◇会話 3
「…………話が、あるんですよね。」
ヒストリアは、紫色の花がささやかに飾り付けられている瀟洒な白いケーキに手をつけることはなく、ポツリと呟いた。
ユーリはチラとこちらへと視線を寄越してから、テーブルの脇に置いた草ばかりの鉢植えの葉っぱをちょいちょいと弄る。
「…………うん。まあ…、なんて切り出したものかなぁ。」
そうして独り言のように呟いて、薄い磁器のカップに満たされた赤色の紅茶を一口飲んだ。
「まずは…そうだね。ヒストリア。」
カップをソーサーの上の戻すと、ユーリはヒストリアの方へと向き直る。
妙に明るくてふざけた先程までの態度とは打って変わって、その佇まいは落ち着いていた。
何を切り出されるのかと、ヒストリアは妙に緊張して彼女の言葉を待った。
「貴方はさ……私の、大切な人の掌をちゃんと持って返って来てくれたじゃない。それのお礼がしたかったの。」
しかし彼女の発言は想像したものとは違ったので、ヒストリアはなんだか拍子抜けをした。
だが、ユーリは長い前髪に隠れたその瞳で確かにこちらをじっと見据えている。視線は肌で感じるほどに、真っ直ぐで強い。
幾許かの間を取って、彼女はその頭をそっと下げる。
ありがとう。
下げたままで、そう零された。
至極小さな声だった。少し掠れた。けれど、真摯な響きをしていた。
…………ヒストリアは、自分が懐に入れて持ち帰った掌のことをなんとなく思い出してみる。
壁上で精も魂も尽き果てた自分を抱き留めたのはユーリだった。彼女がこちらの安否確認もそこそこに、例の掌の有無を鬼気迫る様相で訪ねてきたことは記憶に新しい。
泥と血液に塗れた身体から絞り出された、異様で必死で精一杯な声。
だが茫然自失の状態にあったヒストリアにとって、誰のものとも分からない肉塊のことなど正直に言えばどうでも良かったのだ。
眼前の彼女に手渡してやったかどうかもよく覚えていない。だが既に土気色となっていたあの掌は、どうやら無事にユーリの元に辿り着いたらしい…と、何の感慨も抱かずに考えた。
だからーーーーお礼を言われる筋合いでは無いと思った。
しかし、ユーリを前にしてそんなことを言える訳も無い。
ので、ただヒストリアは話題を逸らすように「あの後…どうしたんですか、あれを。」と呟いた。
「ああ、今?本当はちゃんと調べて家族とかに返してあげたいなあ…って思ったんだけど、どうもその時間も無くて。ホラさ、公舎の裏に白い花がいっぱい咲いてるとこあるでしょ…あそこにね。」
ユーリは銀のフォークでケーキをサックリと一口大に切り出しては唇に運ぶ。そしてこちらにも一言、「食べないの?」と促した。
しかしヒストリアはフォークへと手を伸ばすことをしなかった。
また、辺りはシンとして沈黙する。どこかで河が流れていく音がしていた。きっとユミルがいる壁の外の世界へと続いていく、河の音が。
ユーリは白い湯気が立ち昇るカップから少し紅茶を飲んでから、再び手持ち無沙汰に鉢植えの細い草をちょいちょいと弄る。
そして「ねえねえヒストリアぁ、これなんていう草か知ってる?花とか咲くかな。」と頬杖をついて訪ねてきた。
(なんの植物か知らないで買ったんだ…。)
空気を読まない上っ調子な態度とその発言に、ヒストリアは若干呆れつつ「レモングラスですよ。」とだけ端的に答えた。
「へえ!見ただけで分かるんだ、すごいね…。」
「一応花は咲きますけど。それ、越冬は難しい植物ですよ。寒さにすごく弱いから…」
「ええっ!!冬越せないのぉっ!???」
チクショォー、買って損した………とユーリは頭を抱えて唸り声を上げる。
その様がなんだか可哀想になって、ヒストリアは「まるきり不可能というわけでは無いですけど…」と付け加えた。
「剪定してから暖かい場所を選んで室内に置いてあげれば、「えっそれほんと!??ちょっと詳しく教えて、待って待ってメモする、あっでも今書くものないやっわわ、「落ち着いてください。」
慌ただしく自分のポケットの中を確認し始めたユーリへぴしゃりと言えば、「あっ、ごめん…」と些か恥ずかしそうに謝られる。
「…………今度、ちゃんと方法を教えますよ。」
ユーリが落ち着くのを待って小さな声で言えば、彼女は「わぁ、」と声を上げて表情を明るいものにした。
「ほんと?ありがとう!!ヒストリアは優しいねぇ!」
お礼に食べさせてあげましょうねぇ、とユーリはフォークに刺したケーキをヒストリアの唇の辺りに運んで「はい、あーん。」と楽しそうに言った。
…自分で食べられます、とヒストリアはそれを拒否してはようやく自分のケーキにフォークを入れる。
その際にクリームの上に乗せられていた菫の花弁が一枚、白く冷たい磁器の皿の上に落ちた。
無言のままで口に運べば、春を食べているような気分になる程色濃い花の香りが口の中に広がる。美味しくて、少し驚いた。
「なんでレモングラスなんか買ったんですか。見たところ料理とかするタイプでも無いですよね…。」
そのままで問いかけると、ユーリは「料理?」と聞き返してくる。
「レモングラスはハーブとしてよく使われるので。」
「へぇ、それなら料理しようかなぁ。折角だし。出来たら食べてくれる?」
その問いかけには悪いとは思ったが無反応を貫かせてもらった。
………正直、彼女の手料理は食べたく無かった。なんというか、とんでもない味になるのが目に見えている。
しかしユーリは特にそれを気にした様子もなく、「まあ……」と言葉を続けた。
「これは前に上司にも言われたんだけど、私って選ぶの苦手なんだよね。この鉢植えにしたのも…なんかお店の隅っこに置いてあって、可哀想だったから…。」
そりゃそうか、冬を越せないんだったら店先からは避けられるよねぇ…とユーリは心弱く笑った。
「植物が好きなんですか?」
ヒストリアの質問に、ユーリは「うーん…。」と少し考える素振りをする。
…………さっきよりも、言葉が口から出て来やすくなったような気がした。
それは彼女独特の篤実でない軽い性質のお陰かどうかは分からなかったが。
だが、慰められたり気を使われたりするよりは楽だった。目の前のケーキや紅茶の味に集中していれば良かったし。ケーキは、美味しかったし。
「うん…。好き、かなァ。あんまり詳しく無いけれど。だから簡単そうなものから育ててみようかなーって…。」
彼女は応えながら、清涼な香りを微かに漂わせる真っ直ぐな葉っぱをずっと弄っている。
頬杖をついたままクルクルと草を指へと巻きつけるその様子を眺めながら、ヒストリアは何とは無しにこのレモングラスの越冬は成功するかもしれないと考えた。
この人の性質は、見た目やその所作とは少し違うようだったから。……多分、情に厚い方なのだと思う。植物や動物を育てる上で、一番大切なことを行うことが出来るに違いがない。
(………私とは、違うから。)
くしゃり、と胸の奥で小さな音が鳴った気がした。卵がひとつ床に落ちて破れたような、些細でいて取り返しがつかない空虚な音が。
覚えがあって、馴染み深い感覚である。自分の虚ろな内面に向き合わなくてはいけない度に、いつもこの気持ちを味わってきた。
それを堪える為にヒストリアは思わず面を伏せる。伏せたままで、ポツンと呟いた。
「私は……別に、優しくないですよ。」
風が、街の方からオレンジ色の燻んだ光を運んでくるのを肌に感じた。
ユーリは頬杖をついたままでヒストリアの言葉の意味を思案しているらしい。そして「ああ、」と何か思い当たったような声を上げた。
「例の巨人の友達と喧嘩した所為で元気が無い?」
「…喧嘩……。」
「まあ、私は詳しい事情は知らないしよく分かんないけど。それでもヒストリアがすごく落ち込んでるっていうのは、貴方の同期たち…友達から聞いたよ。」
皆、ヒストリアを心配しているよ。と零された先輩兵士の月並みな発言には応えることをしなかった。
ただ、顔をゆっくりと上げて彼女の派手な髪色の向こうで揺らめく街灯と、それに照らされた黒色の建物たちを眺める。
彩度の高い金色の髪に反射した橙は、毒々しくてあくどい色をしていた。
「別に、喧嘩はしてません…。」
ヒストリアが呟けば、ユーリは「そう?」と相槌を打った。
「私が…一方的に置いていかれただけ……。」
テーブルの上に置いていた掌が先ほどのように震えることは無かったが、声は微かに震えていた。
ユーリはじっとしてヒストリアの小さな声に耳を傾けていたが、やがて冷たい風に晒されていた手の甲へと掌を重ねてくる。
…しかし、ヒストリアはそれを避けた。ユーリは大人しく従って、もう皮膚に触れてくることはしなかった。
「じゃあ追いかけたら?」
ユーリはヒストリアに拒否されて行き場を失った掌で、磁器のカップの薄い縁をなぞる。濡れていたらしく、微かで細い音がそこから上がった。
ヒストリアは、それには首を横に振って緩い拒否を示した。
ユーリはちょっと溜息をしてから、なんだか困ったように笑う。
「大丈夫だよ、鎧と超大型の子らに彼女は連れて行かれちゃったんでしょ?私たちも今は奴らを追いかけている最中なんだからさぁ…この兵団にいれば会える確率は高いじゃんか。」
「会う………。会って、一体…何を………。」
「そこは貴方らの問題だから私には分かんないなぁ。まあ……とりあえず一発殴ってバカヤローとでも言ってみたら。」
ヘラヘラと笑いながら彼女は軽口を叩くが、ヒストリアが全く笑わなかったので「ごめん」と素直に謝った。
そして少しの間沈黙するが、やがて遠慮がちに再びその赤い唇を開く。
「………そうだね、しんどいよねえ。好きな人に置いていかれちゃうのは。」
分かるよ………。
そう言って、ユーリは笑みを心弱いものにした。
しかし、ヒストリアの応えはやはり首を横に振るだけに留まる。
ユーリはいよいよ弱った表情になるらしく、それに伴って小さな溜め息を漏らした。
「まあ…知ったような口を効くなって感じかもしれないけれど。あんまり後ろ向きにならないでさァ。すごく仲良しの友達だったんでしょ?きっと仲直りでき「そういうことじゃないの!!!!」
そんな彼女の言葉を遮って、ヒストリアは悲鳴に似た声を喉の奥から絞り出した。
…………色々と、限界だったのだ。それがよりによって今、堰を切ったように堪えきれなくなってしまった。
当たり前だがユーリは驚いたらしく、「わ、」と声を上げる。前髪の奥の青い瞳が見開かれるのが分かった。
だが、ヒストリアはそんな彼女への気遣いも礼儀も忘れて発言を連ねていく。
自分が自分で制御できないことが悔しかった。己への嫌忌が、より一層の苛立ちや怒りを心中に募らせる。
「そ、そういうことじゃないの!!!!私はもう、ユミルのことなんか追いかけていかないし…好きでも、なんでもない………っ!!!!!」
ヒストリアは今度こそ震え出した自分の右手を左手で抑えて、爪を立てた。
銀色のフォークを握ったままになっていた自分の白い皮膚に弓形の窪みが深く刻まれていく。
………それに気が付いたユーリが息を呑む気配がする。そしてすぐにヒストリアの左手を握ってそこから遠ざけ、その軽い自傷をやめさせる。
「や、やめな。駄目だよ……!」
と零した彼女の表情には、何故か焦りが色濃く滲んでいた。
しかしヒストリアは掴まれた手を振り払って、眼前の善良な先輩兵士を睨みつけた。
……彼女に対しては、恨みも何も無い。だが、今は当たらずにはいられなかった。こんな子供じみた衝動に狩られてしまう自分が許せなくて、本当に嫌いで仕様が無かった。
「だって、ユミルは私のこと置いていって…あいつらの方を選んだんだもん…!!!!!」
だが心と行為はチグハグで、まるでユーリを責め立てるようにして叫んでしまう。
こんなことを彼女に言っても仕様がないのに。何も変わることは無いのに。
涙が頬を伝っていくのを感覚した。
…ユーリはただただ、顔面を蒼白にしながら自分のことを見つめている。
そして、掌を握ってくる力が段々と強くなる。痛いほどだった。だがそれには構わず、その意味すらも考えずに、ヒストリアは苦いばかりの言葉を続けた。
「私は優しくなんかない、良い子でもなんでもない……!!本当に好きでっ…友達なら、ユミルの決断を尊重してあげられるのに………私はもう、ユミルなんかいらないって………、」
強い風が吹いた。冷たい風だった。ユーリの長い前髪が煽られて、その奥に隠されていた鮮烈な青色の瞳が露わになる。それは見開かれて、真っ直ぐに自分のことを見つめていた。
「私のこと、一番に想ってくれないんなら、消えちゃえば良いって…、……!!!!」
その子供みたいに純粋な色をした視線から逃れる為に、空いている方の掌で顔を覆って嗚咽を噛み殺す。
身体が芯の方から燃えるように熱かった。
流れていく涙もまた熱い。皮膚が焼かれて、そこから爛れていくような感覚がするほどに。
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