◇対話 1
「………………。……どうしたんですか?」
暫時の沈黙の後、ユーリは口を開いた。
そしてこちらに手を差し伸べている父親を気遣うようにしながら、「何かあったんですか、変ですよ……?」と言っては傍へと歩を進める。
エルヴィンの表情が先ほどの甘やかなものから、ハッとしたようにして変化した。
ぼんやりと滲んでいた瞳の色が、澄み渡るようにして急速に透明色になっていく。
ユーリの指先が触れる前に、彼は…差し出していた掌を素早く降ろし、自分の膝の上で握った。そして心弱く笑い今一度娘の方へと視線を移す。
「……………冗談だ。」
そして、呟くように言う。
ユーリは足を止め、暫しそんな所在ない父親の様子をじっと観察した。
(…………………………。)
聞きたいことと、言いたいことが山のようにあった。
だが、恐らく今の彼は自分が必要とすることに対してひとつも返事をしてくれないに違いない。
だからユーリはひとつ溜め息を吐き、彼の虚脱漂う微笑に応える為に苦く笑って見せた。
「……………何なんですか、さっきから。言っちゃぁなんですけど、貴方お笑いのセンスが皆無ですよね。ちっとも面白くないですよ。」
発言してから、空笑いをした。驚くほど空虚な笑い声である。
エルヴィンはそんなユーリのことを伺うようにしていた。そうして片眉を上げた後に、肩を竦めつつ口を開く。
「……………たまには、良いだろう。」
「良いワケないでしょ。」
父親の発言を、ユーリはバッサリとした淡白な言葉で否定した。
自分の顔半分を、白々しい月明かりが照らしていくのを皮膚で感じる。父親の端正な顔も同じように、月光によって色濃い陰影が描かれていた。
「冗談でもそう言う……私を試すようなことするの、やめて下さい。」
ユーリは彼を見下ろしながら、一言ずつ、ゆっくりと気持ちを言葉にした。
エルヴィンは動かずに、青く透き通った彩度の高い瞳でただただ娘の顔を見つめ続けている。
やがて彼は瞼を伏せて頭を緩く振った。淡い溜め息がその厚めの唇から吐かれる様子が、得も言われず艷であった。
「…………そうだな。つまらない
冗談を言った。」
「ほんとそれですよ、反省して下さいね?」
ユーリは父親と自分の間に横たわる陰鬱とした空気が良い加減嫌になっていたので、わざとおどけるように軽い調子で返事をしてみせた。
それから今一度ニッコリと笑い、少し目を細めて父親の顔を覗き込む。
「……無理しちゃダメですよ。一晩だけとはいえ、そんなこと不可能なんですから。」
エルヴィンは黙っていた。痛いほど澄んだ瞳で自分を見つめ返してくるので、ユーリは仄かな痛みを胸に感覚した。
この清涼とした色彩に、今の自分はどんな風に映っているのだろうか。
「私たちが……、一体何年離れ離れで過ごしてきたと思ってるんです。」
父の掌へと触れることのなかった指先を胸の前で軽く握り、笑顔が失せないようにと気をつけながらユーリは言葉を紡ぐ。
「一回でも心を通わせたことがありましたか…?今更、親子なんかになれるわけないじゃない………。」
呟いて、ユーリは黒いシャツの袖口から伸びる腕から手首までをそっと見下ろした。
…………こんなところまで傷が走っている。もう、違和感のない服装で傷跡を隠すのは不可能だった。
黒々と肉に刻まれた痕は何とも言えずにグロテスクである。しかし月光に照らされた皮膚色はあくまで白い。この色だけは、醇美な父親と同じものだった。
だが石英に似て硬質で完全を体現した彼の色とは違い、魚の腹や蛇の鱗のように生々しい色彩だと思った。
そのイメージ通りに自分の肉体は生臭くて、あくまで死や腐敗と隣り合わせなような気がして堪らない。
だから、出来るだけ自分を嫌う父親には触れないでいようといつからか心がけていた。
きっと命じられた仕事をこなす以外で…自分が彼に与えられることなんて、こんなものだけだから。
「…………でも、さ。団長は嫌がるだろうけれど。私は貴方のこと嫌いじゃないんですよ、義理は大事にしたいと思ってるんで。」
一歩後ろに下がって闇色の空を見上げながら、ユーリは発言を続けた。
少し、エルヴィンが身動ぐ気配がする。彼は肘掛へと僅かに身体を預け、それから「………義理。」とユーリの言葉の一部を繰り返した。
「まるで良い人間のようなことを言うな……。」
彼の返答に、ユーリはおかしそうな声を上げて笑った。
それから、「悪人が義理を重んじちゃいけませんかね。」と返す。
「でも………まあ。仰る通りですよ。この
身体を見て下さい。私はロクでもない人間で、生き方は間違いだらけだったと…鏡を見る度に思い出します。」
言葉を零しながら、ユーリは唐突に自分の皮膚を丸ごと剥がしてしまいたい衝動に駆られる。
そして新しい清らかな身体に生まれ変わって、最初から人生をやり直せたら。もう一度、何の後ろめたさも持ち合わせずに大切な人たちと出会い直すことが出来たら。
…………自信を持って彼らを愛し、愛されることが出来ただろう……。
だが、そんなことは不可能だと勿論分かっていた。
この傷んだ皮膚も、荒んだ心もひっくるめて全てが
真理と定められた己なのだ。
(でもたった一人だけ……私のこと、綺麗だって言ってくれた人がいたよ。)
(ありがとう。)
(………ごめんね。)
(やっぱり私……ミケさんのことを汚しちゃった罪悪感で、心がいっぱいなんだ………。)眼前の父が、先ほど下ろした掌を再度ゆっくりと持ち上げた。
そこを伸ばして、ユーリの傍で留める。
………何かと思った。だがそれだけで…エルヴィンは、元の位置へと手を戻していく。
そして、彼はどこか息苦しそうにしながら言葉を吐いた。
「……………義理など、持たなくても良い。」
ユーリは黙ってその声に耳を傾けた。エルヴィンも先ほどの彼女と同じように、青い闇が渦巻く夜空へと視線を上げる。風に煽られたその短い金色の髪が緩く揺れていた。
「こちらとしては必要だから手元に置かせてもらっているだけだ。恩に着られるようなことは何もしていない。」
「………………。そう。」
「最低限の約束事を守ってもらえばそれで良いんだ……。俺は元より、お前には何も望んでいない。」
だから、俺にも望んでくれるな。
どう言う訳か、父親は言葉をひとつ紡ぐ為に多大な労力を要しているようだった。
………明らかに、様子がおかしい。
絞り出すような彼の文言を聞き取りながら、ユーリはそっと目を細くする。
「………分かりました。望みませんよ、安心して下さい。」
そしてユーリは静かな声色で彼の言葉に応える。
それから一歩足を踏み出し、またもう一歩と距離を詰め……やがて父のすぐ傍まで至った。
「でも………、ひとつくらい望ませてくれませんか。」
立ち止まってそう言えば、エルヴィンは訝しげな表情でこちらを見上げる。
ユーリはひとつ呼吸して、「団長。」と彼へと呼びかける。弱い風が吹いて、自分の髪も先ほどの彼と同じように弱く煽られるのを感じた。
「私はね、これからこの兵団で自分なりに頑張ってみたいって……そんなこと、最近よく考えるんですよ。」
そう言えば、随分と久しぶりに前髪に遮られていない状態で父親と顔を合わせたと思った。
エルヴィンは黙って娘の言葉を聞いてくれている。自然とユーリは腰を低くして、座っている父親と目線を合わせるようにした。
「貴方に望まれたことがそれですし、ここには私にとって大事なものが…いつの間にか沢山出来ちゃって。今まで人生をすごく適当に、それでいて他人を傷付ける為だけに生きていたから……こうやって頑張りたい…皆と一緒に、好きな人の役に立ちたいって思えるのが私は幸せなんですよ。」
ねえ、聞いて下さい。
ユーリは散漫な言葉を続けた。エルヴィンが自分の発言を途中で打ち切らずに黙って聞いてくれているのが嬉しくて、自然と顔が綻んでいくような気持ちがする。
「私はね、ここで精一杯やってみようと思うんですよ。頑張って…壁外でも壁内でも戦果を上げて昇進します。私優秀だから、きっとすぐに分隊長程度にはなれると思うんですよ。」
「………簡単に言うな。」
エルヴィンの言葉に、ユーリはクッと喉を鳴らして笑った。
それに応えて、彼も笑ってくれたような……そんな気が、少しだけ。気の所為だけれど。
「夢は大きくもたなくっちゃぁ。折角希望があるんだから。」
ユーリは少し首を傾げ、クシャリとした笑顔のままで先ほどよりも随分と近くになった父親の顔を今一度覗き込んだ。
白い花弁が青い夜風に乗って、二人が佇むベンチまで漂ってくる。黒い空気の中、その白色は鮮烈で眩しいほどだった。
「なんなら貴方から団長の座を奪い取ることを目標にしても良いですけど。……んふふ、流石にそれは冗談です。大体責任が重い長の役職なんて死んでもゴメンなんで。」
言葉を紡ぎながら、ユーリは考える。
………気持ちは穏やかだったが、どこか寂しいのだ。きっとこの優しい時間は、大きな怪我とこの朝と夜の狭間の時間、寂寞とした今の季節が父親の心理…感傷的な部分へと作用することに起因している、ある種の奇跡のようなものだ。
きっと、もう二度と訪れない。
「分隊長になったら、私はもうヒラ兵士じゃないし……貴方と肩並べてやってく立場になるわけですよね。ヤダー、そんな嫌そうな顔するぅ?」
ユーリはケラケラと晴れやかに笑ってみせた。
それから今一度父親へと真っ直ぐに向き直る。エルヴィンもまたユーリのことをぼんやりと見ていた。
彼の表情はやはり所在なさげで、疲労が滲んでいる。
…………これだ、この顔。寂しそうで、綺麗な顔。どうにかして笑ってくれないものかなあ、といつも考えてしまう。
「だから……。そしたら、私と友達になってくれませんか。」
ポツリとそれだけ呟いて、ユーリは緩い弧を唇に描く。
先ほどと同じように、幾ばくかの沈黙が空気の中へと漂っていった。
自分の顔を真っ直ぐに眺める彼のアイスブルーの瞳に、葉をふるい落した細枝がくっきり月夜を背景にして浮いていた。
そこにほんの僅かな白雲が流れて端の枝を掠めていく。寂として動くものが無い風景の中でも、雲だけは畝り、そして自分たち人間の心臓もまた静かに鼓動しているのだろう。
一度、エルヴィンは瞼を下ろした。眼窩に落ち込んだ影の中に、その青い瞳は隠れて見えなくなる。
本当にただ一度。小さな声で、彼は呟く。
ユーリはそれを聞き取ることが出来なかった。
あまりにも、微か過ぎて。
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