◇お喋り 1
(…………私はそんなに分かりやすいのかなあ…)
白い雲が流れる青空の下、ユーリは言付かった書簡を携えてのんびりと馬に揺られていた。
足下では濃い緑の草の合間で、その青空を象徴するような堅く冷たい花が風に揺られて花弁を散らす。時折頭上に黒い枝が伸びて空を遮っていた。その隙間から零れる木漏れ日はユーリの金色の髪を疎らに光らせる。
(そう言えば、皆知ってるんだっけ。)
ぼんやりと、ユーリは考えを巡らす。
…………周りの皆は、ユーリとミケが上司と部下と言うには近過ぎる関係であることを知ってるのだろうか。………仲が良いということは認識されているようだが、それ以上は………。
(うーん、でもなあ。恋人って訳でもないよね?)
付き合って欲しいと言われたことはない。身体の関係も持ったことはない。…………そしてなにより、年が離れ過ぎている。
(…………でもね。ただただ気にかけてもらっているだけにしては――――)
唇を重ねられたことはあった。本当に数えるほどだけだが。嫌ではなかった。むしろ嬉しかった。そして何よりユーリが好きなのは、彼の逞しい2本の腕で抱き締められることだった。
そうしてミケもそれが好きらしい。2人きりになると、ユーリはよく彼に抱かれた。それを思うと、彼女の胸のうちは堪らなかった。どんな愛の言葉よりも、物よりも、大好きなお金よりも、彼女を喜ばせたのはひとりの人間として大事にしてもらう感動だった。
(ミケさんだけじゃないよね………。皆、私にすごく良くしてくれてる。)
…………ユーリは、且つて過ごしていた悪臭漂う地下街の劇場を思い出した。あそこでは、何もかもがおかしかったのだろう。悪劣な衛生環境と謂れのない暴力、今思い出しても屈辱に身体がうち震えんばかりの嘲笑と罵倒。それが日常だった。
一際強い風が吹いた。足下からは空色の花弁が撒き上げられ、ひらひらと空中を漂っていく。空は青かった。大地は緑。地平線の彼方には壁。その向こうには、虹色の太陽が輝いていた。
ユーリは眩しさに目を細める。そして、世界の美しさにしみじみと感じ入り、深い呼吸をした。
(返していかなくちゃね。)
優しくされたことや、温かい言葉をかけられたことを、少しずつ返さねばと思った。しかし………その上手な方法が分からないことが、彼女にはいささか歯痒かった。
透明な太陽の光が、ユーリの薄い色素の髪を輝かせる。彼女はもう一度深く呼吸をした。そうして下ろした瞼の裏に愛しい輪郭を描く。………今から彼に会えることが、嬉しかった。そんな感情を自身が抱けることが、本当に嬉しかった。
(好きなんだろうなあ…………。)
――――ミケにとって、これはほんの戯れなのだろう。けれど、ユーリはそれで良いと思った。彼女にとっては、心から想える存在がいることが大事だった。
ぱかぱかと、呑気な音を響かせて馬は舗装されていない路を行く。心無しか段々とその足取りは速くなっていった。
*
光が差し込む執務室に、彼はいた。ユーリの姿を認めると、少し驚いたような表情をする。
それから………優しくその瞳が細められるのが、ユーリは好きだった。幸せな気持ちになる。傍に来いと促されるので、従って彼の傍までゆっくりと歩んだ。
近付くと、身長の差が顕著に現れる。ミケはユーリを見下ろすようにして暫く眺めた後、少しためらうようにしながらその白い頬に触れてみた。彼女は少しくすぐったそうにしてから、随分と優しい表情で笑ってみせる。
「久しぶりですね。元気でやってましたか?」
「……………。それは普通俺が言う台詞じゃないのか。」
「そうですかね。どっちでも良いじゃないですか。」
相変わらずの礼儀知らずな態度が目立つが、触れられて嬉しかったらしく、ユーリはこの上なく幸せそうにしていた。
「ううん、ミケさん。会いたかったですよ。」
「お前は……いつも軽々しくそういうことを言い過ぎる。」
「いやだ、ミケさんが言わな過ぎるから私が代わりに言ってあげてるんですよ。ミケさんだって私に会いたかったでしょ?」
「すごい自信だな。少し分けてもらいたい。」
「あれ、それとも会いたくなかったんですかねえ。」
んふふ、と笑ってはユーリはミケの顔を下のほうから覗き込む。
無表情のミケと、無邪気な笑顔の彼女の視線が交わった。
暫時そのままで見つめ合うが、やがてミケが触れていた指でその頬の皮膚をつまむ。
「…………とりあえず、なにか用事があるんだろう。それを先に伝えろ。」
「あれ………。嫌ですね、大人はいつもそうやって誤摩化す。」
「……………………。」
「痛い痛い、爪たてないでください。」
ユーリはミケの掌から逃れる為に一歩後ろに下がった。
そして、懐から言付けられていた書簡を取り出して手渡そうとするが………ミケがそれを受け取ろうとする直前に、す、と逆方向に遠ざける。
ミケが訝しげに彼女のほうを見下ろすと、にんまりと笑ったユーリが「ちょっと伺いますがね、用がないと来ちゃあ駄目ですか。」と尋ねてくる。
ミケは深い溜め息を吐いた。弱く首を左右に振る。
そうして、「…………好きなときに来れば良い。お前が来たいと思うなら。」と呟いた。
「素直じゃない人」
ユーリもまた小さく呟く。
しかしどこか満足そうにして、書簡を渡してやった。
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