◇伝言←
ユーリへの手紙を書き終えて、ナナバはふと顔を上げた。
そして掌中のペンをなんとはなしに…手持ち無沙汰に、弄る。
それから脇のベッドで静かに寝息を立てる部下ーー今この手紙を宛てて書いている人物の方へと視線を移し、微笑んだ。
(もう、落ち着いたかな。)
そう考えて、椅子から立ち上がってはユーリの傍へと歩む。それから先ほど彼女が自ら噛んで傷付けた指先を握って、傷を見た。
よく見ると、なんだか似た形の傷がその掌には多い。いや、掌以外にも………
…………引っ掻いたり、噛み付いたり。ただでさえ痕だらけなのに、そんな風に己を傷付けて……よっぽど彼女は自分のことが嫌いなのだろうか。
(嫌うのも、無理ないよね。)
ユーリがどういう場所にいたかなんて別にどうでも良いけど、この身体に刻まれた夥しい痕……。仮にもし自分がこうだったらと思えば、ユーリには悪いけれどゾッとした。
(………可哀想。せっかく大事にしてもらってた、ミケにも嫌われちゃって。)
装置を回収する為に赴いた地下街から無事ユーリは帰還したと言うのに、ミケと彼女の様子は非常にぎこちない。冷え冷えとした空気すら漂っている。
その詳細は分からないが、なんとなく事情の察しは付く。
(ミケとの付き合いは長いし。……ユーリ。君のことは、ずっと見てたから……。)
ユーリの指から手を離し、今度はその金色の髪を梳いてやる。指通りが良い真っ直ぐな髪だ。
僅かに身じろがれるが、それでも彼女は眠り続けている。
微かに聞こえる寝息に耳を澄ませつつ、ユーリの顔を覆うように隠していた前髪をそろりと避けてみた。
先ほど喫茶店のテラスで大粒の涙を流しては、愛することの苦しさを訴えて来た瞳は今は完全に閉じられ、その色を拝むことは出来ない。
その顔を眺めて、ナナバは少し首を傾げた。
初めてまともに彼女の顔を認めたと言うのに、どこかで見たことがある顔をしているのだ。もしくはこれに似た誰かを。
(……………………………。)
ユーリは……胎児のように身体を丸めて眠っていた。
………昔、聞いたことがある。こうやって、膝を抱えて寝る人間は小さい時に愛情を注いでもらった記憶が希薄なんだって。だからそれを補うようにして、自分のことを抱きしめる。
「ねえユーリ……。聞こえる?」
彩度が高い金色の髪の毛を指に巻き付けたり離したりしながら、ゆっくりとした声で彼女の名前を呼んだ。
………返事は無い。ユーリは完全に眠っていた。
「聞こえないか………。変なの、こんなに深く眠る子だったっけ。皆で飲んで潰れて寝た時とか…壁外とか。何回か一緒に寝てるけど、むしろ眠りは浅い方だったよね……?」
ベッドの傍の床へと腰を下ろし、ナナバは心弱く寝息を吐いたり吸ったりしているユーリへと語りかけ続ける。
「それとも……。自惚れて良い?私の傍だと安心してくれるのかな………。」
頬へと指先を滑らせて、彼女の少し高めの温度に感じ入る。
………皮膚がじんと熱くなった。今度は掌全体で覆うようにしながら、ユーリの頬をそっと撫でる。
「ね………ユーリ。毎日不安だよね。特に調査兵なんていつ死ぬか分からないし。……怖いよね。あ、ユーリは怖く無いのかな。天才だし。それとも……もしかしたら別のところに不安がある?」
頬に触れていた掌を今一度頭髪の方に戻して、そこを愛情深い仕草で撫でる。
そうしてずっとそこに触れていると、静かで優しい気持ちになった。
「でもね、私は怖いよ。死ぬのが怖い。死にたくない……。」
頬杖をベッドについて、ユーリが何も応えないのを良いことにナナバは言葉を続けた。
「私が死んで、一体何が残るの……?調査兵にしては少し長生きした歳月相応の討伐数と討伐補助数……それだけじゃないか。私が生きた証なんて、この世のどこにもありはしない……。」
これは兵士になってから、調査兵になってから……ずっと考えていたことだった。
自由の翼に憧れて入団した筈なのに。尊敬する上司や優秀な仲間がどんどんといなくなっていく。
傍にいたのにも関わらず何も出来ないことが沢山あった。いつでも怖くて、でも無力な自分が許せない気持ちが勝ってここに留まり続けた。
……………それで、なんとなく……分隊長なんて大それた肩書きまで持ってしまった。そんなものに自分が見合う筈ないのに。
ユーリが自分の膝を抱えている掌を、そこから持ち上げて引き寄せてみる。
キュッと握って、それを両手で包み込んだ。……白い掌をしている。傷さえなければ、とても綺麗な形をしているのに。
(私は………私の優秀さと、凡庸さを知っていた。)
そこを握る力を強くしながら、ナナバは懺悔するような気持ちで瞼を下ろした。
狭く開けていた窓から、冷たい夜の風がそっと吹き込んでくる。
(なんでも卒なくこなせるけれど……代わりが効く存在だって、知ってる。)
それでも良いと思ってた。大した不満もなく、むしろ長所だと思ってた。
でもここに来て、凄まじいほどの情熱を持った沢山の人間に出会って……段々と、羨ましく思うようになってしまった。
(だって、私は彼らの胸に灯る一瞬の閃光のような美しい輝きを持てなかったから……。)
* * * *
昔から、何でもそれなりに出来た。でも、それなりはそれなり。
だから、周囲の人間の引き裂くような輝きに心を奪われる。……あんな風に、人生の全てを投げ打ってでも行動する情熱が私にもあったなら。
冷静で打算的な自分自身が、彼らの後を追いかけようとする私の肩を掴む。その所為で、いつまで経っても宙ぶらりんで、
それなりだけの人生。
いつしか、壁外に行っても早く帰ることしか考えなくなった。
外の景色も何回か見れば慣れるし、だだっ広い草原が続くだけで何の感動もない。
(ミケやハンジと肩を並べて分隊長なんかをやってく自信だって、本当は全然無かった。)
壁外調査の日は、朝が来なければ良いと思った。
部下を死なせてしまうことも、自分が死んでしまうことも怖くて怖くてしようが無かった。
(…そう……いつも、怖くて仕方なかった………。)
それを表さない術は心得ていたから、そこそこやってはいけていたけれど…。
……………でも、私がここにいるのは間違いだといつしか考えるようになった。
こんな心構えの人間が兵士を務めるのは、あまりにも仲間に失礼だと思う。
もう辞めてしまおうかと考えた。
そう考えていた矢先……ユーリがやって来た。
一目見て分かった。彼女もまた、私が憧れる閃光のような情熱の輝きを持っている人間だ。
そうして彼女は優秀だった。すぐに皆から一目置かれる存在になる。だが…精神が虚弱でひどく人間不信な少女だった。
(だから私は賭けをした。)
この不安定な天才が……私のことを、心から信じてくれるようになったら。
私もきっと、ここで生きていて良いと何かに許してもらえるって。
卑屈にならないで、ようやく胸を張って生きていけるだろうと……。
だから……別に、ユーリじゃなくても良かったんだ。
優しくして、それで甘えられて。私を求めてくれる可哀想な人間なら誰でも良かった。
「ごめん………。」
呟いて、握ったユーリの掌へと無意識に額を擦らせる。
情けない……とつくづく思った。ユーリが先ほどテラスのテーブルで言ってくれた素敵な大人≠ニ、自分はなんて程遠い人間なのだろうか。
思わず目の奥が熱くなるので、必死にそれを堪えた。
こんなことで泣くなんてそれこそ素敵な大人失格だ。格好悪いにもほどがある。
(せめてユーリの前では、ずっと………素敵で格好良い私でいさせて欲しい……。)
深呼吸をして、今一度死んだように眠るユーリのことを見下ろした。
………鼻筋が通って、少し厚めの唇。やっぱり誰かに似ている。それから白くて細い首。そこも引っ掻いたり擦り切れたような傷跡だらけだ。折角綺麗に生まれたのに、本当に勿体無い。
(ううん……。もしかしたら、違うのかも。)
(この痕が…あるからこそ…………。)
そっと立ち上がり…ユーリの隣…彼女を寝かせていた自分のベッドへ、ゆっくりと身体を横たえる。
繋いでいた掌を離すと、またも彼女は自分の膝を抱えるような姿勢を取る。それを阻止する為に再びそこを握り、今度は身体ごと引き寄せた。
大して身体が大きくもない彼女は、私の胸に難なく収まった。
抱きながら…今一度ユーリの金色の髪を撫でて、首筋に顔を埋める。
………ハーブの石鹸の匂いがする。彼女からはいつもこの香りがした。どうやら入団当初にミケに匂いを嗅がれては怪訝な顔をされたことを、ずっと気にして相当丹念に身体を洗っているらしい。
「本当に……好きなんだね…。」
そう呟いて、私はそのままでユーリの首筋にそっと口付ける。
微笑ましい気持ちになって、少し笑った。
(でも………。でもね。本当は…やっぱり、ユーリじゃなきゃダメだったんだって……。今なら、そう思うよ。)
自分が顔をうずめたままの首筋や、袖のないシャツから覗くなだらかな曲線の肩。傷跡が無いところがどこにも見当たらない。
(だって、ユーリはなんだか物語のヒロインみたい。)
…………こういう時は、ユーリの左乳房の有様を嫌が応にも思い出してしまう。
弱く首を振って、それを忘れようとする。
無駄なことだと分かってるし、これで傷が癒えるとは思わないけれど…痛々しいその痕を、ひとつずつ丁寧に触れて撫でていく。
非凡な才能の持ち主なのに、彼女はいつも焦っている。いっぱいいっぱいで、見ていてこっちまで苦しくなる。
多分、ユーリは報われない魂の持ち主なんだと思う。不幸は彼女のことを好きだ。今までもこれからも、辛いことばかりの人生しか生きられない。
それでも、ユーリは一生懸命だ。
だから、頑張れって応援したくなる。………物語の読者みたいに。最後は幸せに…どうかこの子が報われますようにって、そんなことばかりを強く強く考えるようになってしまった。
「ユーリ、お願い。幸せになって…………。」
日々、ユーリが自分たちのことを好きになっていくのが分かって、嬉しかった。
私のこと、本当に大好きになってくれたね。
……私はやっぱり、君みたいな閃光のように激しい情熱は持てない人間だけれど。それでもユーリの魂が私のお陰で、少しでも救われたのなら。私の人生にも意味があるって。確かに……私は生きたんだって…。
「約束したように、私はずっと傍にいるよ。いつでも味方でいてあげる………。」
私がユーリにしてあげられることなんて、こんなことくらいだから。
私は君に希望を託したの。今度こそ、自分自身に恥じない兵士として胸を張って生きていく為に。
だから……どうか。私が君に優しくするのを、許してほしい。
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