道化の唄 | ナノ

 ◆囁き


「えー…………。」


今晩二回目の、ナナバの『えー……』である。

その視線の先には、ユーリがぐったりとして机に突っ伏している。その様を数回瞬きしながら観察してから、ナナバは溜め息した。

「…………こういうことか。」


と呟けば、机に突っ伏したままのユーリから「はい……こういうことです」と微かな声で応えられる。


「お酒、正直強くないんですよ。新入りだから確実に飲まされると思って、飲み会は今まで避けていたんです……。」

「そ、そう………。」

「大丈夫ですよ、意識は至極ハッキリしてるんです。ただ、身体が動かなくなるだけで……」

「そんなら悪戯し放題だな、おい天才、顔に落書きして良いか?」

「駄目に決まってるでしょう、やるんならお金取りま………って人の話聞いてます?」


ユーリの真っ赤になった頬には、ゲルガーの手によって猫のひげが付け加えられる。彼はそれが面白くて仕方が無いらしく、「おい天才!にゃんと鳴け!!にゃんと!!!」と言いながら大爆笑している。ユーリは小さな声で「覚えていろにゃん」と呟いた。


「ちょっとゲルガー、飲ませ過ぎよ。」


リーネがゲルガーを嗜めるように言う。ゲルガーはそんな彼女に、「はあ?まだ全然飲ませてねえよ。」と不服そうに返した。


「分量の問題では無い。」


なんやかやと彼らが集まって賑やかにしていた場に、落ち着いた声が通される。

よくよく聞き覚えのあるその声に反応して、全員がその方を見た。酔いつぶれて机に突っ伏しているユーリ以外。


「ユーリ、動けるか。」


ミケがユーリの肩に軽く手を置いて確かめるように尋ねると、彼女は「ええ、大丈夫ですにゃん」と応える。しかしふざけた口調と裏腹に、その声は実に弱々しかった。

尋常では無い顔の赤さは耳や首にまで至っており、明らかに大丈夫ではない。


それを黙って見下ろしていたミケだったが、少しの間の後、その腹の辺りに腕を回して彼女を無理矢理立たせる。

突然のことに皆は固まり、ユーリは苦しそうに呻いた。


「………………。帰るぞ。」


ユーリを支えるようにしながらミケは言うが、尚も彼女は足下が覚束ないようだった。

仕方が無いので、彼はユーリの肩を抱くようにしながら「しっかりしろ」と声をかける。



「大丈夫ですよミケ分隊長、そこら辺で寝かしておけば朝になりゃ元気になりますって。」

「…………。皆が皆、お前のように酒に強い訳では無いからな。もしも………なにかがあったら困る。」

「それなら私が連れて帰りますよ。ミケさんはまだ楽しんでいって下さい。」

「いや………。嫌がっていたこいつをここに連れて来させたのは俺の指示だったからな。一応、その責任を果たすことにする。」


ゲルガーとミーネを軽く一瞥して、ミケはほとんどユーリを抱えるようにしながら歩き出した。

その様を、ナナバが気遣わしげに見つめる。それに気が付いたミケは、「心配するな」と短く言った。


「………俺としても、これが参ってしまうのは困るからな。」

とミケが呟くようにすると、ナナバの心配そうな表情はやや和らいだものになった。

ゆっくりと頬杖をつき、「そうだね……なんせ、天才だもの」と小さく言ってくる。

そうして、黙って再び歩き出したミケの背中に、「酒場を出る前に、ほっぺたのひげも落としてあげなよ」と声をかけた。







「いや…………。ほんと、すみません。」


ミケにおぶられた状態で、ユーリは非常にばつが悪そうに謝罪を述べた。

それに対してミケはいつもの様子で「いや、構わない」と素っ気なく返す。


「重かったら下ろしても大丈夫ですよー。」

「いや………重くはない。」

「じゃあ軽いですか?」

「いや………軽くもない。」

「はっはあ、正直ですねえ。」


ぐったりとしながらも、ふざける元気はあるらしい。

…………どうやら、意識ははっきりしているようだ。駄目になるのは身体だけなのだろう。


ふと………、ミケは、自身の首に巻き付いたユーリの腕を覆う袖の奥に、白い包帯が見え隠れすることに気が付いた。

彼が「腕を怪我をしたのか」と尋ねれば、ユーリは「ええちょっと。ヘマをやらかしまして。」とへらりとした口調で答える。そしてそのままの気の抜けた口調で、彼の名前を呼んだ。


「ミケさんー。」

「…………なんだ。」

「今夜は月がすっごい綺麗ですねえ。」

「………そうか?」

「そうですよ。」


ユーリに言われ、ミケはゆっくりと空を見上げた。

石鹸の泡のような円い形をした、白い月が浮かんでいる。

しかし彼はとくに大した感慨を抱くこともなかった。故、ただ気の無い言葉を返すに留める。


「ねえミケさん。」


しばらくすると、またユーリが声をかけてくる。彼は同じように気の無い返事をした。


「………貴方、私のこと苦手でしょう。」


しかし、次にユーリの口から出た発言に少々驚いて喉をつまらす。

彼は何も答えられずにいたが、構わないらしくユーリは言葉を続けた。


「良いんですよ………。貴方、私がどういうとこにいたか知ってますもんね。」

「………………………。」

「でも………、ミケさん、貴方は寡黙な人だから、このことを誰にも話さずにいてくれてる。」


…………ユーリは、酔っているらしい。改めてそんな感慨をミケは抱いた。

彼女はいつもよりも数倍饒舌に、止めどない台詞を並べていく。


「優しいんですよねえ、たかだか酔っただけなのにわざわざおぶってくれて。」

「歩かせるよりは抱えてしまった方が俺も楽だからな。」

「それとも、なにか見返りを求めているんですか。」

「…………戦績と日頃の働きで返してもらえればありがたい。」

「貴方みたいな人が………、この世にいることが不思議で仕様が無いんですよ私は。貴方だけじゃない、ナナバさんやここの人たち皆。何故なんの目的も無く気遣ってくれるのか、優しくしてくれるのか。真意が分からなくてとても不安になります。」


ミケは、溜め息をついた。そして一言「…………。お前、随分と生き辛そうな思考をしているな。」と零した。

零した後で、当たり前か、と思った。そうして、彼女が暮らした薄暗い劇場のことを思い出す。未だ、背負った少女からはそこの匂いが漂っている。それがミケにはひどく痛々しかった。


「………人間は、打算ばかりが理由で動く訳では無いだろう。」

「では…なにが理由で…………。私、なにも返せません。もうなにも奪われたくないんです。だからなにも返しません。返しませんよ…………。」

「………もう考えるな。それはお前の精神を摩耗させるだけだ。」


ユーリが黙るので、ミケも言葉を切った。そうして、こんな時に明確な答えを示してやれない自身の不器用さを少し、歯痒く思った。


「ほんと……。優しいんですよね。」

「……………………。」

「それに………私のこと苦手な癖に、冷たくしないでいてくれるんですね。」

「……………。冷たくされたいのか。」

「いいえ、冷たくされたくないです……………。」


心無しか、ミケの首の辺りにしがみつくユーリの腕の力が強くなる。…………心無しか、ではなかった。確実に強くなって、きつい程の力で彼女は、ミケの身体に捕まっていた。


「優しくして下さい……………。」


本当に、小さな声だった。しかしミケの耳には届いた。だが先程と同じように、彼はなにも答えてやれなかった。

そのままで、ミケはユーリが綺麗だと言っていた月を再度見上げた。とくに変わったこともない、いつもの月である。これが、彼女にはひどく美しく感じるらしい。


(月すら、満足に見ることが出来なかったのだろう。)


ミケが、得体の知れない新入りに対して不気味以外の気持ちを抱いたのは、この時が初めてだった。


哀れ≠セと思った。


それが、ミケがユーリに抱く気持ちの始まりであった。


背負っている所為で、ミケから彼女の表情を伺うことは出来ない。

泣いているのだろうか。笑っているのだろうか。


(いや……元より、こいつの表情は前髪の所為でほとんど分からないんだが。)


それに思い当たり、ミケは「ユーリ………。お前、前髪を少し切ったらどうだ。」と呟いてみた。


「いきなり、どうしました。」


背中から、ユーリがおかしそうにしながら応える。

ミケはむっつりとして、「長過ぎて邪魔だろう。それに見ているこっちがうっとうしくなる。」と返した。


「……………。なんだかミケさんは、お父さんみたいですねえ。」


それには、しみじみとした言葉が返された。

ミケはなんだか呆れた気持ちになる。相変わらずしゃぼんのように真っ白い月を見上げて、「俺はお前の父親ではない。」と至極当たり前の事実を述べる。


「ふふ、知ってますよ。」


ユーリの言葉には、先程のような弱々しい響きはもう無かった。

いつものように、不適で人を食ったような声色をしている。


「でも、貴方が私のお父さんだったら良かったのに。」


また、小さな声だった。

小さいながら、その言葉はどういう訳かミケの気持ちを堪らなくさせた。


ミケはユーリを背負い直し、「もう、寝ろ」とだけ言った。

それには、酔っている所為か幾分舌足らずな「はあい。」という返事がなされる。

「寝ろ。」とミケは今一度繰り返す。


(寝て、全部忘れろ。………束の間でも。)


ミケは自分の気持ちを言葉にすることに長けていない男だった。

故、彼の思いがユーリに伝わることは無い。それでも………彼女は嬉しかったのだろう。


「ありがとうございます」


ほとんど溜め息のような声が、ミケの耳元で囁かれた。

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