エルヴィンと愛情の問題
if設定/エルヴィンともしもの関係性玄関のドアがノックされる音を聞いて、ユーリは「あ…、」と呟いて椅子から立ち上がった。
自分の部屋がある二階から階段を駆け下りて、ドアへと辿り着いてそこを開ける。
「あれ…」
意気揚々と笑顔で訪ねてきた人物を迎えようとしたユーリだったが、そこにいたのは思い描いていた人では無かった。
………しかし、やはり待っていた人間に変わりはなく。彼女は笑顔のままで「おかえりなさい、お父さん。」と愛しい父親の帰宅を喜んだ。
* * *
「ただいま、ユーリ。」
エルヴィンもまた笑顔で、娘からの抱擁を快く受け止める。
暫しの間、ユーリの長く伸ばされた金髪を指で弄んでから軽く頬を寄せてやると、彼女はこそばゆそうにくつくつと笑った。
「ねえ…お父さん、どうしたの。いつもはノックなんてしないじゃない?」
父親の首へと回していた腕を解きながら、ユーリは小首を傾げて尋ねてくる。視線を合わせる為に少し屈んで抱いてやっていたので、二人の視線は至近で交わった。
エルヴィンは笑ったままで、「たまには良いだろう…」と応える。
「壁外調査はさァ……どうだったの。」
「ユーリ、」
コートを受け取ってやりながら軽い口調で尋ねてきた娘の言葉を、エルヴィンは遮る。
彼女はハッとしたようにして、「えっと…壁外調査は、どうで…したか。」と丁寧な口調で言い直す。
エルヴィンは苦笑して、「そこまでかしこまった口調にならなくても良い。」と言って不安げな表情のユーリの白い頬を軽く撫でた。
「ただ、お前の育った場所の訛りは早く忘れなさい。それはこの国の言語とは異なる。」
「異なる?意味は通じるでしょ、現にお父さんの職場にも地下街出身の人がいるって…。」
「地下街の中でもお前がいた第9区は特殊だ。あそこだけは人の住む場所ではない。」
「はい………。そう、ですね。」
ユーリは大人しく父親の言葉に従った。
エルヴィンは娘の痩せた肩を抱いて、「良い子だな…ユーリは。」とその耳元で囁いた。
…………彼女は、ほとんどこの家から出ることを許されていない。
故にその身体からはすっかりと筋肉が落ち、細いばかりの脆弱な造りになっていた。日光にほとんど触れないままの皮膚はまた生白く、紙のような真白色をしていた。
「お父さん、疲れてるでしょ。………でもね、まだ流石にご飯の準備は出来てないの。」
ごめんなさい、とユーリは眉を下げて父親の顔色を伺うようにした。
エルヴィンは目を細めては笑って、自分を気遣う娘を心からいじらしく思った。
「いや……良い。帰ることは伝えていなかったし…久しぶりにこっちに戻れたんだ。もっとユーリとの時間を大切にしたい。」
どこかに食べに行こうか、と提案すれば、ユーリは「本当?」と分かりやすく嬉しさを表情に出す。
「外に出られるんだ…!嬉しい…!!」
「嬉しいのは外に出られることだけか?」
「そっ、そんなことないよ……っ。お父さんと食事に行けるのが一番嬉しい、それは本当だよ。」
低さがワントーン落ちた父親の冷たい声色を敏感に感じ取り、ユーリは慌てたように早口で言葉を連ねた。
「…………でもね、私…やっぱりちょっとは外に出たいかな…。折角地上に連れてきてもらったんだから…、」
「何も家から決して出るなとは言っていない。最低限必要な外出は許可している。現に今日も買い物に行って来たんじゃないのか。」
「うん、全然今の生活に不満は無いよ……。お父さんはすごく優しいし、私のことを大事にしてくれてる…。でも私さ…あの、やっぱり……友達が欲しい。」
ユーリのポツリとした呟きを聞いて、エルヴィンはス、と彼女を見下ろす視線を細くした。
そして手を伸ばし、彼女が一番に気にしている…心臓の上、左胸の皮膚に大きく広がったグロテスクな傷痕を、衣服の上から指先でなぞった。
「ユーリ、」
明らかに娘は父親のその行為に拒否反応を示しては身体を大きく退いた。
それを許さず、エルヴィンはユーリのウエストの辺りに腕を回して自分の傍から離さないようにした。
ユーリの顔はみるみると青ざめていく。……こういう時に、彼女のトラウマは実に利用しやすいな…とエルヴィンは変に冷静な気持ちで考えた。
「ユーリ。」
今一度、自分が名付けた名前を呼ぶ。……彼女は精一杯にそれに応えようとするが、その傷だらけの細い喉の奥からは引きつったような音しか出なかった。
「…………こんな気持ちの悪い身体の人間に、友達なんて出来ると思うのか?」
一音ずつゆっくりと、言葉を確かめるようにそう言えば…ユーリの顔色は青さを通り越して白色に変化する。
そのままで、二人は暫時同じ色をした互いの瞳の中を覗き込んだ。
やがてユーリが心弱く笑い、「そ…うかな。」と呟く。
「そうさ。」
エルヴィンは笑って、彼女の身体を解放してその頭を今一度撫でる。
人間というものの冷たさを、彼はよく知っていた。
ユーリのようなまともで無い人間を外に出したところで辛いばかりだろう。このまま自分の庇護下で穏やかに暮らした方が幸せに決まっている。……少なくとも、
この壁内においては。
「で、でも…」
「ユーリ、さてはお前…この家に誰かを入れたな。」
まだ何かを言おうと口を開いたユーリだったが、父親の言葉に最早何も言えなくなる。
…………エルヴィンは苛ついた。
そしてやはりな、と心中で呟く。今回連絡を入れずに帰宅した理由もそこにあった。
ユーリは何を不満に思うのだろう、と彼は考える。…あの地獄のような場所から彼女を救ってやった時、学も教養も愛情も、望むものを出来る限り与えてやろうと誓った。
そしてユーリもそれに応えて自分のことを何よりも愛している筈である。そのシンプルな関係以上に一体彼女は何を望むのだろうか。
確かに自分は些か彼女より早死にしてしまう可能性が高い。それでも、ユーリはすぐに後を追ってくれるだろうと思っていた。何故ならこの脆弱な娘は最早父親無しでは生きていけないのだから。
彼の怒りをやはり敏感に感じ取ったユーリは、「ご…ごめんね。」と言ってすぐにエルヴィンの掌を取って素直に謝る。
「でも本当にちょっとだけだよ、………あ、会いに来てくれるんだ。私なんかに、だから…嬉しくて、」
エルヴィンはユーリの言葉をもう聞いていたくなかった。
痩せぎすの娘の身体を静かに抱き寄せて、強く抱いた。……強すぎたのか、ユーリは苦しそうに小さく呻いた。
「それは、誰だ……?」
声を低くして尋ねれば、ユーリはもう何も言わなくなった。
だが聞くまでも無いだろう。ここには極力人を近付けないようにしている。話しぶりからすると彼奴は頻繁に訪れているようだから…調べれば、人物の特定など容易過ぎることに違いない。
「残念だが、
それとはお別れだ。」
身体を離し、今一度娘の顔を見下ろす。
ユーリは泣き出しそうだった。慰めるように、軽く口付ける。自分と形を同じくして、厚みがあって柔らかい彼女の唇の形がエルヴィンは好きだった。
「安心しなさい、ユーリ。」
ユーリは自分の頬を撫でるエルヴィンの掌に感じ入るようにして、瞼を下ろした。
そっと彼女の両掌が手の甲に重ねられるのを感じながら、エルヴィンは淡く溜息を吐く。
「………世界は広い。必ず、二人で穏やかに暮らしていける場所がある。」
決して周りに受け入れられることは無いユーリの存在をかつての自分に重ねて…いつでもエルヴィンの心はざわついた。
彼女の幸せにすることが、過去の己を慰める唯一の方法だと思う。
「ユーリ…幸せになろう。」
彼女は父親の意を汲んでは一度、ゆっくりと頷いた。
そうして笑い、「お父さんは…やっぱり、優しいね……。」と言った。
「父親が自分の子供を思いやるのは当然のことだろう。」
「うん…。ありがとう…ございます。」
甲斐甲斐しく慣れない敬語を使って礼を述べてくる娘の頬に軽く口付けをして、エルヴィンは「さあ…食事に行こうか。」と呟いた。
「何が食べたい?」
「なんでも良いよ、お父さんと一緒にいれるんならそれで嬉しいし…」
「ユーリ、また言葉の使い方が良くない。」
「あっ……うん、一緒にいられたら…私はそれで、嬉しい…です。」
「そうか、俺もだよ……。」
ユーリの胸の辺り…傷の上に今一度確かめるようにして掌全体で触れながら、そう言う。
彼女は相変わらずそこを触られるのが好きではないみたいだ。だが、「安心しなさい、」と優しく声をかける。
「お父さんだけは…お前のことを、気持ち悪いとは思わないよ。」
可愛いユーリ、と言うと…彼女は困惑した表情を浮かべてから、心弱く笑って白い涙をひとつ零した。
そして、ありがとう…と苦しそうに呟く。
これはエルヴィンの本心だった。
それを表すために今一度口付けてみる。
ユーリがシャツをキュッと掴んでくるのが分かった。その行為から、彼女もまた自分と気持ちを同じくしてくれていることが伝わってきて…ひどく、安心した。
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