道化の唄 | ナノ

 ◇肉体言語


もうすぐ、日が昇る時刻の頃だった。

ジャンはこのひと月ほどあまり深く眠れていなかった。このひと月というのはつまり例のトロスト区の事件…自分がこの兵団に入団すると決めたあの日からで。

眠れない原因など、考えれば考える分だけ思い浮かぶ。

最初は身体に堪えるので無理にでも眠ろうと思っていたが、ここ最近は既にそれが無駄な試みだと充分に理解していた。


最近は、眠れない朝の時間を利用して装置の扱いの確認と鍛錬を行なうのが日課となっていた。何かをしていると気が紛れて楽だったし、彼は純粋に自分の得意分野である立体起動が好きだった。


(特に朝は…静かで、空気が綺麗で気持ち良い。)


ひと月と少しでそれなりに慣れたこの場所は背の高い樹々で覆われた森林が多く、装置の練習には打ってつけだった。

ほぼ毎朝ここでの鍛錬を行なっている成果はすぐに身体の中に表れて、ここ最近は前よりも更に思い通りに装置を扱う事が出来るようになっていた。その事実が、彼の中で失われていた自信や自身を取り戻してくれる。


(よし…………。今日も調子良いな。)


少し太めの幹へと着地すると、彼の体重によって木立が揺れて鳥が何羽かそこから飛び出していく。

…………まだ、夜は明けていない。しかし朝の気配は辺りに濃厚に立ち籠め始めていた。上空を浮かぶ月は薄くなり始めた闇の中で、未だ白々しく光っていたが。


手持ちの革袋から水を一口飲んで喉の渇きを潤しながら、少しの間夜の終わりと朝の始まりの狭間に聳える黒い壁を眺めた。


(だけど……何かが、まだ足りない。)


眺めながら、ジャンは考える。

自分は装置の扱いは同期の中でも抜きん出ている方だと思う。

十年に一人の逸材とまで言われているミカサのことはさておき、ライナーやベルトルトにも負けてはいない、自分が自分たる所以の技術だと思っていた。

だが……ここに来て、初めての壁外調査。そして壁外へと帰っていった幾人かの友人の兵士たち。否、今は友人でも兵士でもないが。

彼らの力へと間近に触れた今だからこそ、自分の力がどこまで壁外で通用するかの不安があった。率直に正直に言えば、自信が無い。

…………彼らに対抗できるのは、もっと自分では無い…選ばれた者たちの力であって……


(俺は…………)


そこでハッとして、ジャンは思わず首を左右に振った。そして、自分の弱気を心中で叱る。

だが、自分がここにいる意味を疑ってしまったのは事実だ。いてもいなくて、同じなのでは無いのかと。


ジャンは僅かに目を細め、手頃な枝にアンカーを打ち込んだ。充分に温まった装置へと再びガスを送り、足場にしていた枝を蹴る。

とにかく今は練習と鍛錬をなぞり返す反復行為こそが重要だと思った。体を動かせば、この鬱屈した気持ちも少しは楽になる。


(せめて、もっと早く……巧く、)


ふ、と低く唸るような聞き覚えのある音がする。

………だが、慣れ親しんだ自分の装置からの音では無い。それくらいの聞き分けはできた。


(じゃあ、誰が………)


そう思って空中で周囲の気配を伺う。


(後ろか)


それはすぐに分かった。横目でチラとその方を伺えば、暗い色のマントを目深に被った人物が自身と同じように装置を扱って空中を移動していた。


(……………速い?)


まだ二人を隔てる距離は大分大きかったが、それはどんどんと縮まっていっていた。

フードの人物もこちらに気が付いたらしいが、スピードは落とさない。お互いを確認出来るほどの位置に至った人影を、ジャンは再び横目で観察する。


(………どうする?先を譲るか。それとももっとスピードを上げて千切るか。)


黒いフードから覗く肌は白かったが、唇の端が切れているのか生傷の鮮烈な赤色が変に目立っている。……男か女かは分からない。

兎にも角にも、これだけ装置の扱いが慣れているのならば調査兵のうちの誰かなのだろう。


(譲るって感じじゃねぇんだよな…。一応これでもそれなりに装置を扱えるつもりでいる……。何処の馬の骨と知らねえてめえよりは……。…………。)


……このひと月の鍛錬の成果を試すチャンスだとも思った。この場所の勝手はもう、一つの樹木と樹木の間の距離まで把握しているつもりだ。


(…………よし。来やがれ。)


ジャンは唇の端を僅かに持ち上げて、笑った。

そして一度ガスの程度を収め、体重を利用した制動移動に移る。……これは最近発見した装置を扱う術のひとつだった。体幹の捉え方に非常にコツを要するが、慣れればガスの消費を最小限に、更にガスを下手に全開使用している時以上のスピードを出すことが出来る。


そしてコーナーを曲がり切ったところで、狭くしていたガス孔を一気に全開にして装置を展開させる。

これで一気に引き離せる筈だ。その証拠に、自分の斜め後ろにいた例の人物の気配は既に希薄になっていた。装置の駆動音も、今は自分のただひとつ………


(え……、いや。さっきあの距離でも聞こえていた装置の音が、普通聞こえなくなるか…?)


そう考えた時と同時に、すぐ隣でゾッとするような気配を覚えた。


(なにっ………?)


横目で見れば、先ほどの人物がほとんど自分との距離を隔てずに間近を飛んでいる。

だが、やはり装置の音が皆無であった。まるで幽霊と相対しているような不気味な感覚する覚える。

そのままで左コーナーをいくつか経て、鬱蒼と茂る森の畝りが右へと開けた時。その時を待っていたかのように、ジャンが飛行するコースのインに奴は入り込んでくる。


(なっ、そんな無茶なっ……!!)


勿論のこと、ジャンはコーナーにおいて自分のラインが膨らまないように殊更気を付けていた。だが更にその内側へと、黒い幽霊はするりと入り込んでくる。

現在二人は空中で相当の速度を保っていた。もしこれで接触でもしたら、お互い大怪我は免れない。


そして……彼と謎の人物が並び、大きなカーヴを描いていたコーナーが終わりを迎えた瞬間だった。

空気を引き裂くような音が鳴り、奴の装置からガスが吹き上がる。それと共に隣に並んでいた人物の身体は一気にジャンを追い越し、更に加速して前へ遠くへと運ばれていく。

………ガスが煙のように揺らめいて、それを追いかけるように辿る軌跡を描いていった。一瞬にしてその姿は見えなくなり、気配も遠くへと失せる。


もう今から奴に追いつける可能性は絶望的だった。


ジャンはひとまずのところ、アンカーを太めの幹に打ち込んで樹上へと再び着地する。

動きを止めた瞬間、身体から大量の汗が吹き出した。息も上がって、目眩を覚えては身体を支える為に傍の枝を掴んだ。


「…………ッハァ、」


乱れた呼吸を整えるために深呼吸を繰り返すが、一向にそれは功を成さない。


奴が消えていった方向へと、今一度顔を向ける。だがそこに最早あの黒い幽霊の気配は無く、木立が朝を待つ空気に沙耶と煽られているだけだった。


「マ、マジかよ…………。」


それだけ呟いて、彼は荒い呼吸を繰り返す自身の口を片掌で覆った。

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