道化の唄 | ナノ

 ◇会話 4


「……………当然じゃない。」


ややあって、ユーリがポツリと零す。

面を伏せたままのヒストリアはそれに反応することは無かった。

それを良いことに、ユーリは空いている方の手でヒストリアの長い髪を触っては撫でる。指でその場所を梳かれていくのがこそばゆくて、変な気分になった。


「愛したら愛されたくなるのは当然の感情でしょ…。友達も恋人も親子だって。人間同士の関わり合いなんだから、相手の気持ちに寄り添ってやれなきゃうまくいくワケないもんね。」


ユーリはゆっくりと、一音ずつを確かめるようにして言った。やはりその声は少し低くて、妙な艶があった。


「少し、歩こうか。」


彼女はしっかりと握ったままだったヒストリアの掌を引いて、立つように促す。

しかし、顔を片手で覆って涙を流し続けるヒストリアは応じなかった。


ユーリは一度手を離し、今度はヒストリアの肩を抱いて緩やかに立たせてやった。抱き寄せたままで、彼女は無人のテラスから歩き出す。

元来た道を辿り、階段を降りて。青い光が差し込む踊り場を、彼女はヒストリアの歩調に合わせながら静かに歩んだ。


やがて店の外に出ると、遅い時間ということもあってか人の気配は疎らだった。

濡れたような黒い石畳の上に街灯の焔が反射して光っている。

乱暴な走り方をする馬車が二人の脇を通り過ぎるので、ユーリがその後ろから汚い言葉での悪態を御者へと浴びせた。それは当たり前だが無視され、通りには再び静寂が戻ってくる。

やがてユーリはヒストリアの身体から離れ、代わりに空いている方の掌をスと差し出した。


「ほら、鞄持つから。寄越しな。」


彼女のその申し出を、ヒストリアは緩く首を振って拒否した。


「じゃ、代わりに手を繋ごっかぁ。さっきみたいに乱暴な走り方をする馬車が来たら危ないしね。」


ユーリはそう言って、ちょっとだけ笑った。

今度は逆らわずにその掌を握って、ヒストリアは先輩兵士の隣に並んで歩いた。


彼女は特に何かを喋るわけでもなく、相変わらずヒストリアの覚束ない足取りに合わせて緩慢に歩を進めるだけだった。


「足元気を付けてね。ここら辺は石畳の作りが雑で少し転びやすいから。」

やがて川沿いに出るので、遠い街の喧騒に静かな水音が混ざる。

「地面が濡れてて歩きにくくない?滑らないようにね。」

その上に、ユーリが自分を気遣う言葉が重なっていく。


遠いその喧騒の中には、人の声と肉や汗ばんだ皮膚の気配が鬩ぎ合うらしい。街の夜はきっとこれからなのだろう。

だが先ほどからずっと、ユーリの傍は静かだった。


「私さ……この街が好きなんだよね。昔色んなことがうまくいかなくて辛い時、よく公舎を抜け出してここら辺徘徊して…。で、深夜偶然上司に出くわしちゃってさァ。アレにはビビったね。」


その閑寂の中に、ユーリはお馴染みの少し低くて甘い声で言葉を落としていく。

ヒストリアにではなく、川の方へと視線を向けて。

その頭髪には、街灯のオレンジがやはり明るく反射して光っていた。


「まーでも優しい人だからあんまり怒ったりはしなくてね。今みたいに二人で並んで…この道を通って帰ったんだ。その時もこう言う風に街灯がいやに眩しく感じる暗い夜だった。……だから今でもこの時間にここを通りかかると、色々思い出してボゥっとする。」


ユーリの声は一定のトーンで抑揚が無かったが、重なり合っていた掌を握る力は少しずつ強くなっていく。

その時にヒストリアは忽然と…これは、例の掌の人物のことを話しているのだと了察した。なんの根拠も無かったが、確かに。


ーーーーー自分が知っているのは彼の掌だけなのに、その人間にも当たり前だが人生があったらしい。

それを考えると、奇妙でいて堪らない感覚に陥った。


「皆…優しかったよ。誰も彼もがいなくなっちゃったけど。……それでも、私はずーっとその人たちのことを考えてる。」


考えて、いるんだよ………



最後の言葉を繰り返したユーリの微かな声が、尾を引くようにして耳の奥で残響した。

それきり彼女は口を閉ざし、辺りは沈黙に閉ざされた。水音だけが、サアサアと二人の脇を通り過ぎていく。


やがて橋に差し掛かるので、ちょうど真ん中ほどでユーリは足を止める。

少しの間二人は静寂の中を流れていく昏い闇色の河を、ただ眺めていた。



ユーリは、横目でちらりとヒストリの方を見下ろす。そしてひとつ深呼吸をしてから、「ごめん、つまんない話ばっかしちゃって。」と言っては唇に緩く弧を描いた。


「ねえ…ヒストリアは、その友達のことが好きなんだよね。」


こちらを覗き込んで問いかけられるので、ヒストリアは逆に身体を退いて彼女から遠ざかる。

ユーリは距離を詰めてくることはしなかったが、それでも視線はこちらをじっと見下ろしたままだった。


「…………………………………。分からない………。」


たっぷりと間を取ってからヒストリアはユーリへと応えた。ようやく、言葉で。

…………先ほどは否定した気持ちだったのだが。

泣いて怒って、当たり散らして、疲れ果てて。今はもう、ユミルへの自分の想いがどんな形をしているのかよく分からなくなっていた。


「じゃあ、好きだった?」


続けられた質問には、ゆっくりと首を縦に振った。

それでも、確かに好きだったのだ。否定は出来ない。


ユーリは「そ、」と短く相槌を打って目を伏せる。そして「良かった。」と続けた本当に小さな声が、ヒストリアの耳へと辛うじて届いた。


「私馬鹿だからさぁ………。うまいこと慰めてあげられなくてごめんね。でも貴方の気持ちは分かるつもりでいるよ。どれだけしんどい思いをしてるかも。……それは本当に本当なんだ…。」


彼女は橋の桟にレモングラスの鉢を置き、離れていたヒストリアの身体を自分の方へともう一度寄せる。

あまりに自然な動作でそれがなされるので、拒否の意を示す間も無く後ろからすっかりと包まれるように抱かれてしまう。

後ろから回ってきた彼女の腕にはやはり目立つ痕がある。未だ…そのグロテスクな皮膚の様子に、ヒストリアは慣れることが出来なかった。

…………どうやらユーリは後輩がそこを見下ろしていたことに気が付いたらしい。

弱く笑いながら、「大丈夫だよ、これは壁外でこさえた傷じゃないから。…貴方らがこんな風になることは無いから、安心して。」と呟いた。


「ねえー、ヒストリア。でもさ…出来ればこっからいなくなんないでよォ。私貴方らが入団してくれてやっと先輩面出来るようになれたんだから。それにレモングラスの育て方も教えてもらわないと困る……。」


ねえねえ、とユーリは子供が駄々をこねるようにして言う。

ヒストリアが無反応なことがそろそろ寂しくなってきたのかもしれない。髪へとクルクルと指を絡めてきながら、彼女は言葉を続ける。


「他の植物の名前とかもさァ、教えてよ。それから…今日みたいな星が無い空の色はなんて言うのかとか、夜明けと一緒に西へと一斉に飛んでいく白い鳥の名前とか。綺麗なものやことをどう言葉で表すのか、教えて欲しい……。」


ユーリの言葉を聞きながら、ヒストリアは不思議な気持ちになった。

身体も顔立ちも自分よりずっと大人びているのに関わらず、彼女は随分と子供らしい人間のようだった。


(子供らしいと言うよりは、子供そのもの………)


ーーーーーヒストリアのユーリへの印象は、攻撃的な人間、好きになれないの一言に尽きていた。

でも、どうやらそれには幾許かの誤解があったようである。


攻撃的では、無かった。

ウドガルトの城壁のてっぺんで見た彼女の野蛮な闘い方が、見間違いだと思ってしまうくらい。


好きになれるかどうかは…まだ分からない。

遠い昔に見放された哀しさと、裏切られた苦しみが骨の髄まで沁みている今だからこそ、新しく人を愛することが怖くて仕様が無かった。


(そう……。私は、怖いの。)


傍にいて欲しいと心から願って彼女に望んだのにも関わらず、ユミルは壁の外へと行ってしまった。

もう気持ちを裏切られるのは嫌だった。人を信じて傷付くのもごめんだった。


…………水気を含んだ冷たい風が河の向こう側から運ばれてくる。しかし、体温が高いユーリの腕の中は暖かだった。

彼女はヒストリアの髪を相変わらず弄り続けながら、「ねぇー髪綺麗なんだからさ、今度結わせてよ。私そういうのすごい得意なんだけど。ウルトラ可愛く出来るよ?」と空気を読まずに能天気な言葉をかけてくる。


「なんか良い匂いもする……。あれ、ヒストリアの髪からだと思ってたんだけど……ちょっと違う?」


ふと、ユーリがヒストリアの頭のあたりに寄せていた顔を上げて周囲の香りをスンと嗅ぐ仕草をした。

そして「ねえ、確かになんか甘い匂いするよねぇ…」と呟いては辺りを見回す。


「………鼻が良く効くんですね。」


正直ヒストリアには何も臭わなかったので、感心半分訝しさ半分な気持ちで感想を述べた。


「そうでもないよぉ、前の上司に比べたら全然…」


ユーリはそれに適当な相槌を打ちながら、匂いの出処を探る為に周囲を伺っている。

そしてどうやらそれが見当たったらしく、「ああ、」と嬉しそうな声を上げた。


「見て見て、あそこにある花だ。……あの花はもうすっかり散っちゃったと思ってたのに、まだあるんだねえ!」


彼女が指差す方向を見れば…白く細かい花を実らせた樹が、河川の脇で静かに風に煽られていた。

弱く揺れては小さな花弁を散らすので、その一角の石畳だけ雪が降ったように白くなっている。


(ああ、)


ヒストリアもその花のことは良く知っていた。

この季節を代表する花で、強く甘い芳香を持つことで有名だ。

だが時節的に花はもう散ってしまう頃だろう。事実その匂いは弱くなっていて、既にヒストリアが感知できないほどになっていた。


「ユーリさん、あの花好きなんですか?」

尋ねれば、ユーリは「うん。」と迷わずにそれを肯定する。


「大好きな花だよ……。一番好きな花。」


短く付け加えられた言葉は、何かが滲んだようにほんの少しだけ掠れていた。


なんだか急に寒くなったような気持ちがして、ヒストリアはユーリの腕の辺りをそっと触る。


彼女はその意を汲んだらしく、嬉しそうにしながら抱き締める力を強くしてくれた。

しかしその隙間から肌寒い風はやはり忍び込んで来る。二人の寂しい心の中を静かに吹き渡っていくように。


「……………あの花の名前は、知ってます?」


じんわりと熱いユーリの腕の中に身を預けながら、ヒストリアはゆっくりと瞼を下ろしながら訪ねた。

きっと、彼女にとって大切な花なのだろう。名前を教えてあげようと思ったのだ。

………相当に有名な種ではあるのだが、案の定ユーリは「知らない。」と即答した。


(…………………。)


なんというか、彼女は一般常識や教養が足りていない印象を受けた。

勿論日常生活や兵務に支障をきたさない程度には備えられているらしいが、何気ないところがスコンと抜け落ちていて…取って付けたような暫定感が、どうしても拭えない。


そして今一度、ヒストリアはユーリの白い肌に刻まれた腐った果実のように黒ずんだ痕を眺める。

…………壁外でこさえたもので無いのなら、一体どこで…。

そんな風に彼女の人生を考えてみようとするが…なんだか空恐ろしくなって、すぐにやめた。


(苦しくて…寂しいのは、私だけじゃ無いのかもしれない。)


そう考えながら、後頭部に感じるユーリの柔らかな皮膚の奥の鼓動を少しの間数える。若干早めに脈打つのが、やっぱり子供みたいで微笑ましい。


「ねえ、ユーリさん。あの花の名前はね………」


そうして言いかけた花の名は、パッと口元をユーリの掌で覆われたことによって途中で失せてしまう。

何かと思ってその方を見上げれば、彼女はニヤと悪戯っぽく笑っていた。


「言っちゃダメぇー。………この花だけはね、自分でちゃんと調べたいの。」


悪い遊びを思いついた子供のように楽しそうな表情で言われるので、つられて笑ってしまいそうになる。

しまいそうになるだけで、笑うことはしなかったけれど。


………やはりあの花独特の懐かしい匂いは相当弱くなってしまっているようで、ヒストリアにはどうしても感知することが出来なかった。

だが傍に置かれたレモングラスが、爽やかな柑橘の香りを風に乗せて運んでくる。


空気は冷たいけれど、穏やかだった。

残酷な現実をほんのひと時忘れてしまうほどに。

いや…残酷な現実を知っているからこそ、世界の美しさが身に沁みて堪らなかった。


「…………そろそろ帰る?これ以上遅くなると見つかったら怒られちゃうしネ。」

「ほんと怒られるの嫌いなんですね……。」

「あったり前じゃァん。好きな人がいたらそれフツーに変態だって。」


ユーリは明るい声で笑ってから、抱きしめた時と同じようにごく自然な所作でヒストリアの身体から離れていく。


彼女が自分から遠ざかったことによって、身体は急速に空気の冷たさを知覚する。

寒くなって、ヒストリアは思わずユーリの掌を掴んだ。想像通りに暖かいその皮膚の温度に、なんだかひどく安堵する。


ユーリはヒストリアのその行為に少し驚いたらしく、こちらを眺めては数回ほど瞬きをした。

………それから照れを隠さずに、嬉しそうにしてはにかむ。


(ほんと…子供みたい。)



ーーーーー誰も本当の私のことを好きじゃないし、私だって誰のことも好きじゃないと思ってた。


それでも、人間の温もりが嬉しいと思ってしまうのはなんでなんだろう。


もう自分が自分で、全然分からなかった。




ユーリは欄干の上で弱い風に煽られていたレモングラスを再び腕に抱える。やはり、大切そうにしながら。

鉢が薄汚れていて、葉の色も悪いただの草だ。花が咲いている訳でも無い。見るからに魅力の無いこの植物を、何故彼女は選んで自分のものにしたのだろう。

これもまた、考えれば考えるほどに分からない。


ユーリに腕を引かれながら、もう一度闇が漂う夜の中を一歩ずつ歩き出す。

その狭間で点々と灯る街灯の光がいやに目に染みて、眩しかった。



それでも………彼女に育てられるこの植物は幸せものだと思った。


羨ましかったの。


きっと、冬を越せる。


健やかで優しい春が、どうかこの人に訪れますように。


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