◇通話
水を張った盥に、ユーリは指先を滑らせて掌を浸す。
そうしてそこに浸かった皿を取り上げ、汚れを丁寧に落とした。
広すぎる厨には彼女しかいなかった。
………上官二人は親切にも片付けを手伝うと申し出てくれたが、ユーリはそれを断った。
彼ら二人は疲労困憊している。それでいても人を気遣える余裕があるところに人柄の暖かさを感じた。兵士長と分隊長、この緊迫した兵団の指揮役にはそれだけの器が備わるものなのだろうか。
(また料理したら……皆、食べてくれるかな………。)
散漫な思考でそんなことを考えながら、ユーリは縁が欠けた粗末な食器から水を軽く払う。滑り落ちた雫は周囲の闇色を吸い込んで、黒かった。
(なんかなぁ…でもヒストリアは如何にも食べたくなさそうだったな?……それに、)
そうしてひとつ溜め息を吐く。
(お父さんは…私が調理場なんかにいるだけで嫌がりそう。)
ユーリは小さく笑って、ある夜に自分が父親へと投げかけた言葉を思い出す。
「ねえ、聞いて下さい。」
私は私なりに色々試行錯誤して、往生際悪く考え続けているの。
今まで二人で過ごしてきた冷めきった時間のどこかで正しい選択が出来ていれば…少しはお互いに優しくなれたのかなあ…と。
「私はね、ここで精一杯やってみようと思うんですよ。」
私が皆に必要としてもらえるのは、お父さんが教えてくれた技術があるからでしょ。
だからここで出会った人には、貴方にしてみたかったことと貴方にしてもらいたかったことを出来る限りやってみたい。
「私優秀だから、きっとすぐに分隊長程度にはなれると思うんですよ。」
でも、それが何になるんだろう。
皆それぞれ自分の夢とか目的に向かってひたむきに生きている。その歩みがほんの一時交わっただけの場所と時間に、何の意味があるんだろう。
友達、恋人、家族ですら足並みが揃わずに、人間はどこまでも一人ぼっちだ。
「だから……。そしたら、私と友達になってくれませんか。」
冗談めかして言ったけれど、あれを口にするにはとても勇気が必要だった。
『反対する理由なんて特に見当たらないのに、何でエルヴィンは許可を下ろさないかなあ。』……………ユーリは洗い終えた最後の皿の水を軽く切って、石鹸玉の表面のように艶やかになった陶器の表面に自分の顔を写した。
見覚えがある、父親と同じ青色の瞳がこちらを見つめ返してくる。
(そう言えば……ミケさんは、私がミケさんのことを好きだから好きになってくれたんだっけ…。)
心弱く笑って、ユーリは丹念に洗った食器の水気を布巾で拭う。
いつの間にか雨は上がっていたので、カチャリとした食器が触れ合う微かな音が無人の厨の中でよく響いた。
(今ならその気持ち、分かるなあ。)
ユーリは曇りひとつなく清められたスプーンをそっと中空へと持ち上げ、銀の月明かりの中へと翳す。
弱く青白く光って、楕円形のスプーンは儚い月色を蓄えていく。
「ミケさん……。」
ひどく久しぶりに愛しい人の名前を呼んでみた。
何とも情けなく弱々しい声色である。今、傍に彼がいたらきっとこれを聞いて小馬鹿にしたように笑うのだろう。
「寂しいなあ。私は会いたいよ。」
ポツリと呟いた声は不思議と穏やかで、優しい気持ちになる。
キチンと締まっていなかった蛇口から、黒色の水が一滴ずつ垂れる音が規則的に漏れていた。
月明かりで満たされたスプーンをそっと下ろし、ユーリは部屋の隅に漂う暗闇に向かって一度だけ、笑いかけた。
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