◇対話 2
「そろそろ寝た方が良いんじゃないですか……。色々疲れてるでしょ。それに風邪引いて鼻水垂らしてる団長なんて、私恥ずかしくて嫌ですよ?」
屈んでエルヴィンの顔を覗き込んだままで、ユーリは声をかけた。
彼は暫し沈黙するが…やがて溜め息をして、「そうだな……。そうしよう。」と呟く。
「立てます?手を貸しましょうか。」
「いや、必要ない。」
言葉少なに会話し、彼らは闇が沈んだ空気の中から立ち上がる。
ユーリはまた…雪のように花弁を散らす樹木の方へと何とはなしに視線を向けた。
その落ち着いた佇まいと、優しい香り。全部が自分の幸せな思い出へと繋がっている。
(……未練がましい…。)
彼が最後に呼んでくれた自身の名前が、脳裏で痺れるようにして反響する。
ミケにとって自分は出会わなければ良かった人間に相違ないのに、それでもまだ彼のことを心の底から愛しているのだ。
自惚れてしまうようだが。きっと、彼自身も本当に…真実に愛してくれていたのだろう。
それを嬉しいと思う自分が癪だった。
理性と心と身体はバラバラで、いつも矛盾ばかりでどうしようもない………。
……ふ、と父が自分の横顔へと視線を注いでるのが分かった。
応えるように目だけ動かしてその方を見れば、パチリと瞳が合う。
「………ユーリ。」
名前を呼ばれるので、数回瞬きをしてきちんと彼へと向き直った。
「そこには、誰もいない。」
エルヴィンは単調な声でそう告げた。
それを聞いて…言葉を理解したユーリの喉の奥へと、ジンとして熱く不快なものがこみ上げていく。
「感傷に浸るのもほどほどにしておけ。」
彼は低い声でそう告げると、それきり口を噤む。
ユーリは………喉の奥へとせり上がっていた嘔吐感を嚥下するために、一度ゴクリと生唾を飲み込んだ。
胸中に広がる理由の分からないパニックを悟られないようにと、ユーリは「へ、へへ……」と愛想が入り混じった苦すぎる笑い方をする。
「ま、前から……思ってましたが。」
不自然に、声が震えた。
そこはユーリの心中において現在最も無防備な箇所だった。こんな何でもないような一言にさえも、掻き乱されて何もかもが覚束なくなっていく。
「貴方………、私に会ったら、一度は傷付けなくっちゃぁいけないルールでもあンの?」
「…………………。傷付くのはお前の勝手だろう。俺の知るところではない。」
「そうですか……。」
ユーリは収まらない吐き気に耐えながら、辛うじて父の言葉に返事をする。
………堪えられなくて、唇の端から吐息を漏らした。そこを拭い、口内の不快感に眉をひそめて目を伏せる。だが一方で、瞳の奥に涙の気配は皆無だった。
体外に吐き出されることの無い辛苦は、澱のようにしてユーリの臓腑の奥へと溜まっていく。
「………そうだ。ひとつ言い忘れていたな……」
エルヴィンはユーリの胸の内に去来していた悲傷を思い描くことも無いらしく、相変わらず淡白な口ぶりで言葉を続けた。
「命令がもうひとつある。」
「………………。なに?……私ってば最近働きすぎだと思うけれど……、でも良いよ。次は誰をやっつければいいの。」
仕事の話を持ち出されれば、ユーリの内側で蠢いていた暗澹たる気持ちはいつの間にか鳴りを潜めていく。
今だけはやるべきことを多く与えてくれる父に感謝しつつ、彼女は落ち着きを取り戻しては腕を組んだ。
「次は誰もやっつけなくて良い。暫く新兵たち…リヴァイの下に新しく編成された班の兵士たちの面倒を見てやれ。」
「ふうん、珍しいこと命令してくれますね。」
「リヴァイからの指名だ。断る理由も特に無い。」
「あらま……、私気に入られちゃってるのかな?」
なんて…とユーリは言って、まるでつまらない自分の冗談で笑ってみせる。エルヴィンは笑わなかった。
「単純に人手が足りていない。選択の余地が無いだけだ。」
「ふうん、それは大変…。」
ユーリは他人事のように呟いて、薄くせせら笑った。
風が強く吹き、耳にかけていた前髪がバラバラと元の位置に戻って自分の視界を遮る。
見慣れた薄暗い風景が視野へと戻ってきた。やはりこれが落ち着く。色んなものが見え過ぎず、快適だった。
「お前も…少しは休め。」
去り際に父親が告げる。ユーリはいつものようにニヤと笑って、「まあ気が向いた時にでも、」と気の抜けたような返事をした。
彼はそんな娘を一瞥して、何かを言おうと僅かに唇を開きかける。
だがそれは言葉になることはなく、二人は沈黙の内に別れを告げた。
*
ユーリは数分も経たずにそこから歩き出した。歩く速度はどんどんと速くなり、部屋に戻る為に昇降する階段は二段飛ばしで駆け上がった。
階段半ば、据えられた踊り場へと月が斜めに淡色の光を注いでいた。
自室へと帰れば、消し忘れていた蝋燭がジジ、と鈍い音を立てて激しく燃えている。………いつの間にか、随分と短くなっていた。随分と火力が強い蝋燭だったようだ。新しいものに取り替えなくては。
ふっと灯芯に息を吹きかけて消せば、暗闇の中に灰色の煙が上がった。焦げ臭い匂いが鼻につく。
ユーリは、慣れた手つきで仕事へ行く為の準備を進める。脱ぐものを脱ぎ、身に付けるものを身に付け、必要なものと不必要なものを分別した。
最後に……全くもって手入れされていない、如何にも陳腐な装飾がなされた斧のすぐ傍の背の高い棚を開く。
真っ黒の煤けた闇がぽっかりと口を開けているその中から、ユーリはズルリと包材に保護されたものを引き摺り出した。
それを除くと、研ぎ澄まされた白銀色の刃が姿を現す。斧だ。自分が同じ名を冠された凶器。
装飾ひとつ無いその束をグッと握って、中空へと払う。冷たい刃は一度に暗い部屋で光った。自身の内側にある仄かな鬼気が手元からすうすうと逃げて行くように思われた。それが悉く切っ先へと集まり、殺気を一点に籠めている。
しばらくユーリはその様を眺めていたが、やがてひとつ頷いてはそれを下ろす。
「……うん、護身用護身用…。女の子が一人で行くには危ないところだし…」
そして呟きながら抜き身を収め、丈の長いコートの内側へとそっと仕舞い込む。
これは、記憶の中で初めて…そして唯一父が面と向かって自分に贈ってくれたものである。
且つての自分と同じ名前であるこれを渡された時は、皮肉なのかと思って随分と嫌な気持ちになったが。
加えてアックスは派手な武器なので、そこまで使用する機会は無い。しかし……認めたくは無いが一番に馴染んだ武器である。単純に扱いやすかった。
忌むべきものばかりの過去だが、やはりその積み重ねで自己は形成されている。そう簡単には変われないし、望む望まないに関わらずそこから得るものもあるのだろう。
暫し瞼を伏せて何かを考え込んでから、ユーリは部屋を後にした。
…………エルヴィンには、今夜はもう休んでも良いと言われていたが。ユーリは今一度夜の帳の中へと足を運んでは、目的地へと向かった。
階段の踊り場に引っ掛けられた古めかしい時計が朝刻を打つまでに、きっとまた帰ってきてみせる。仕事を首尾良く終わらせた上で、今度こそ父親の病室へと見舞ってみようと…そんなことを。
だが、仕事をこなさなければ顔は合わせられないと思った。どうしても今夜中に、己の為すべきことを成さなくてはならない。
ユーリは自室で激しく燃えていた蝋燭の貌を、ふと思い出す。
もう少し穏やかに、長い時間をかけて燃えていてくれても良いじゃないかと思った。何故皆、そう生き急いでは死に急いでしまうのだろうか。
(まあ、私も人のこと言えないんだけれど。)
やがてユーリは歩みをゆったりとしたものにして、黒い森の向こうで対照的に白く浮かぶ月を眺めては小さく溜め息をした。
自分もここに身を置くならば、そしてこのように父親や兵団の為に危ない橋を渡り続けるならば……そこそこ早いうちに死んでしまうのだろう。
(私が死ぬ時………)
その時に望むことは、どうか人を恨んでいないことだ。
今までの自分が不幸じゃないとは思わない。でもそれを他人の所為にして……誰かを恨み憎むのはもう、ユーリは嫌だったのだ。
すっかりと茶色く色素が薄くなった長い草が、夜風に煽られて揺れている。吾亦紅の花も咲いていた。
真っ白い月明りはまるで夜明けかと思うくらいである。しかし、まだ夜は明けていなかった。
不思議とユーリの心中に、いつもの様なエルヴィンへの憤りは無かった。
彼にとっては良い迷惑なのだろうが…やはり、自分は父親が好きなのだと思う。
(だってお父さんは、私をあの地獄から見つけ出してくれたじゃない……。)
(名前をくれて、人間として生きることを許してくれたね。私はそれが本当に嬉しかったんだよ。)
月光を身体に浴びて冷たい風に身を浸しながら、ユーリはどう言う訳かひどく切ない気持ちになった。
地下でも地上でもどうせ人生は等しく辛く、人間は孤独で分かり合えないことなどは百も承知している。
だからそれだけ余計に明るく楽しく振る舞おうと、ユーリはミケの死からの数日間で考え始めていた。
(ミケさん………。)けれども後何度人生に失望して、大切なものにさよならを繰り返せば幸せになれるんだろう。
そう思って、いつも苦しくなる。やっぱり幸せなんて自分には過ぎたものな気がして。
「今夜だけ………。お前が望む父親になってやっても、良い。」一際強い風がごうと吹いて、頭髪がバサバサと煽られた。
ゆっくりと瞳を開けば、自分の金色の髪が視界の中で縺れて揺れている。……その向こう遠景に、黒く聳える壁がぼんやりと見えた。
(よく、あんなことが言えたもんだよね。)
ユーリは心中で呟き、苦笑する。そうしてまた白々とした月光の中を歩き始めた。
本当は、その提案を受け入れて思う存分に甘えてしまいたかった。
たった一晩の仮初めのものでも、愛して欲しいと思ってしまったの。
そんな私はどうしようもない子供だ。
いつか見た夢みたいに、優しく名前を呼んでくれたら。
身体に触れてくれたら。
私は嬉しくて、何度でも彼の美しい顔を覗き込んだだろう。
貴方に似たこの顔が、同じ髪の色、瞳の色を心から喜べただろう。
ーーーーー今夜がきっと最後のチャンスだったのかもしれない。
今までもこれから、私たちは一度として心を通わすことは無いのだろう。
父が私のことで心を痛めることが無いように、私もまた彼のことで流す涙はもう無いのだから。
(本当に?)
(本当だよ。)
(嘘……………。そんなことない……。)お父さん、ありがとう。
貴方のおかげで私は人を愛するこの上ない喜びと、果てしない苦しみを知ることが出来たよ。
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