◇子守唄
ユーリは赤く錆びたバルブを締め、細く長く重なり合って垂れていた温い水を打ち留めた。
皮膚病のように剥げた床のタイルに、水滴が一定の感覚を持って落ちていく。その音が狭い室内の四方に反響しては消えるのを、ユーリはじっと動かずに聞いた。
彼女は濡れた髪を掻き上げ、ふと色濃い闇の向こうにぼんやりと浮かぶ浴室の天井を眺めた。
天井には水管が生物の内臓のように絡まり縺れて走っている。
そうして…シャワーを使用するのは毎晩のことなのに、ここの天井を見上げるのは初めてだと気が付いた。
だが、見覚えのある光景だった。なんだったろうとユーリは暫し思考を巡らせる。
「ああ。」
そうして思い当たって声を上げた。
ゆるく頭を振って、苦笑する。
「初めて…犯された時か……。」
もう随分昔のことなのに、思い出せば未だに嘔吐感を伴う恐怖が精神と身体を蝕んだ。
性質が悪く完全に頭が飛んでいるジャンキー共に目を付けられたのが運の尽きとも言えるのか。
その際に著しく欠損させられた、乳頭の無い左の乳房をユーリはそっと指先で撫でた。
軽く目を閉じれば、垢や汚物で元の色が分からないほどに汚されたタイルが瞼の裏に浮かび上がる。その上を血液がぬるりと滑っていく光景、聞いたこともないような嬌声と悲鳴。誰の声だ?一体誰の。こんな、私の声なの、違う…、違うけれど、頭上から滴り落ちる湯と共にそれらは絡まり合い、もつれた髪の毛で塞がれている排水口に吸い込まれていく。
……それ以来…
ショウの最中、後。
男に、女に、そのどちらでも無いものに弄ばれる最中。
ユーリは心を無にして天井を眺めていることが多かった。
天井の四隅に溜まり、淀んで微かに息付く闇と影。
ユーリはそこに、どこかで聞き齧ったおとぎの世界を空想していた。
あのしめやかな影の中で囁く小人や妖精の姿を思い浮かべて、確かにその存在と夢の世界を知覚していた。
そんなひとり遊びに興じるほどに…まだまだ幼い少女だったのだ。
人を愛することだって知らなかったのに。
だから…情事の際に相手の顔を真っ直ぐに見ていたのは…見つめていたかったのは、本当にあの、一回きりだけ。
天井を見上げたままで、ユーリはそこに留まる闇へと手を伸ばした。
視界の中に入り込んだ自分の青白い腕には、傷んだ果実のような鈍色の痕がそこかしこに刻まれている。
どこからどう見ても、汚らしい皮膚に、穢れた肉だった。
「……………もっと、綺麗な身体で貴方に抱かれたかった…。」
そうして呟き、ここで初めて表情を歪ませる。
どんなに凄惨な過去の出来事より、今の彼女の心に堪えるのこれだった。
(出会わなければ良かった。)
その一言が心の中を埋め尽くしていた。
先ほど見た幸せな夢の中でも考えていた。内容は忘れているのに、これだけはしっかりと覚えている。
(ごめんなさい………。)
彼が最後に愛した人間が自分のようなもので良かったのだろうか…と。穢して、汚してしまったという罪悪感は、どうしても払拭出来ずにいる。
(ダメ、こんなこと思ったらきっとミケさんは怒る……。)
これは再三言い聞かされていたことだ。
卑屈になるなと。疑うなと。頭が悪い自分が理解するまで、何度でも根気強く。
(それでも……)
「…………やっぱり、会わなければ良かった……」
せめて、心と身体を通わすことが無かったら。
彼を拒否する機会なんて、いつでもあったのだ。
後悔する時が来ると確信を持っていたのに、それをしなかったのは何故なのだろう。
例えば、彼に初めて求められ未遂とは言え行為に及ばれた時。
数日間街を彷徨って帰ってきて…その時、うんと冷たく当たれば良かったのだ。
そうすれば一番話は簡単だった。彼自身、自分とはこれから無干渉でいることを心がけると言っていた。
これでこの話はおしまいだっただろう。
あれ以来、時々二人きりになると身体をそっと包まれるように抱かれた。そうして唇を重ねられた。
だが…それ以上は望まれない関係だったのだから、どこかで終わりを告げてしまうことだって出来たに違いない。
あの赤い月が空を多い尽くすように光っていた夜も、彼を無理にでも部屋から追い出してしまえば良かった。
気持ちを述べる不器用で優しすぎる言葉を遮って、聞きたくないと突っぱねてしまえば良かったのだ。
最後に身体と心を望まれた時、弱気にならずに毅然と拒否の姿勢を貫いて…冷静になって下さい、どうか私のことはもう忘れて下さい。ともう一度説得してみれば……
そうなのだ。
身を引くタイミングなんて数えればキリがないくらいあったのだ。
それなのに………何故、それをしなかったのだ?
「……出来るわけ、ないじゃない…………。」
…………嬉しかったのだ。
自分のような人間を好きになってもらえたことが嬉しかった。
好きな人に心からの想いを伝えて、応えてもらえたことが幸せだった。
生まれてきて良かったと、生まれて初めて…本当に本当に、心からそう思った。
「好きだったから……」
髪の毛の一本から爪の先まで、全部全部大好きだった。
人を想う、人間らしい気持ちを持てたことが喜びだった。
自分の生きる意味がほんの少しだけ、分かったような気すらしていたのに。
「愛して…いるから……。」
今も。
ずっと。
散漫な言葉を呟きながら、ユーリはゆっくりとその場から歩き出す。
濡れたタイルは冷たく、足をつける度にパシャリと湿った音が黒色の闇の中へと沈んでいった。
ひどく、静かな夜だった。
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