道化の唄 | ナノ

 ◇対話←


外気はひどく寒い夜だったのに、身体は燃えるように熱かった。

そして自分のことを背負っていた父の体温もみるみるうちに熱を帯びて、背中の皮膚から汗が吹き出していくのを触れ合った肌で感じる。


……………高熱で意識が朦朧として、喋ることは出来ない。

父が足早に歩きながらも自分を気遣う言葉を懸命にかける声だけが、頭の中で響いていた。


あれが最も古い、死に触れた記憶だ。


次に目を覚ましたのはベッドの上だった。馴染み深い自宅の天井を焦点の定まらない視線でそっとなぞり、横になったままで鈍く痛む頭を動かして周りの様子を伺う。

ーーーー自分が寝かされたベッドの隣、傍の椅子では父が崩れるように腰掛けて居眠りをしていた。

恐らく、彼は夜の間ずっと自分の側についていてくれたのだろう。


やがて父も目を覚ましては、こちらのことを心配そうな表情をして覗き込んでくる。

大丈夫だという風に笑いかければ、彼も安堵して笑ってくれる。年よりもやや老けて見えるその顔に、深い笑い皺が刻まれた。


………思えば父子二人の生活は、ひどく素朴なものだった。

教師である父は派手なことは好まず、息子である自分もまた彼の堅実な姿を好ましく思っていた。

今の自分の仕事へ向き合う姿勢…その長所と言うべきものの礎は、恐らくその頃に培われたに違いない。

そうしてーーその当時は考えもしなかったがーーもし自分が親という立場になる時が来るのであれば…彼のように、多くを与えることが出来る父親になりたかった。



だからだろうか。今でも…いや今だからこそ、こうして時々父の夢を見る。

その時の自分は、いつでも彼の教室で学んでいた少年時代の姿のままだ。

もう少し話をしていたいといつも思う。二人で過ごした質素そのものの佇まいの我が家での時間が、出来るだけ長く続いて欲しいと強く願ってしまう。


けれどそれは適わずに、夢からは覚めてしまうものだ。


目を覚ます時は必ず、自分があの家を立ち去った日のことを思い出してしまう。

ささやかすぎる思い出と、共に過ごした日々を表す家具は全て持ち去られ、ただの伽藍堂と化した部屋に一人で立っている自分。

周りにいる人間たちは、思い思い勝手な憶測を伴った会話を交えている。


…………あの時の自分は間違いなく、世界で一番と言っていいほどに孤独だった。


お節介で無遠慮な人間からの呼びかけに相槌も返せず、佇んでいる自分の小さな背中を眺める。

声をかけてやりたくなって、一歩を踏み出した。

古い木の床板が鈍く鳴るので驚いたのか、彼はこちらを振り返った。


(いや、)


では無い。


(よく似ているが)


窓から差し込む鈍い陽光に照らされて、彼女・・の金色の髪が淡く光っていた。


(そうだ、)


いつの間にか周囲にいた人間の姿は影も形もなく失せ、窓辺で日に焼けたレースのカーテンが風に煽られて翻った。

物音ひとつしない乾いた静寂の中で、彼女はただこちらをじっと眺めている。


(こんなにもよく似ていた)


自分と、相違ない色彩の瞳で。



ーーーーーーーーもう、日は高いらしい。



夢の中と同じような鈍い陽光が、エルヴィンの薄く開いた瞼をぼんやりとなぞっていく。

残されたただ一つの掌が包まれている感覚が心地良くて、その方へそっと視線を送る。

………自分の節くれだった掌を握っていたのは、予想した通りに彼女・・だった。


「…………おはよう。」


ユーリは父親へと、実に穏やかな声で朝の挨拶を述べた。何気ない日常の延長線上に今があるかと、錯覚するほどに。

エルヴィンは少しの間、垂れた前髪の隙間から覗く彼女の青い瞳を眺めていた。そして、「…離せ」と短く拒否の意思を示した。


「すみませんね。」


それに従って、ユーリは困ったように笑いながら握っていた掌を離す。「なんか……魘されていたからさ。」と呟きながら。

自分から離せと言ったのにも関わらず、どう言うわけか遠ざかっていく彼女の皮膚の温度を恋しく思う感覚に見舞われた。その意識を遠ざける為に、エルヴィンは緩く頭を振った。


「お見舞いにさぁ…来たんだけど。まだ寝てるとは思わなかった。いつも団長は小鳥みたいに早起きだから。」


ユーリは可笑しそうに言いながら、手にしていた林檎を軽く放ってはまたキャッチする。

金色を透明にした陽光の中で、真っ赤な果実は燃えるように輝いた。


「お林檎召し上がります?」


キャッチした林檎を器用に掌中弄びながら、ユーリは首を傾げて尋ねてくる。

エルヴィンが何も答えないので、「じゃあウサギさんに剥いてあげましょうねぇ。」と彼女は勝手に紅い林檎をサクリと私物のナイフで解体していく。


その様をぼんやりと観察していたエルヴィンだったが、ふと…娘の唇の端が切れて血液が滲んでいるのに目が止まった。

昨夜、顔を合わせた時にはなかった筈だ。

身体を起こし手を伸ばして、自然な動作でその近くの皮膚に触れる。

ユーリはひどく驚いたらしく、肩を小さく揺らしてこちらを見た。


「ここを、どうした。」


エルヴィンにとっては何気なく呟いた言葉だったが、その一言はユーリをひどく動揺させたらしい。

ヒュッと息を飲む、苦しそうな音がその喉から漏れる。………が、林檎が掌から落ちそうになるので、ユーリは我を取り戻したように慌ててそれを掌中に収め直す。


「やっ………えっと、まあ。団長に頼まれた仕事を昨晩のうちに済ましちゃったんですよ。その時にチョっと。」

ユーリはしどろもどろになりながら、エルヴィンの指先から逃れる為に身体を遠ざけながら言葉を紡ぐ。


「昨晩のうちに……?昨日はもう休んで良いと言った筈だ。」

得も言われず嫌な予感を覚え、エルヴィンは表情を険しくして娘と相対する。


ユーリは些かムッとしたように、「確かにそう言われましたけど……早く仕事をこなすことの何がいけないんです。」と言っては再び林檎を慣れた手つきで剥き始める。


「随分と勝手なことを言うな。昨晩のお前の疲弊した状態ではミスを犯す可能性が高かった。それを鑑みての俺の考えが何故分からない。」

妙にイラついて、林檎とそれを捌く自分の手元へと視線を落としたままのユーリへと「こちらを見ろ」と硬い口調で告げる。


「確かにちょっと怪我しましたが、無事にやることはやりましたよ。………文句言われる筋合いは無いと思いますけど。」

ユーリはいかにも面倒臭そうに…だが言われた通り父親の方を見ては、林檎を皿に、ナイフを脇のテーブルへと乗せて不満げに応対した。


「………大体怪我をしたのはそこだけでは無いだろう、」


それを無視して、エルヴィンはユーリの安っぽい作りのシャツに包まれた胸の辺りへと手を伸ばす。が、その掌をユーリが掴んで押し留めた。

エルヴィンは少しの沈黙後、「見せなさい。」と静かに娘へと告げる。

………彼女は頑なにエルヴィンの掌を掴んだままだった。表情は緊張して、警戒の色が強く現れている。

室内は水を打ったように静かだった。高くなって来た陽が注ぐ白い光が、簡素な部屋に斜めに注がれていく。


「…………………。見て、どうするつもりですか。」


ポツリとした声で、ユーリが呟いた。

相変わらずその手はエルヴィンの片掌を強い力で捕まえていて、頑として自分の身体に触れさせようとしない。


「…………どう、とは。」

「仮に…私が顔以外にも負傷していたとして、貴方がそれを見て何が出来るのかという話ですよ。」


ユーリはエルヴィンの方を睨むようにして見上げては、握っていた掌を突き放して父親の方へと押し戻す。


「手当してくれるんですか?貴方の方がよっぽど重症患者じゃ無いですか。その状態じゃ包帯すら満足に巻いてくれることは出来ない。」


そしてユーリは再び林檎を器用に切り分ける作業に戻る。

切れ込みを入れて、律儀に…先ほど言ったように兎の耳を象っているのが、妙に今の状況にチグハグだった。


「…………。単純に、心配しただけだ。」


間を取って、エルヴィンもまたポツンと心情を漏らした。

ユーリはエルヴィンの方は見ずに、少し肩を竦めては「だから…そういう冗談やめてくださいよね。」と応える。


…………綺麗に剥かれた林檎が、白い皿にのってエルヴィンの前へと差し出された。

6羽の兎が身を寄せ合って仲良く皿の中に収まっている。

エルヴィンはそれを眺めて溜め息を吐き、先ほどの物寂しい夢で見た少年時代の自分と、同じ歳の頃の彼女の姿を思い出した。


ーーーーーーやはり自分たちは血が繋がっているのだと思う。どうしようもなくそれを実感して止まない。

髪、瞳、皮膚の色。唇、鼻の形。それらが並べられた顔、そして人間の性とも言える本質。

まるで鏡のようにそっくりで、それが憎らしくてどうしようもない。

だから…

ユーリが自分を愛しいと思うのならば、その鏡面に照らされた自分もまた…恐らく……、…………

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