◇預言 2
まず、耳に弱い雨の音が忍び込んで来た。
そして湿った土と草の匂い。冷たくて糸のように降り続ける、この季節独特のものだ。
コニーはゆっくりと瞳を開いた。気が付かないうちに微睡んでいたらしい。しばらく今の自分の状況が分からずにその姿勢のままでゆっくりと瞬きを繰り返す。
霧雨に由来する白く湿った空気の中では、弱い光が室内へと斜めに差し込んでいた。
(…………違うな。)
室内ではない、これは車内だ。馬車の中。………安い馬車独特のすえたような、馬の体毛の臭いにようやく気が付く。
自分の斜め向かいには、ユーリが足を組んでだらしない姿勢で腰掛けていた。
不透明で滲んだ光に輪郭を縁取られた彼女は、窓の桟に頬杖をついて移りゆく外の景色を眺めている。
膝の上には何やら書物が乗っかっていた。正直彼女と書籍の組み合わせは意外だったが……読みかけらしく、半ばのページで開かれたままの痛んだページの上にも白い光が鈍く注がれていた。
ユーリは、再びそこに視線を落として頁を捲る。
暫しそこに並んだ文字列を眺めてから、ようやくコニーの方を見た。そうして「ああ、」と声を上げる。
「オハヨー、よく寝てたねぇ。」
顔色良くなったんじゃない?と言ってユーリは本をパタンと閉じて笑いかけてくる。
未だコニーはボケっとして口を半開きにしたまま、ただ先輩兵士のことを眺めていた。
ユーリは特にそれを気にせず、「馬車を拾ったんだよ、ちょっと…具合悪そうだったから。」と言って彼の頬の辺りをペチ、と軽く触っては「ウン、体温も上がったみたいだねえ」と機嫌良さそうにした。
「やっすいオンボロの車だから身体ガタガタでしょ?でももうそろそろ着くみたいだから…ああ、ホラ。」
ユーリが指差す方を見ると、そこはよくよく見覚えのある景色が近付いて来ていた。
しかし、まるで初めて見るような家屋の並びにも思える。
自分の故郷は、こんなに寂しい村だっただろうか。
乗車賃を払うユーリに気が付き、慌てて自分の財布を差し出すが…彼女はヒラヒラと掌を振って別に良い、と仕草で示した。
申し訳なく思いつつ財布を懐に仕舞い直す間、彼女は御者に数時間後再び迎えに来てくれるように頼んでいた。
二人の交渉を何とは無しに聞きながら、コニーは昨日目の当たりにしたばかりだった故郷の無残な姿を再び…なんとも言えない気持ちで眺めた。
嘘のように暗い景色だと思った。人影は無く、家の窓もまた薄暗い。葉を落とした黒い樹々の梢から冷たい雫が音もなく滴っている。
雨の音だけが、柔らかく疲労と倦怠を誘うように辺りに漂っていた。
「ーーーーーーーやっぱなんも無い、スね。」
遠ざかる馬車を見送ったユーリがコニーの傍へと戻ってくるのを待ってからそう言えば、彼女は「そだね、静かだ。」と相槌を打った。
「一応、一軒ずつ見回ってみようかぁ。馬とかも昨日のうちに引き上げたから、そういう…見やすくなったとこも含めてね。」
「いや、良いです。」
ユーリの提案を拒否すれば、彼女は不思議そうな表情をした。
無人の家屋の連なりを眺めたままコニーは、「オレの家に…行っても構いませんか。」とだけ呟いた。
*
歩く最中、ユーリは羽織ってた深緑色のマントを脱いでコニーへと渡してくる。
彼は受け取らずにいたが、ユーリは首を横に振って「雨避けに使いなよ、やっぱりあんまり良い顔色してないからサ。」と言って促して来た。
コニーはそれ以上は拒否せずに、ユーリからマントを頂戴しては言われた通りに雨避けとして使わせてもらった。
細い雨は糸のように天空から垂れ続けている。それは雨としてよりはむしろ草木を濡らす寂しい色として、コニーの眼に映った。
「ああ、」
馴染み深い生まれ育った家を眺めながら、コニーは思わず声を上げてしまった。
立ち止まり、中空へと手を伸ばす。その先にある、屋根を失って無残な姿になった自分の家へと。
「やっぱ……。何度見ても、キツいっスね…。」
母の面影を残した例の巨人は昨日調査兵たちの手によって回収された。
今は何の気配もなく、ただ灰色の雨に晒されているばかりの家屋が、痛々しい。
「でも、コニーのお母さんやお父さん…ご兄弟はサ、死んだわけじゃ無いじゃん。お母さん以外はどこにいるか分かんないけど。エレンや貴方らの同期の子らみたいに、元に戻る方法だってある…よ、」
「そうですね……。」
保証もないのに無責任なことを言わないでほしい、とユーリの言葉に食ってかかりたい気持ちを抑え、コニーはただ相槌を打った。
…………その行為が何にもならないことくらい、バカな自分でも十分に理解できた。
それにユーリは自分のことを思いやって言葉をかけてくれている。それが立場的、職業的なものに由来する義務感からくるものだとしても、傷付け合うのことが常な人間の関わり合いにおいて…それは、とても有り難いものなのだ……。
「そこが、オレの部屋でした。」
ユーリへと心弱く笑いかけながら、コニーは雨ざらしになっている屋内の一角を指差す。
屋根が無いので、やはりそこも灰色の雨に濡らされて色を失っていた。堪らない気持ちになる。そうして、エレンやミカサ…アルミンもこんな気分だったのかと考えた。
血の気が多いエレンや陰気なミカサを面倒臭いと思ったことは少なからずある。
だが、一瞬にして家族と故郷を……彼らは今の自分よりもずっと幼いうちに失ったのだ。復讐心に強く駆られる、その人格に暗い影を深々と落とす、全ては当然のことだろう。むしろ、そうした中で彼らはよく周囲を気遣えていたと思う。
「………素敵な部屋じゃんネ。自分の部屋って良いなあ、憧れる。」
「そっすかね…。」
「うん、それに結構綺麗に掃除してあったみたいだよ。瓦礫が散らばってて分かりにくいかもだけど、ベッドのシーツの色は褪せて無いし…。」
ユーリはそこから歩き出し、壊れた壁を乗り越えてコニーの部屋へ入っていこうとする。入る前に振り返って、「入っても良い?」と許可を求めてから。
コニーが無言で頷くと、ユーリは笑って「お邪魔しまーす。」と場違いに陽気な挨拶と共に入室した。
「…………結構オモチャが散らかってるね。いや、元は机とか棚に収まってたのかな。……これ、コニーの?」
ユーリは床に転がっていた簡単な木造りの猫を見せてくる。
コニーもまた彼女に続いて自分の部屋へと入室しながら、示されたそれを眺めた。そうして「…違いますね。」と答える。
「それじゃ貴方の妹さんか弟さんのかな……。なるほど、お兄ちゃんの部屋は体の良い遊び場所になってたわけだ。」
ユーリは笑いながら、それをコニーへと渡してくる。
「恋しかったのかなあ。」
そして続けて呟いた。
「会いたかったんじゃない?………だから、きっと貴方の部屋に遊びに来てたんだよ。」
自分の掌に収まった不細工な木彫りの猫を眺めながら…コニーはユーリの少し低めの声をただ聞いていた。
彼女は灰色の空を見上げて息を吐く。白い息が煙になって、空へと立ち昇って行った。
その時に漠然と…しかし確信を持って、自分の故郷は失われてしまったんだなあ、とコニーは実感した。
冷たい雨が、先輩兵士が貸してくれたマントをしとどに冷たく濡らしていく。
雨避けをしていないユーリの金色の髪はすっかりと湿って、そこからは雫が垂れた。
樹木の梢はやはり黒かった。ーーーーー呪われたように、この場所はただただ静寂である。
「一回くらい…帰れば良かったな。………皆が、いるうちに。」
「まあ…貴方も忙しかったんでしょ、訓練の合間に帰郷するだけの休みを取るのは結構難しい……」
立ち尽くすコニーの掌中の猫の額を、ユーリはチョンと指先で触りながらそう言った。
コニーは小さな猫の玩具を今一度眺めて、これが好きだった妹の顔を思い浮かべる。そして弟、更に父母を。会うことは二度と叶わないのに、顔の輪郭や表情までが仔細に思い出せて、辛かった。
「………私、やっぱり他の家屋をちょっと見ておくよ。そんなに時間かからないから…終わったら、村の入り口の…あ、さっき馬車に降ろしてもらったところで待ってるね。」
ユーリはそう言って、コニーの傍からゆっくりとした足取りで離れていく。
………気を使われているのだな、とコニーはすぐに分かった。
冷たい雨が降りしきる灰色の景色の中、彼女の不器用な優しさひどく暖かく思えて、胸がつかえた。
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