◇伝言→
「顔ばっか殴りやがって…」
ユーリは舌打ちをしながら、切れた唇の端をグイと無理やり拭う。
それでも血液は留まらずに顎へと垂れていった。うんざりとした気持ちになり、ひとつ溜め息をする。
鏡に映した自分の傷付いた顔はひどく情けなく、思わず苦笑した。
「お父さんのお見舞い…行かなくちゃね……。」
そう呟くが、ユーリは彼が寝かされている部屋へ訪れるのを躊躇してしまっていた。
仕事はきちんと終わらせたと言うのに。彼の顔を見るのが怖かった。
自分は…元から身体能力が高く、こう言ったことに関する飲み込みは悪くなかったと思う。
求められる難易度が日毎に高められて行く中で、良くやっていると我ながら考える。
(貴方が良いように……してるつもりなんだけど。)
だが、ユーリの精神と力が安定するほどに、反比例してエルヴィンは不安定になって行くようにユーリの目には写った。
理由は分からない。
だが…自分の存在自体が父親の心を揺さぶり消耗させてしまっていることくらいは、彼女にも理解が出来た。
(それなら……私、ここからいなくなった方が良いのかな。)
そうしたら、彼はきっと……自分のような可哀想な子供をどこからかまた連れてきて、同じように教育するのだろう。
(でも………なんで、そうしなかったのかな。わざわざ私のことなんか探さないで…そしたら、貴方もちょっとは楽だったんじゃない?)
…………やはり、ここからは立ち去れないと思う。
第一に自分の代わりになるその子が可哀想だ。……こんな思いを誰かにさせるくらいなら、死んだ方がマシだ。
(それに…………)
僅かな、本当に小さな希望を夢見てしまう自分が滑稽だった。
ユーリは今一度苦笑しながら、冷たい水を張ったブリキのバケツに雑巾を浸し、キュ、と水気を絞る。
薄い藤色の闇の中を、水は垂直に流れ落ちていった。
…………夜明けが近い。
バケツの中へとしとどに落ちて行く水は、夜の残り香を含む弱い陽の光に反射して、細かい煌めきを辺りに散らした。
「……こんな朝早くに部屋にお邪魔して、悪いですね。」
それを眺めながら、ユーリは呟く。
そして立ち上がり、嘗てのこの部屋の主人へと呼びかけるようにした。
「でもさ……。朝でも…夜でも。いつでもここに来て良いって、ナナバさんは言ってくれたでしょ?だから私、お言葉に甘えますね。」
ユーリは馴染み深い上司の麗しい顔立ちを思い出して心弱く笑う。
そうして硬く絞った雑巾を床板の目に沿ってかけながら、そろりと息を吐いた。
いなくなった大事な人の部屋を掃除してやる度に、ああこれで本当にお別れなんだなあ…とユーリは考えた。
考えていると、部屋の隅に優しい気配を感じる。
いつもの、淡い香水の匂いも一緒に漂ってくるような気がした。気がするだけだけれど。触れることも、触れてもらうことも二度と適わない。
「そっちは……どうです。ミケさんとか班の皆も一緒なんですか…?それなら、賑やかできっと楽しいんでしょうねぇ…。」
言葉を零しながら、黙々と手を動かす。
元よりナナバはきちんと部屋を清掃する習慣があったので、そこまで掃除をする箇所は残されていなかったが。
それでも、ユーリは自室の様子とは打って変わって丁寧にその空間を清めていく。
いなくなった人の部屋を掃除してやるのは、自分なりの儀式なんだと思う。
大事な人が大事にしていた場所を綺麗にして、生きている時にお返し出来なかったことをやったつもりになる、ただの、自己満足。
「…………ナナバさん。今いるところは美味しいものがやっぱ多いんですかね。ここみたいに良い人ばかりだと良いんですけど。ほんと…皆優しくて……優しい人ばっかいなくなるから…なんて言うか。」
ねえ。
呼びかけるようにして、ユーリは顔を上げた。
弱く薄い薔薇色の光が窓から差し込んできている。気が付かないうちに、もう朝だ。
そこを開け放って、ユーリは深呼吸した。光の色と同じように、冷たくて少し甘い匂いが漂う空気が身体の中を満たしていく。
(………………ん?)
背表紙をこちらに向けた本が規則正しく並ぶ本棚の隅へと、ユーリはふ、と目を留める。
深い色合いばかりの書籍の中で、パリッとした白色の袋はよく目立った。
特に理由もなく、ユーリはそれを棚の中から取り出してみる。
(プレゼント……かな。)
袋は白い布製で、淡い水色のリボンが少し凝った結われ方でその口を留めている。
………軽かった。
贈られたものなのか贈るつもりだったものなのかは定かではないが、少しの少女らしさが漂う包装の様子から、どうもそれはナナバのイメージに削ぐわずにユーリは首を傾げる。
何はともあれ、ユーリはそれを元の場所へと戻してやることにした。
だが……元の場所。行儀よく並んだ何やら難しそうな本の脇にはまだひとつ、書籍とは異なるものがポツリと落ちていた。
(……………………………。)
それを見た時、いや…正確にはその封書の表に走っていた文字列の意味を認めた時、ユーリは心臓が止まるかと思った。
「え?」
呟いて、彼女はもう一度室内を見回す。
だが、そこは変わらずに薔薇色の薄い光が差し込むばかりのガランとした空間が広がるだけだった。
ユーリはそれを確かめてから数回瞬きをする。そうして、今一度本棚の隅に転がる…自分の名前が宛名として書かれた封書を、恐る恐るといった体で取り上げた。
ユーリへ
確かに、見覚えのある細長くて上品な筆跡で書かれている。
…………ユーリは僅かに逡巡するが、ついに菫色の横封筒の端を破って中身を取り出した。
数枚ほどの薄い書簡の上には、間違いなくナナバが認めた文章が青いインクで綴られている。
『ユーリへ お誕生日おめでとう』最初の文言がこれである。思わず首を捻る。
記憶する限りユーリは自分の誕生日を人に教えたことは無かったし、自分自身も知るところでは無かった。
だが…とにかく、先を読み進める。
『ユーリのお誕生日を、みんなで話し合って決めました。
ユーリは自分の誕生日を知らないと言っていたので。
毎度班員一人ずつの誕生日を祝ってやるのに、君だけお祝いされないなんて不公平でしょ。
うちの班員もミケの班員も、とにかく何かにかこつけて騒ぎたい人間の集まりなので。
全員乗り気で、ああでもないこうでもないと、ユーリの噂をしながら面白おかしく決めさせてもらいました。』「いや……噂って何。絶対しようもない悪口でしょ。」
ユーリは苦く笑いながら小さな声でぼやいた。
だが今はその軽率な扱われ方も懐かしい。……ああいう風にバカにしてくれる立場の人間も、今は片手で数えられるくらいだ。今はむしろ、自分よりも年若い新入りの人数の方が多いのかもしれない。
『覚えてる?幾年か前の今日、みんなでユーリの部屋に押しかけて入団祝いをしたでしょ。
あれは楽しかった。みんなもそれをよく覚えていた。だから今日にしようとすぐに決まったよ。
ユーリも楽しんでくれていたと私は信じている。
だから毎年君の誕生日が来るたびに、私たちは楽しかったあの日を思い出すことが出来るね。』ユーリはそこで便箋をめくって2枚目へと視線を移す。
薄い書簡は繊細な造りで、ちょっとした力で破けてしまいそうである。だからユーリは、殊更慎重にそれを扱った。
『ちょうど、次の壁外調査が終わる頃だね。
出来る限り手渡しするつもりでいるけれど、もしもということもあるから。
だから手紙を書いておきます。
そのもしもがあって、これを読んでくれた親切な貴方。
どうかこの手紙と傍に置いてある白い包みを、私たちの不安定な天才の元に届けてあげてくれませんか。』……丁寧に扱おうと心がけていたのに、思わず掌に力がこもって繊細な便箋に皺が寄る。
ユーリは自分を落ち着かせる為に、今一度深呼吸をした。
『さて…ユーリ。
これは私からの個人的な贈り物だよ。
女の子が喜ぶものなんてこの世に沢山あるけれど、ユーリが喜んでくれるものを見つけるのは骨が折れると共に、私にとって楽しい作業でした。
でもね、贈るものは何にしようか実はずっと決めていたんだ。
沢山沢山探して、それでこの街の中一番可愛いと思った子を贈ります。
もしかしたら、これは私の願望なのかもしれないけどね。
ユーリにはいつまでも子供らしくいて欲しいと思うよ。せめて私の前では。
ゆっくりと大人になりなさい。
可愛いユーリ。
お誕生日おめでとう。』読み終わったユーリは、そっと手紙を畳んで元の封筒に戻し……ゆっくりとした動作で懐にしまう。それから白い包みの口を留める水色のリボンを解いて、包みを開けた。
中から表れた、真っ白い起毛のクマのぬいぐるみを暫くじっと見つめる。ガラスで出来た彼の瞳もまたユーリのことを捉えていた。
ユーリは静かにそれを抱き寄せて、柔らかい毛並みをそっと頬へと滑らせる。
しっとりとした肌触りのぬいぐるみからは少し甘い匂いがした。その優しい香りが得も言わさず綺麗で大好きなあの人を思い出させて、辛い。
「…………ナナバさん。傍にいてくれるって、言ったのに。」
零した声は掠れていた。瞳を閉じたままで、ユーリは幸せだった日々へそろりと思いを馳せる。
「消えないで…………。」
そうして、静かに脈打つ自分の心臓…の上の皮膚の様子を思い出した。……ここを見た時の、心優しい上司の顔が忘れられない。
白いぬいぐるみからは、お日様のような匂いもした。とても懐かしい気持ちになる。
出来ることなら、あの頃に返りたかった。
…………戻りたい。
優しい人たちに囲まれて、愛しい人が隣にいてくれたあの毎日に。
戻りたい…………。
ユーリは、そこでゆっくりと顔を上げた。
そして薔薇色の空の向こうに灰色に浮かび上がる壁を眺めながら、目を細める。白い月は霞に隠れながらも、まだ仄かに光っていた。
「…………そうだ。私、いつもナナバさんに見守ってもらってた……。」
呟きながら、ユーリは抱き上げた白いクマのぬいぐるみをそっと掌で撫でる。
愛情が形として残されるなんて堪ったものじゃないと思っていたのに、いざこうして受け取ってみると…嬉しくて、切なくてそれで幸せで……でもやっぱり辛くて、どうしようもない。
「私は…気付いていないだけで、すごく沢山の人に大事にしてもらってたんだね……。」
今一度ユーリはぬいぐるみをぎゅっと抱き直してその艶やかな毛並みに口付けた。
つぶらで黒いガラスの瞳を覗き込めば、そこには相変わらず長い前髪で覆われた自分の顔が写り込んでいる。
「初めまして。貴方のお名前は、なに?」
尋ねると、ぬいぐるみはなんだか困ったようにする。ユーリは「そっか、そっかぁ」と面白そうにしながら呟いた。
「今日はね、私と貴方の誕生日なんだよ。」
夜明けの光が窓の外、森の上に拡がって露の草原には虫が鳴いている。
良い季節だなと思いながら、ユーリはぬいぐるみを抱いたままで掃除道具をまとめ、その場から歩き出す。
彼女が立ち去り、無人になったナナバの部屋には細かい光の粒がディアマントの窓から降り注いでいた。
きっと明け方の空の下、鋭い霜の欠片が風に流されてサラサラ南方へ飛んで行くのを、朝日が反射しているのだろう。
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