◆喝采
「気持ち悪い」
ユーリは、吐き捨てるように言った。
彼女の髪をそっと撫でていた指が、それに合わせてぴたりと止まる。………が、また優しく同じところを触れていく。
「触るなよ、気持ち悪い。」
彼女はもう一度繰り返した。
その背景で、流行の甘ったるい歌がゆったりと流れている。扉の向こうの舞台でヘタクソな歌姫が歌っているのだろう。
「そういうこと、言うなよ。」
ひび割れた鏡の前に腰掛けて、化粧に勤しむユーリを見下ろしながら男は囁いた。
彼女は良い加減にしろ、というようにその掌を振り払った。
……どうやら男に触れるのも嫌だったらしく、その指先を薄汚れたウェスで拭う。
「思ったことを口にしてなにが悪い。君気持ち悪いんだよ。それに臭いんだ。私が一番嫌いな臭いがする。」
ユーリは彼のほうを見ようともせず、赤い紅を唇に引き直す。
男はやれやれ、と言った具合で肩を竦めてから、再び唇に弧を描く。その視線は、派手な衣装から露出した彼女の乳のように白い肩へと注がれていた。
「なあ……、俺だって傷付くぜ。お前のことをこんなに愛してるのに。」
そして呟きながら、そこを抱こうと掌を伸ばす。
「へえー、それはどうも。適わない愛は辛いね。」
皮肉めいた笑いをユーリは浮かべるが、ふたりの皮膚が触れ合った途端にその表情は冷え冷えとする。
しかし男はそれに気が付かず、彼女の細い顎を掴んでは紅が塗られたばかりの唇に自身のものを近付ける。
「ねえ……何度でも言うけどさ。君、すごく気持ち悪いんだよね。」
しかしそこが触れる瞬間、ユーリはゆっくりと囁いた。
ふたりの距離は零になることはなく、至極近い場所で静止する。いつの間にか甘ったるい歌声は聞こえなくなっていた。辺りは静寂である。
「てめえのさあ、精液臭い体臭が我慢ならないんだよ。この××××野郎。」
――――そして、怒号に似た声と拍手が鳴り響いた。
時計の針は日付ちょうどの境目を示している。
いつまでも自分の身体に触れている男を、ユーリは鋭く尖った靴の踵で蹴飛ばした。
彼の身体が倒れた先に置かれていた椅子が倒れ、床に転がった酒瓶が割れた。
しかしその音をかき消すような罵声と喝采とむせ返るような酒、煙草、薬、伴った人間の臭い。
ユーリは脇に置かれていた鈍色の斧をゆっくりと持ち上げて、肩に担ぐ。
拍手が鳴り響く扉の向こうでは、その血生臭い刃物と同じ意味を持つ自分の名前が叫ばれていた。
扉を開き、安っぽく下品な光沢を帯びた緞帳をくぐって彼女が姿を見せる頃には、その歓声は最高潮に達する。
(早く終らないかな)
しかしその熱狂の中でも彼女の胸のうちは冷めて空虚だった。
「早く………」
ユーリは本当に小さな声で呟いた。しかしその声は勿論誰の耳に届くこともない。
*
ぱちぱち………、と乾いた音がした。
ユーリがその方を見下ろすと、一人の兵士が両の掌を軽く打ち合わせていた。
所謂………拍手。彼がこちらを見上げていることから、それはユーリへと送られたものなのだろう。
(………………?)
どういう訳かと彼女は少しの間考えるが、直接聞いた方が早いことに思い当たり、捕まっていた椎の太い枝から指を離した。
「――――――わあ!」
と、彼が頓狂な声をあげる。
「あっ、危ないよ!装置を使わないでそんな高いところから降りるなんて!!」
「んふふ、大丈夫大丈夫。装着してるんだからいざというときは安心…………で、なにか用?」
「そういう問題じゃ……いやっ、あの………その、君。」
そこで、彼は言葉を切った。
ふたりの視線が合う。奇しくもそれはユーリ、そしてユーリの父親と同じ瞳の色をしていた。
「とても綺麗に飛んでみせるんだね。」
溜め息のようにそう漏らす彼の背景で、青い瞳と対照的に鮮やかな紅の落葉がゆっくりと落ちていく。
「そう…………?」
しかしユーリはそれに素っ気なく応えただけだった。
「そうだよ、君はここに来てまだ少ししか経っていないのに……すごいよ。オレ…いやっ僕なんてなんだかんだで二年くらい調査兵団にいるのにまだまだで………」
(入団して二年……。それじゃ年下かな)
………ユーリは訓練兵団に入団するのが他の者よりも幾分か遅かった故に、周囲より少々年かさであった。
自身の先輩や上官が年下や同年代であることはザラである。そうして、それが未だ彼女が兵団に馴染めない要因のひとつでもあった。――――それ以外にも多々原因……主に彼女の素行の面で……があると言えば、あるのだが。
とにもかくにも所以に、当時の彼女に自ら進んで声をかける人間は直属の上司のミケ、物好きのナナバ………そうして用事がある時に限るが………父親であるエルヴィン。その三人ほどであった。
(なんだか久々だなあ………)
年が程近い人間と会話をするのは。ユーリは気の緩みから、弱々しく笑う。
「な、んかさ。コツがあるの?上手に装置を扱う……」
「無い。適当だよ。」
「……………そう、適当……。」
ユーリは身につけている装置のベルトを締め直しながら相槌をする。
…………彼女が会話を続ける気遣いをしない為に、ふたりの間には沈黙が落ち込んだ。風が乾いた木立を沙椰と揺らす音だけが辺りに響く。
「…………ユーリさ、そんなに前髪長くて邪魔じゃない……?」
「そうでもないよ。」
「切ったら、装置を使うとき……もっと楽になるんじゃないかな。」
「そうかな。」
「………顔とか、目とか……見えたほうが良いと思うんだけど……。」
「そんなことないよ。」
「そんなことあるよ!」
………少年が一段声を大きくする。
ユーリは少々驚いてその方を見た。彼女の長い前髪の間からも青い瞳が除く。双方、互いの瞳をぴたりと見つめ合った。
「……あ、ごめん。急に大きな声出しちゃって。」
「いや、全然平気。」
「でも……前髪切ってみたら良いと思うのは、ほんと。」
「そっか。」
「あの……オ、いや僕は…………」
彼は少しばかり声を上擦らした。段々とその頬に朱色が差していく。
「僕は……ユーリの顔を、もっとよく見てみたい………かな。」
消え入りそうな声でそう呟いてから、彼は「ごめん、変なことばっか言って。」と付け足した。
ぜんぜん変なことじゃないよ………。とユーリは思ったが、声には出さなかった。
また、赤い枯葉が風に煽られて中空へと舞い上がる。
からから、と乾いた音を微かに残して。
*
「………最近、仲が良いのが出来たのか。」
「はい?」
食堂の隅、ひとりで昼食を摂るユーリへと、頭上から聞き慣れた声がかけられる。
彼女がまったくとぼけた反応をするので、ミケは……つ、と入口付近へと視線をやった。そこには、なにかを探すようにきょろきょろと辺りを見回す例の少年の姿があった。
「………お前のことを、探しているんじゃないのか。」
「まさか。用があるなら声をかける機会は午前中にいつでもあったんですから。」
「いや……用とかそういうことではなく…………」
ミケがその少年をじっと眺めていると、彼もこちらに気が付いたらしく、ハッとした後に敬礼……は、両手が昼食の乗った盆で塞がっていた為に出来ない……ので、ぺこりと会釈をした。
ミケは軽くそれに応えたあと、親指で自分の背後に座っているユーリのことを彼に示した。気怠げに昼食を摂る彼女の姿に気が付くと、少年の優しげな表情は更に柔和に嬉しそうになる。
「…………単純に、お前と飯が食いたいんだろ。」
それだけ言い残して、ミケはその場を立ち去った。それと入れ替わって、いつもの天使のような笑みを浮かべた少年がやってくる。
(……………。嬉しそう………)
そんな彼の顔を見て、ユーリは胸のどこかが苦しくなった。
それを誤摩化す為に曖昧に笑い、自分の向かいの席を少年へと促した………
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