何か、大切なものを忘れている。
ずっとずっと昔から、そんな感覚が胸の内にはあった。
とても温かで、とても悲しくて、とても優しい、私の大切な―――
「兄さん、遅刻してしまうよ」
ジャンの朝の支度は相変わらず長い。
女性の自分よりも時間をかけて一体何をしているのかジョゼにはさっぱり分からなかった。
「兄さーん....」
洗面所に立つジャンの後ろから顔を出す。鏡に似た顔が並んで映った。
「.....なあジョゼ」
ジャンと鏡の中で目が合う。
「お前、昨日の夜どこ行ってたんだ?」
「え.....」
自分の顔にじわじわと熱が広がっていくのが分かる。
「いや.....」
駄目....。こんなんじゃまるで悪い事しているみたいじゃない....
それでも思い出してしまう....。あんなの...初めてで....。
「......何かあったのか?」
「....ううん、何も....。」
そう言いながらジョゼはジャンの肩にゆっくりと頭を預けた。
「.....?おい、どうした」
「..........。」
「お前耳まで真っ赤だぞ?朝食に何か変なもの食ったのか?」
「違うの....。本当にこればかりはどうしようもないの....。」
「そうか....?まだ熱が引いてないなら無理して登校しなくていいんだぞ」
「大丈夫.....。でも、もう少しこうさせてて....」
「......あぁ」
ジョゼはジャンの体を後ろからそっと抱き締めた。
.....兄さんは、昔からずっと優しかった。いつも私の事を気遣ってくれて....。
くじけそうな時も沢山あったけれど、兄さんの隣にいる事実が何度でも私を奮い立たせてくれたから....
もう一度、兄さんの妹に生まれる事ができて本当に良かった。
「兄さん、ありがとう....」
「ん?お、おぉ....」
「本当に....ありがとう.....」
*
記憶を取り戻してみると、いかにこの世界が幸せに満ちあふれているのかが分かる。
.....朝、目を覚ますのが嬉しかった。
兄さんと一緒にご飯を食べれるのが嬉しかった。
こうして肌に触れられるのが嬉しかった。
それに、気付けた事が嬉しかった。
今日は、人生で一番幸せな.....
「ジョゼ、待たせたな。」
ジャンが部屋から鞄を持って出て来たので、ジョゼは淡く笑ってそれを迎えた。
「.....兄さん、あんなに頑張って髪を整えていたのに、またタイが曲がってしまっているよ」
「お、おう悪いな」
ほら、と言ってタイを直してやるとジャンは照れた様に笑う。
この笑顔がジョゼは大好きだった。
「.....兄さんが私の兄さんで本当によかったよ....」
思わずジョゼはぽつりと呟く。
「なんだよまた....」
「ううん、何でも無いよ....さ、行こう....」
ジョゼが手を差し出すと、ジャンはゆっくりとそれを自分の掌で包み込んだ。
私は兄さんの傍にいたい....。これからも、ずっと.....。
*
ジョゼは教室の前で立ち止まっていた。
......正直、マルコにどういう顔をして会えばいいのか分からない。
朝になってから昨日の事を思い出すと、より一層恥ずかしくて恥ずかしくて....こうして扉の前に立ち尽くすしかないのだった。
「あれ、おはようジョゼ。」
「ひぇっ」
......まさか後ろから来るとは....!!
.......駄目....もう声を聞いただけでおかしくなりそう...!!
たまらなくなったジョゼはその場からあらんかぎりのスピードで逃げ出した。
「.....おい!どうしたんだ!?」
後ろから声が追いかけてくる。
「待てって!!」
......待てない!!だって、声を聞くだけでこんなにも.....
あぁ、どうしよう....!好き過ぎてどうしよう.....!!
「おいジョゼ!!」
地下にある図書室の前まで逃げてきた辺りで、ようやくジョゼはマルコに捕まった。
朝の図書室は静まり返っていて、二人の荒い息づかいだけしか聞こえなかった。
「.......何で逃げるんだよ!!」
肩を思いっきり掴まれる。.....そこで初めてジョゼは、とても悪い事をしてしまったと気付いた。
そうだ、私たちは一昨日までずっと互いから逃げ合っていて...昨日ようやく気持ちが通じたところだったのに....
それでも、彼の顔が見れなかった。
こんな気持ちは初めてで、どうしたらいいか分からなかった。
好きな人に想われ、また想える事が、この上なく幸せで....
「......何でこっち向いてくれないの....」
「....ご、ごめんなさい。だって.....」
もう...言葉にならなかった。顔にどんどん熱が集まって行くのが分かる。
「.....ジョゼ....顔が....。もしかしてまだ熱が....」
「.......き。」
「え......」
「好き....大好き......」
.....もし、周りが騒がしかったら聞き取れなかっただろう。それ位ジョゼの声は小さかった。
「.....マルコの事が大好き...。だからどうすればいいのか分からない....」
すっかり赤くなった顔を、ようやくジョゼはこちらに向けた。
眉が寄せられ、熱を孕んだ瞳に、こちらまで胸が締め付けられる。
たまらなくなってマルコは必死にジョゼの体を抱いた。
「......僕も...!僕も好き...。大好き....!!」
「.....う、うん....。」
ジョゼもまた自分の体に腕を回してきてくれた。
「....嬉しいよマルコ....。何度もこういう夢を見た。まさか現実になるなんて....」
「こんなのでよければいくらでもしてあげるよ....。これから沢山...今までできなかった事をしよう...!」
しばらく二人は抱き合ったまま動かなかったが、やがてジョゼは恥ずかしさが再燃し、やんわりと離してくれ、という動作をした。
.....しかし、自分の体に回ったマルコの腕は離れない。
「マルコ....もう逃げないから....。」
「.......本当?」
「本当だよ.....。ずっと傍にいるから....。」
「.....絶対に?」
「絶対に。約束するよ....」
そういうと、ようやくマルコは体をそっと離した。
「ジョゼ......朝礼に、遅刻しちゃうね....」
「え?だって鐘は....」
「地下は鐘が聞こえないんだよ...。たまには二人で遅刻するのも悪くないよ」
「......悪くないかなぁ?」
「行こう。」
彼が手を差し伸べて笑ってくれたので、ジョゼは何も言えなくなった。
この笑顔に、私は昔から弱い。....胸がひどく締め付けられて、苦しくなる。
あの時は、この気持ちの正体が分からなかったけれど、今なら分かる。
彼の手を取り、隣に並ぶ。その頬にそっと口付けた。
「え.....?」
「行こう。一緒に....」
ジョゼは柔らかく笑って、彼の手を引いた。
今度はマルコが耳まで赤くなる番だった。
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