた。
溜め息をひとつ。ランプから黒い煙が立ち上る。ちら、とユーリがその方を眺めて油壺を引き寄せようとする直前、揺らめいて灯火は消えてしまった。
彼女は小さく舌打ちをしてから、手探りで油壺を探した。
しかし、伸ばした指先に触ったのは油壺の湿った金属の感覚ではなかった。
驚いてユーリは手を引く………が、適わなかった。なにかにしっかりと指先を捕まえられている。
…………そして、倉庫の中に再び明かりが灯される。
器用に片手でそれを行ってみせた彼を眺めて、ユーリは静かに目を細めた。
「……… こんばんは、お父さん。」
夜の挨拶をすれば、エルヴィンもまたそっと目を細める。その仕草は驚くほどに双方似通っていた。
「いつからそこに。まるで魔法使いのように突然現れるので、驚きましたよ。」
「………数分ほど前にはお前の背後にいた。気が付かなかったのか。」
「ええ、全然。」
ユーリは彼の掌の中で指を広げ、そこを離すことを促す。だが、その行為はほとんど無意味であった。依然として、彼女の指先は父親に捕まえられたままである。
「なにか、用事があるんでしょう。」
彼女は細めていた瞳を開き、真っ直ぐに父親を眺めた。その長い前髪の狭間から覗く覚えのある貌、こちらを見つめ返してくる美しい男性を。
「貴方、用事が無いと私に話かけないんですから。」
「深夜、倉庫から灯りが漏れていたら不審に思うのは当たり前だろう………」
「へえ……。こんな夜遅くにご苦労さま。」
「…………………。」
エルヴィンの掌が、ユーリから離れた。そうして節が目立つその指が、彼女が湛然に並べた装置の部品へと触れる。………黒い油が彼の白い指先を汚した。エルヴィンはそこをじっと眺めたあと、傍にあったウェスでこれを拭った。
「…………お前の装置では、無いな。」
「……………………。」
ユーリは黙った。エルヴィンはそれを肯定と受け取る。
「なにか……、悪いことでも企んでいるのか。」
「……………………。別に、私の……ですよ。」
「ユーリ、俺の目を見ろ。」
ユーリはびくりと震えた。その顔に、青ざめた恐怖が走っていく。
……………エルヴィンは、父親に対して強気でいようとしながらも、自分に対して抱く彼女の畏怖を見抜いていた。そして……その畏怖の背景に、うっすらと滲むある種の愛情も。
「…………他人の装置をいじってなにをするつもりでいた。仮に壁外でうまくそれが作動しなければどうなるのか………お前たちの間になにがあったのか知らないが、そういうつもりならば………」
「ちっ、違うよ!全然そんなつもりじゃ………ただ、あの子はずっと上手く飛べない、装置が扱い辛いって言っていた!!一緒に飛んでみた時、彼の扱いに問題は無かった……だから問題があるならばきっと装置の方ではと…………だから今、こうやって………!!」
ユーリは立ち上がってエルヴィンの考えを否定した。………彼女が大きな声を出すのは珍しいことであった。エルヴィンは少々それに驚くが、やがて「お前が?」と訝しげに相槌を打つ。
「…………何故、今。日が出ているときにこれの持ち主を伴って点検すれば済む話ではないのか。」
彼の質問に、ユーリは言葉を詰まらせる。その瞳はランプの光に照らされながら、色濃い闇の中で潤んだように光っている。その頬は、興奮と焦りからか薔薇色に色付いていた。年頃の少女しか持たない、瑞々しい表情であった。
「あ……… あまり、恩着せがましいことをしたくなかったんです。」
精一杯であろうその答えに、エルヴィンは目を伏せた。そして、はあ、と溜め息をする。冷え冷えとした心象がその胸の内に広がっていった。
「お前は何故………ここにいるんだ。………よくよく思い出せ。」
そして口にした言葉は、彼自身が驚くほど冷たかった。ユーリはハッとした表情をする。それから「分かっているよ………、だからこうして誰の好意も買わないようにしている…… 。」と睦言のように呟いた。
「………好意を買わないようにする必要はあるまい。好かれていたほうが、なにかと便利だ。」
エルヴィンはそっと歩を進め、立ったままでいるユーリとの距離を詰める。
指を近付け、前髪を分けてじっくりと娘の顔を眺めた。………やはりふたりは似ていた……が、それ以上に彼女の頬が女性らしい曲線を描き始めていることがエルヴィンの目についた。
「だが、お前は誰にも心を許してはいけないよ。」
俺にもな、とエルヴィンが付け加えれば……露になったユーリの青い瞳が惑うように揺れた。
「………それが、俺がお前に教えてやれる唯一のことだ。」
彼女の瞳から一筋涙が零れる。エルヴィンは相も変わらず薔薇色をした娘の頬を指先で軽く拭ってやった。
「おやすみ、ユーリ。」
それだけ囁いて、彼は倉庫を後にする。
残されたユーリは、ただ項垂れて椅子に座り直した。………急に寒さが身に応えるように感じて、その身を抱くようにしてみる。
そして………鈍いオレンジ色の光のみで照らされた埃臭い倉庫の中で、少年の水色の瞳と父親の深い青色の瞳を交互に思い出した。
……………初めて出会ってから数ヶ月。少年が抱く感情に気が付かないほど、ユーリは鈍感ではなかった。
勿論、彼の気持ちに応えようとする気持ちは最初から無かった。何故なら彼女は、そういう軽薄な感情をまったく信用していなかったからである。
(興奮……昂り……恍惚…………そういうものは害悪で…………)
そして、愛情や恋慕もそれと同じようなものだと思っていた。彼女にとってそれらは害悪であり、嫌悪の対象であった。
愛だの恋だのが嫌いだった。肉欲や性欲を思えば吐き気がする。
『愛している』
その安っぽいべとついた砂糖菓子のような言葉を、今まで幾度囁かれたろう。しかし、誰よりも愛していると言う男が、一番に想っていると言う女が欲していたのは結局のところ自分の肉体であった。
(でも…………)
あの少年を、彼らと同じものだと思いたくなかった。あんなに純粋できらきらとした愛情を向けられたことが、未だ且つてユーリには無かった。嬉しそうに近付き触れあってくるのにも関わらず、目が合えば逸らす。薔薇色の頬に優しい笑みを浮かべて、ずっと自分と一緒にいようとする。
…………それを繰り返される度に、ユーリのざらついた心は少しずつ円みを帯びるようだった。温かな気持ちになれた。
……、いずれ彼の気持ちを無下にしてしまうことを思えば辛かった。だからこうして………少しずつ距離を置こうとしている……………。
(愛だの恋だのが嫌いだった。)
(肉欲や性欲を思えば吐き気がする。)
(そういうものは、汚らわしいもの以外のなにものでもないと……………。)
しかし、その汚らわしい感情が結ばれて人は生まれてくる。ユーリにはそれが受け入れ難かった。
(――――私は、なんで生まれたのだろう。)
それは最近、折に触れて彼女が抱く心象であった。………愛されて、生を受ける。それが成されなかった自分は…………
「お父さん」
声に出して尋ねるようにしてみれば、ユーリの声は驚くほど空虚に響く。
「お父さん」
構わずに、もう一度彼女は繰り返す。
その頬をかすめて、ランプの灯りがまた一筋の黒い煙を吐き出していった。
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