道化の唄 | ナノ

 ◆対話 2


ユーリが調査兵団の公舎から姿を眩まして数日後の雨が強く降る夜だった。

予想した通りに、奴は自分からこの場所へと帰って来た。


彼女のような人間に行き場所も逃げ場所もあるわけはない。結局はここで自分に使われるしか無いのだ。

雨が降りしきる無人の公舎前で立ち尽くす彼女のことを…エルヴィンは部屋から冷めた気持ちで見下ろしていた。

彼女がいる地上からは、自分の姿は見えない。だがユーリはぼんやりと父親の部屋を見上げ続けている。


……………しかし、ふとその視線がエルヴィンの部屋と外とを隔てる窓から逸れた。

彼の私室が据えられたフロアよりも些か下の方、そこをハッとしたようにして見つめている。

濡れて頬に張り付いたその前髪の隙間から鮮烈な薄氷色の瞳が覗いた。

暗闇の中で分かるほどに、その色彩は鮮やかだった。………光。初めて見るような。澄んだ光がたったひとつ、彼女の瞳の中に宿っていた。


すっかりと色が失せて乾燥した唇で、ユーリは何か言葉を紡ごうとしていた。その動きを読もうとするが、不器用に震えているそこから意味のあるものが発せられることは無いらしい。


…………気持ちが逸り、槍のように振り続ける雨の中に立ち尽くす彼女の元へと走り出してしまいそうだった。そこへ向かう為に、一歩後ろに下がってしまう。

だが、誰かが公舎の中から駆け寄っていく様を見て……その足は全くもって動かなくなる。


(……………ミケ。)



彼の姿を認めて、今まで仮面のように蒼白で人間味が感じられなかったユーリの表情が崩れ、幼い少女が泣き出す直前のような表情になる。

こちらからミケの表情を伺うことは出来なかったが、長い付き合いからその佇まいで彼がどのような心象を描いているかの想像はついた。


彼らは少ない言葉を昏く冷たい雨の中で交わすらしい。

やがてユーリの表情には仄かな熱が加わり、遂にその瞳から涙が垂れていく。


そこを少しの躊躇の後で拭ってやるミケの所作はひどくぎこちなく、不器用だった。……そうだ。昔から彼は如何にもこの手のことが得意では無い。

ミケは腰を屈め、視線の高さをユーリと同じくしてやっては声をかけているようだった。


思えば……自分は、ユーリの視線の高さに自分のものを合わせてやることなどしたことがあっただろうか。否、一度もない。

視線を合わせた記憶すら希薄で、それがいつなのかすらも思い出せなかった。


自身の頬に触れている彼の掌へと…ユーリもまた多くの躊躇いを示す仕草の後、触れて重ねてくる。その甲には、見慣れた細かい生傷が多く刻まれていた。


静かで、雨の音以外は全くの音色も気配も無い夜だった。


自分の眼下で真っ白い月に照らされている二人の間にも、その沈黙が立ち込めているのだろう。

だが、無音ではない。ささやかすぎる言葉と心を通わせている。







案の定、ユーリはひどい発熱をしたようだった。

ミケと彼に駆り出されたナナバが焦ったようにして会話をする押し殺した声が、彼らが居住するフロアに微かに響いていた。


どこまでもユーリは迷惑な人間だと思う。

自室に寝かされると、状態がやや落ち着いて来るようだった。ミケとナナバは彼女の埃臭い部屋の前で何事かの会話を暗い顔で交わし合っていたが…やがて、各自の私室へと戻っていく。


その様を確認してから、エルヴィンは少しの間傷だらけの素木の扉を目を細めて眺めていた。

…………弱く息を吐く。


そうして周囲に人の気配が無いことを慎重に今一度伺ってから、その中へと足を運んだ。



ユーリはいつものように、自分の膝を抱えて死んだように眠っていた。

呼吸が荒い。息付くたびに、苦しそうにその生白い喉が鳴った。

余程ひどい熱なのだろうか。彼女の額には玉のような汗が浮かんでいた。


いや、それだけでは無いのだろう。見覚えのある魘され方をしていた。

消耗しきったその身体から発せられる喘ぎ声はひどく苦しそうで、何故かいたたまれない気持ちになる。


「あっ…………う、ぅ……」


硬く閉じられたユーリの瞳から涙が垂れた。……意味を成さない音を唇から漏らし、彼女はまた自分の指を噛んで新しい傷をそこに作った。


「…………ぁっ、た…っぅ…。」


ユーリは、中空へと生傷だらけの掌を伸ばした。勿論そこには何も無い。埃臭い闇があるだけだ。それでも彼女は何かを求めて、そこを掻き毟るようにして手を伸ばす。


「………す……け、て」


震える声で紡がれた助けを求める言葉は、誰にも聞き届けられることは無かった。

だが、エルヴィンは聞いていた。…………ただ黙って。



立ち尽くしていた彼は……そこから、悪夢に捕らえられた娘が横たわるベッドの元へゆっくりと足を踏み出す。

もう一歩。そしてもう一歩と進んでは遂にすぐ傍へと至った。

腰を折り、そこに片膝をつく。


そうして視線の高さを同じにした。

勿論瞳が合うことは無いのだが。閉ざされたユーリの瞼では、すっかりと涙で濡れそぼった睫毛が光っていた。


所在なく中空を彷徨うばかりの、彼女の掌へ躊躇しながらも触れてみた。

ユーリの身体はビクリとそれに反応した。………そうして彼女はゆっくりとした動作でそこを掴んでくる。


案の定、その皮膚はひどい熱を持っていた。触れた先から溶けて混ざり合ってしまうような感覚に襲われる。

どうやら現在彼女の身体にかかっている負担は相当なものらしい。指先の自由すら満足に効かないようで、エルヴィンの掌を掴んだ指は何度も重力に逆らえずに滑り落ちていきそうになる。

だが……その度に彼女は何度も何度もそこを掴み直し、決して父親との繋がりを断とうとはしなかった。


勿論、振り払おうと思えばすぐにでも振り払えるほどの弱々しい力だった。だがエルヴィンはそれをせずに彼女のさせるままにしていた。

やがてユーリは彼の手を自分の方へそっと引き寄せて行く。傷だらけではあるが、皮膚色はやはり同じ白に近い色である。しかし掌は形も質感も大きさも不揃いで、とても血肉を同じくしているとは思えなかった。


「……ここにいて…………。」


ようやく聞こえるくらいの微かな声で、ユーリはそう呟いた。

そして傍へと寄せたエルヴィンの骨ばった手の甲を頬へと寄せて、熱いほどの自分の皮膚をそこへ滑らせた。そうして同じことを呟く。

全く響かず、驚くほど小さな声である。だがそれでもユーリは縋るようにして、同じ言葉を繰り返す。


……………空いている方の手でその頬へと触れてやれば、ユーリの身体は強く痙攣した。安心させる為に…汗ですっかりと濡れてしまっている髪を、頭を撫でてやる。

ようやく彼女は落ち着いたようにして、弱く笑った。


「………ぁ、う………こっ、こ…怖い夢、見てたの。」


ようやく閉じていた瞳を薄く開いては…嗚咽しつつも安堵したような表情で言葉を紡ぐ。

瞳の青色は非常に彩度が高く、涙が留まることを知らない故か細かい光が数多浮かんでいた。

しかしどこか虚ろな色彩である。恐らく、まだ意識は朦朧としてるのだろう。


「よっ………、良かった……っ…そばに…、いてくれて。」


ユーリはエルヴィンの掌へと愛しそうに今一度頬を寄せた後、震える唇でそっと口付ける。

擦れからした遍歴を辿ってきた人間だというのに、その行為は恐ろしいほどに純粋で清らかだった。


明らかにその時のエルヴィンは、平素の冷静で冷淡な思考回路ではなかった。細胞のどこかが機能を放棄した如くの痺れた感覚だけが、ただただ脳髄を鈍く漂っていた。

髪を撫でてやっていた手を離し…ユーリの身体へと触れてみる。その肩に慎重に手をかけ、自分の方へと抱き寄せてやろうとした。


彼女は特に逆らわずに、それを受け入れるように繋がった手を掴む力を強くしてくる。


「ありがと……う、いつも…………」


そして、相変わらず希薄な声色で掠れた言葉を紡ぐ。



「ミケさん…………」



まさに娘の身体を胸に抱こうとしていた刹那…彼女が呼んだ自分ではない男の名前に、エルヴィンの脳は冷水を浴びせられたように温度を失った。


……………我に、返る。


そして呆然とした気持ちのまま、ほとんど気絶するように再度意識を手放してしまったユーリのことを見下ろした。

もうその瞳は瞼に覆われて、自分と同じ色をした虹彩を拝むことは出来ない。

折角こうして、視線の高さを同じにしたというのに。終ぞ彼女と自分の視線は交わらないままだった。



自分は、一体何を期待していたのだろうか。



何もかもが虚しくなって、エルヴィンはユーリの身体から手を離した。

傍に置かれていたこの部屋ただひとつの椅子に腰掛け、今しがたユーリが何度も縋るように握ってきた自分の掌を見下ろす。


(………そうか。)


この時に、家族を再度…全くもって知らないうちに失ったのだな、とようやく理解した。


そうして……だからこそ。思う処がある。それも強く。


いつもそうなのだ。


手に入らないものだけを…ずっと、常に。

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