◇対話→
部屋に帰って窓を開け離せば、冷たい夜の空気が室内へと流れこんで来た。
ゆっくりと眼下を見ると、黒色の土一面に白い花弁が降り積もっている。
………やはり、この花の季節はもう終わりらしい。
熟れた果実のように色濃い芳香が青い夜風に乗ってここまで運ばれてくる。
最後の命を燃やし尽くすような、強く鮮烈な香りだった。
ユーリはそっと呼吸をしてそれを身体の中へと取り込み、瞳を細めた。
白く円い月から光が糸のように細く垂れてくる。薄い雲が滑るようにその周りを漂い、月明かりを銀色に反射した。畝って胡散して、ただただ雲は風に運ばれて流されていく。
ユーリは窓の下に広がる白い花々と…その近く、ミケの掌の在り処を見下ろして弱く笑った。
「ね、今夜は一緒にいても良い?」
そうして小さな声で呟く。
「なんだか、寝たくないの。」
返ってくる筈もない彼の答えを待たないで、ユーリはそこへと向かって歩き始めた。
*
しかし、そこには先客がいた。
夜も更けたこの時刻、しかもこんなおかしな場所で人に出くわすとはユーリも思っていなかったので…少し驚いて、身を強張らせる。
その人物が誰なのかはもう理解していたので、出来ることなら踵を返して部屋に帰りたかった。
だが、彼の方もまた自分の姿を認めてしまっているらしい。じっとこちらのことを伺っているのが、気配で分かった。
ユーリはちょっと肩を竦め、仕方ないと腹を括って父親の近くまで歩を進めた。
まだ少し湿っている前髪を耳にかけて「おこんばんはァ」と如何にも軽薄な態度で挨拶をすれば、彼は露わになった娘の顔を認めては目を細めた。そうして挨拶には応えずに「やはり…」と小さく呟く。
その言葉の意図するところが分からず、ユーリは少し首を傾げて自分よりも随分と背の高いエルヴィンのことを見上げた。
銀色の月光に照らされた父親の顔は一段と青白くなっており、白い石でできた彫刻のように無機的で美しかった。
「…………怪我、大丈夫ですか?」
一応訪ねて、彼の白いシャツの右袖へと視線を移す。それは弱い夜風に煽られて、如何にも心細い様子で棚引いていた。
エルヴィンは薄く笑って、娘と同じように自分のそこを見下ろす。
「父親がこれだけの大怪我をしたと言うのに、お前は見舞いにも訪れないんだな…。」
ポツリと呟かれるので、ユーリはキョトンとした表情で「え?」と聞き返す。
「………そういう冗談言う人でしたっけ、貴方…?」
そう言ってユーリはエルヴィンの顔をじっと見るが、彼は最早娘のことを見てはいなかった。
ユーリはそっと表情を和らげ、小さく言葉を零す。
「私が顔を見せないことが、貴方にとって一番のお見舞いだと…気を遣ったんですよ。」
「そうだな…。」
視線が交わらないままで、親子の会話は進んでいった。
「こんなところで何してるんです…。冷たい夜風は身体に触るでしょう。」
「ああ、寒くてしんどいな…。ここは。」
「屋内に返ったらどうです。」
「いや、まだ用事が終わっていない。」
「用事。」
「そうだ…用事がある。お前に。」
そこで一拍を置き、エルヴィンは言葉を続けた。
「だから、ここで待っていた。」
彼は遠くの方を眺めながら、呟くようにして言う。
「ここで……?」
ユーリは彼の言葉の一部を繰り返して小首を傾げるが、やがて「ああ、」と合点がいったように声を上げた。
「だから貴方、私のこと無視しないでくれたんですねぇ…。」
「……どう言うことだ。」
「貴方が私とまともに会話してくれるのは用がある時だけでしょ…。でもそれでも嬉しいですよ、私団長と話すの嫌いじゃないんで。」
ユーリは明るく笑って斜めに父親のことを見た。……いつものことながら、彼は笑顔に応えてくれることはしなかったが。
「で、用事はなんでしょ。言っておくけど私、貴方に怒られるようなことは何もしてませんよ?」
「本当か?」
「ほんとほんと。すごくほんと。」
「………………………。」
「うん…心当たりが無いワケじゃない…けど、バレてない筈だよ?」
あはは、とユーリは誤魔化すようにして笑った。
エルヴィンはひとつ溜め息を吐き、緩やかに頭を振る。
当たり前だが片腕の損失が相当に堪えているらしく、その横顔には色濃い疲労が浮かんでいた。
「何も……。俺のお前への用事が、叱責を与えることだけとは限らないだろう。」
そして囁かれた言葉は随分と小さい。ユーリは「そう?」と気の無い返事をした。
「…………それもそうか。」
そして言葉を重ねては、(それじゃ、やっぱりお仕事の用事かぁ………。)と思ってハァ、と溜め息を吐く。
エルヴィンはユーリの予想通りに、スラックスのポケットからふたつに畳まれた紙を取り出しては渡してくる。
「読んだら……覚えて、燃やせ。」
ユーリはそこに視線を落としたままで頷いてそれを了承する。
そうしてすぐに自身の尻ポケットに入っていた湿気たマッチを点火した。
大した面積も無い用紙は跡形もなくこの世から消え去っていく。
「いつ?……今夜ですか?急だけど良いですよ。眠くなかったし。」
ユーリはアチチと燃えカスを掌から急いで離しつつ尋ねた。それにエルヴィンは「いや、」と返事をする。
「今夜はもう休んで良い。」
「……そっか。お言葉に甘えます。」
ユーリは今一度父親のことを見上げては一応の感謝を示す為に笑った。
しかし視線はやはり交わらない。
ので、ユーリはほとんど萎びては強い芳香を放つ白い花々の方をなんとはなしに向く。
そうすると、自分の横顔に父親からの視線が注がれるのが分かった。
何故正面から自分を見ることをしないのだろうか、とユーリは不思議に思う。
ス、とエルヴィンの身体の脇を通ってそこから離れ、ユーリは花弁を黒い土へと積もらせ続ける梢の麓のベンチに腰掛けた。
熟しすぎた花の強い香りの所為で、頭がクラクラとする。
そうしていつかここで愛しい恋人に抱き上げてもらったなぁ、とぼんやりと考えた。
(…………ん、)
ふと元居た場所へと顔を向けると、未だにそこに立ち尽くす父親の姿が目に入った。
彼はユーリのことを確かにじっと見つめていた。
自分と同じ、彩度の高い青色の瞳が月光を受けて濡れたように光っている。
そのまま二人は暫し無言で見つめ合うが、やがてエルヴィンも先ほどのユーリのように濡れた土をゆっくりと踏みしめてこちらへと歩を進めてきた。
驚いてユーリは息を飲む。ヒュ、という乾いた音が喉の奥で鳴った。
だが、エルヴィンは娘の傍には近付かずにやや距離がある別のベンチへと腰掛ける。
その際に、整えられていない彼の金色の髪が夜風に煽られてパサパサと揺れた。
(………………………。)
ひとつのベンチに二人で腰を下ろせるくらいの余裕は勿論あったのだが。
隣り合って座ることは最初から選択肢には無い。それがこの親子にとって自然な距離だった。
青い闇で染まった周囲の景色を、父娘はただ黙って暫時眺める。
銀色の満月は、その関係の冷たさを象徴するかのように白々しい光で二人のことを照らしていた。
「……………………。どうしたんですか団長。怪我人なんだからそろそろベッドに戻ったら如何です。」
やがて沈黙に耐えかねたユーリがこの奇妙にチグハグな時間を終わらせる為に言葉を紡ぐ。
エルヴィンは黒い木立の向こう、遠くに聳える壁を眺めたままで「お前こそ何故部屋に戻って休まない。」と質問を返した。
「……………さっきも言いましたけれど。眠くないんですよ。」
「ここは風が冷たい。寒くはないのか。」
「さあ……。あれ、もしかして心配してくれてます?」
「いや、心配りはしていない。」
「そう。でも私は貴方の体調が結構心配ですよ。今だってこうして仕事のことばっか。夜くらい頭空っぽにして鼻ちょうちんでも作りながら寝たらどうです。」
「……………………………。」
組んだ脚に頬杖をついて父親の方を見れば、エルヴィンは少しの間唇を噤む。
彼はユーリの言葉には何も返さず、チラと萎れかけている白い花々の方へと視線を移した。そうして「そうか、」と呟く。
「お前は…ここから離れたくないのか……。」
彼の言葉の真意が分からず、ユーリは少しだけ首を傾げる。
エルヴィンは微笑みを頬に浮かべた。絵画に描かれるような感情を推し量れない笑い方をするな、とユーリはつくづく自分の理解の範疇から程遠いこの父親に嫌気が差す。
「どういう意味ですか。思わせぶりなことばっか言われても、私バカなんで察してなんかあげませんよぉ。言いたいことはハッキリと言ってください。」
「…………ミケがそこにいるんだろう。」
「……………………。」
だが、いきなりに単刀直入なことを言われるので今度はユーリが言葉を詰まらせてしまう。
ユーリは…暫し、眉根を寄せて父親の発言の意味を捉え直す。
そうして自分の後頭部をクシャリと掻いた。(…………知ってたのか。)とうんざりとした気持ちになりながら。
「報告しなかったのは悪かったと思ってますよ……。でも掌だけですよ、大したもんでもないでしょう。」
「それは別にどうでも良い。些細なことだ。」
「へえ?」
「………………。お前は随分とミケに懐いていたな。」
「そうですね、優しい上司だったので。」
青い闇の中でぽっかりと円く光る月を見上げながら、ユーリは溜め息混じりに言葉を零す。
また、風が吹いて白い花を実らせた梢を揺さぶる。その度に、骨に応えるほどの強い匂いが香った。
ユーリは一度瞼を閉じ、再度開いて空を眺める。そうして意を決したように…再び、口を開いた。
「それに……お察しの通り、それだけの関係でもありませんでしたから…。」
辺りは静かで、自分の声が変によく通った。
父親は特に驚く様子も無いらしい。だが、自分の横顔に注がれる彼の視線が微かに鋭くなるのをユーリは感知した。
「あまり……相応しい相手とは思えないが。」
エルヴィンは淡々と発言した。
だが、てっきり如何にも興味が無さそうな反応をされると思っていたので…まともな言葉が返ってきたことを、ユーリは些か意外に思う。
「一体幾つの年の差があるんだ。それに…それだけではない。お前自身よく分かっているとは思うが、身の程を少しわきまえろ。」
ユーリは黙って父親からの言葉を聞いた。
………彼の口から出て行く言の葉は、いつもと同じように正しく美しい形を描いていた。
「奴は俺たちの、ユーリの…
斧遣いの事情を知っていた。」
だが、ユーリはこの時に初めての奇妙な感覚に見舞われていた。
いやに冷静で落ち着いた気分なのだ。珍しく自分に対して饒舌なエルヴィンを、ついまじまじと観察してしまう。
「ミケは甘い性質の男だった。お前は単に同情されていたに過ぎない。だから……「エルヴィン団長」
ユーリは彼の言葉を遮って発言した。
…………父親が、こちらを見る。この時、随分久しぶりに親子は互いの青色の視線を交えてはその顔を見つめ合った。
「それは私とミケさんの問題です。」
ユーリはエルヴィンの瞳を見据えたまま、ゆっくりと呟いた。
深い青色の夜風が、幾分か隔たった二人の間を弱く吹き抜けて行く。その空虚な音を聴きながら、ユーリは少しだけ目を細めた。
「でも…まあ。彼はもう死んでしまったので。それももう、どうでも良い話ですよね。」
ユーリは無意識に硬くなっていた表情を和らげて、ヘラリとした笑顔を作る。
それに反して、エルヴィンの表情は驚くほど冷たかった。色濃い疲労がその痩けた頬に落ち込んでいるのが、ユーリの胸を弱く痛ませる。
「私は…私の、本当の家族が欲しかったんです。」
ユーリは笑顔のままでそう言って、ゆっくりとベンチから腰を上げた。
そうして夜の挨拶をしてそこから離れようとするが、思いがけず「ユーリ」と父親から呼び止められる。
何かと思ってその方を再度見る。エルヴィンもまた真っ直ぐに娘のことを眺めていた。
似ているな、とユーリはつくづく思った。自分は父親に、父親は自分に本当によく似ている。
「………なってやろうか。」
ややあって、彼がその厚めの唇を開く。
だがその発言の意味が分からず、ユーリはただキョトリとして瞬きを数回行った。
「お前の今の境遇に、同情しないわけではない。」
だがエルヴィンはそんなユーリのことはお構いなし言葉を続けて行く。先ほどの憔悴した表情は既に消え去り、その顔には薄い笑みが描かれていた。
それが得も言われず不気味で、ユーリは思わず息を飲んだ。ぞくりとした感覚が脊椎の奥から這い上がってくる。
額に脂汗が浮かび上がっているに違いない自分とは対照的に、父親の顔は蒼白で涼しげで美しかった。この世のものではないような、そんな妖魔じみた気配すら漂うほどに。
「今夜だけ………。お前が望む父親になってやっても、良い。」
そう言って彼は自分の隣、空いていたベンチの上の空間を視線で示した。
細くなったその目の縁で、男性にしては長めの睫毛が月光を受けて淡く光っている。
「さあ、ユーリ。」
エルヴィンは再度ユーリの方を向き、残された方の掌をそっとこちらに差し出した。
だが、ユーリは動けずにいた。取り繕うことも忘れて目を見開き、自分のことを優しく招く彼の白い掌と甘い青色の瞳を交互に見比べた。
(この人は、一体何を言っている。)
遂に脂汗が頬を伝って顎から一滴垂れた。
それはまるで血の雫が滴るようにして、真っ直ぐに地面へと落ちていく。
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