◇肯定 1
「ねえミケさん、何ぼーっとしてンの。」
買い出しも一通り終わった頃であった。街中で歩む道の半ばで、どこか一点を見つめて立ち止まってしまったミケへとユーリは声をかけた。
彼は一拍を置いて反応示し、こちらを見下ろす。
相変わらずの「ん、ああ…。」などと言う気の無い言葉を返した後、彼は歩みを再開させる。ので、ユーリもそれに従って隣を歩んだ。
「どしたのミケさん。いつにも増してぼんやりしちゃって。」
「別にぼんやりはしていない。」
「そう?」
「……ぼんやりしてるのはお前の方じゃないのか。」
「え?」
「前を見て歩かないと街灯に衝突するぞ。」
「うぉっっっ!!!ほんとだ、あっぶねぇー…」
ミケが腕を強く引いて自らの方へと寄せてくれたので、幸いなことに正面衝突は回避される。
ユーリはホッとしながらひとつ溜め息を吐いた。そうしてミケも違う種類の溜め息を吐く。
「お前、本当に兵士なのか?あまりにも危機管理が出来ていないと言うか注意散漫と言うか…。」
「それが残念ながら兵士なんですよォ。もし許されるんならどっかでお針子でもやりながら平和に過ごしたいんですが。」
ハハハとユーリは明るい声を上げて笑った。
ミケはそれを聞いて緩く頭を振った後に、お馴染みの薄い笑いを頬に浮かべる。
「ちょっと何鼻で笑ってるんスか、失礼なこと考えてるって分かるんですよ?」
「こういうところでだけ勘が働くんだな、大した奴だ。」
「なんですそれ、私がまるで鈍い人間みたいに言う。」
「鈍くはないが局部的恐ろしく感度が悪いだろう、お前は。」
「おぅ、昼間っからエロい話?」
「あとはもう少し慎しみ深い発言を心がけてもらいたものだ。」
ミケがそう言って呆れたような表情でこちらを見下ろすので、ユーリは反対に上機嫌で見上げ返しては笑う。
彼にこういう顔をさせるのが、ユーリは好きだった。そして彼もまた満更でも無いのだろう。
これは最近分かったことなのだが、どうもミケはユーリが馬鹿なことを言って明るくしている様が好きならしい。
可愛がって…もらえているのだと思う。
そうして愛されているのだろう。これは最近とみに思うことだ。
(やっぱり、物好きだよ………。変な人。)
先ほど自分の腕を掴んでいた彼の大きな掌が、いつの間にか手を握ってきていた。
そこを見下ろして、(よくも平気でこんなことするよねぇ…。)とユーリはそっと目を伏せる。
その肉厚な掌の温度は熱かった。見下ろされる視線もまた熱い。
それを肌で感じ取る度に、静かでいて烈しい彼の想いが骨に応えるほどに身に沁みていく。
…………自分ばかりが好きで、ただの片想いだと思っていたのに。いつの間に自分はこうも愛してもらえるようになったのだろう。
そうして彼に選ばれたのが自分のような人間で良かったのか。隣を歩む人物は、後悔していないのか。それは未だによく分からない。
「ユーリ。」
「あ、はい。」
名前を呼ばれるので、ユーリはボーッとしていた思考を現実に戻して返事をする。
「…………お前、よっぽど街灯のことが好きならしいな。」
「え……?………ってオイ、うおわあぶなっ!!!!」
前を見ていなかった為にまたも街灯に衝突しそうになるので、ユーリは急いで動線を逸らしてそれを回避する。
そして逸らした先で身体のバランスを崩すので、丁度良くそこにあったミケの身体に思わずしがみつく。
…………抱きつくつもりは勿論無かったのだ。咄嗟の自分の行為にユーリは非常に気まずい気持ちになり、「す、すみません…」と謝りつつそろそろとそこから離れた。
「別に謝る必要は無い。」
むっつりとして、ミケはそれに返事をする。
「そ、うですかね。」
「…………………。なんだ、その態度は。」
「その態度って言われても……。」
「余計なことを考えているだろう。」
ミケはユーリの身体を抱き留めてやっていた手を離し、その長い前髪をそっと払おうとしてくる。
ユーリは驚いて彼との距離を取ってそれを阻止した。………ミケは些か不満そうな表情をする。
「そんな顔しないで下さい…。街中ですよ、私はあんまり人に素顔を見せられないんですから…。」
「…………分かっている。悪かった。」
だがそれにしても鬱陶しくて邪魔な髪だな…とミケはぼやくようにして言った。
そして今度はユーリの肩を抱いてまた自分の方へと寄せてくるので、隔たった距離は全くもって元の通りになる。いや、元通りどころか更に近くに。
「ミケさん………。最近なんかスキンシップ過多じゃありませんか…。」
ユーリは彼の素直な愛情表現の数々に上手く反応することが出来ず、若干言葉に詰まりながら小さな声を漏らす。
肌寒い風が先ほどから横切っていくが、ユーリは身体が芯から熱くて仕様が無かった。
「………以前は喜んでいたじゃ無いか。なんだ、嫌なのか。」
「そりゃ、前は…そんな…人前でしなかったし。軽い気持ちで遊んでんのかと思ってたから…」
「軽い気持ち…?」
近過ぎる距離感を保ったままで歩みを再開していた二人だったが、ユーリの発言を受けてミケがまた足を留める。
…………こちらを見下ろしてきた彼の灰色の瞳とバッチリと目が合ってしまう。なんとも含みを持った視線だったが、やはりユーリはそれにどう応えて良いのかさっぱり分からなかった。
「お前はいつもそういうことを言う。」
ゆっくりとした声で、彼は言い聞かせるようにして言葉を紡いだ。
ユーリは彼の低い声を聴きながら堪らない気持ちになった。
年の離れた恋人から瞳を逸らし、石畳の上で弱い陽光を反射している落葉へと視線を落とす。
それでも、彼の熱い視線が自分の皮膚に突き刺さるようにして注がれているのが分かった。
堪らない気持ちになる。
正直勘弁して欲しかった。
嬉しいのだけれど。すごく、嬉しくはあるのだけれど。
「お前の不安な気持ちも分からなくはないが…疑われるのは、正直傷付く。」
「……………分かってるよ。今は…疑ってないし。」
「そうか。」
「でも、よく分かんないよ…。好きな人出来たのも、好きな人とお付き合い出来たのも…初めてだし。」
申し訳なくなったユーリは、ごめんね……。とまた謝る。
この時は、本当にいっぱいいっぱいでどうしようもなかったのだ。
しかし今思えば、あれほどに幸せな時間は無かっただろう。
もっとゆっくりと存分に、彼からの愛情を受け入れていれば良かった。
街路に植えられた落葉樹たちは、冷たい風に煽られてハラハラと赤い葉を落としていた。裸の枝には朱色の実が垂れて揺れる。
幹の色はところどころが白く、昼過ぎの半透明の光にそれが照らされて静かに光る様が眩しかった。
………ずっと視線を落としていた状態からはどうにか脱するが、それでもユーリはミケの方を見ることが出来なかった。
彼がそれを不満に思っているのも勿論分かっている。
付き合う前はむしろユーリの方が彼に懐いて積極的に愛情を表していたのに、今はまるで逆なのだ。
(むしろ、軽い気持ちだったのは私の方なのかな……)
どうせ……捨てられると思ってた。
刹那の性欲の捌け口だったり、都合の良い存在で在ることは慣れていたし、希薄な関係の方が性に合っていて楽だったのだ。
だから本当に軽率に…好きだとか愛しているとか、且つての自分が一番嫌いだった言葉を口にしていた。
それがいつの間にこんなにも深い意味と、重たい気持ちを含むものになってしまったのだろう。
(……………………………。)
……好きだった…。
隣で自分の肩をしっかりと抱いてくれている人物のことが本当に好きで、どうしようも無い…。
だからこそ、どうすれば良いか分からなかった。
まるで年端もいかない少女のように、ユーリは恋愛に対して慎重で臆病になっていた。
自分の肩にあったミケの掌が、そっと髪へと移動していく。
………今日の用事は買い出しだけだったので、いつもまとめている髪は下ろしていた。
彼は何かを思案するように、ユーリの真っ直ぐな髪を何回か指先で梳くようにして撫でていく。
そういうささやかな触れ合いすらも面映ゆくて、ユーリは横目でチラとミケの方を伺う。
今一度、瞳がバッチリと合ってしまった。逸らすことも出来ずにそのままでいると、今度はミケがふいと視線を外して元来た道の方を見る。
何かと思ってユーリも彼が見つめる先を向く。しかしそこには街の日常があるだけで、特別変わったものや気になるものは見受けられなかった。
「なんか買い忘れですか、ミケさん。」
不思議に思って、ユーリはミケへと尋ねる。
彼は自身の顎の辺りに指をやり、髭を撫でては少しの間黙っていた。
そして、「………少し、気になる店があった。」と言葉少なにポツリと言う。
「ああ…さっきからなんか落ち着きないのはそれですか。早く言ってくれれば良かったのに。何のお店です?」
「…………ん、いや…今回の買い出しにはあまり関係が無い。」
「時間あるし良いんじゃないですかぁ?第一買い出しなんてミケさんみたいな偉い人がするもんでも無いでしょ、寄り道くらい許されますって。」
「いや…今回の買い出しは俺の方から希望したことだからな。」
「えぇ、なんでまた。」
「…………………………。」
ミケは黙り込んでは再度ユーリの方を見た。それからまたもお馴染みの人を馬鹿にしたような笑い方をする。
「………ぁん?なんスかその笑い方。」
「いや…。相変わらずお前は肝心なところでの感度が最悪だな、と思っただけだ。」
「はぁ??貴方ねぇ、私のこと可愛がるか馬鹿にするかのどっちかにしてくれません?」
「じゃあ馬鹿にしてやろうか。」
「なんでそっちを選ぶの!!!!」
この野郎、といつものように悪態を吐こうとするが……再三ミケには言葉遣いを改めるように注意されているので、少し我慢をして汚い言葉を飲み込む。
ミケはユーリの不満そうな様子に満足がいったのか、珍しく上機嫌を隠さずにユーリの腕を引いて元来た道を戻って行く。
(…………ほんと。まるで生娘みたいだよ。)
彼との初めての情事の際に言われたことを思い出す。
気持ちの駆け引きに不慣れでは無いと思っていたのに。本気で人を好きになってしまった途端、こんなにも何事にも覚束なくなるなんて。
畜生と思って舌打ちをしようとするが、思い留まる。
上手に気持ちに応えることが出来ないのならば、せめて相応しい人間に…小さなことからでも良いから、変わっていきたいと思ったのだ。
ミケの大きく広い背中を眺めながらユーリは微かにひとつ頷く。
そうして大きく一歩を踏み出して、年上の恋人の隣に並んだ。
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