春の夜空は、どこか霞がかっていてぼんやりとしている。
二人は輪郭を星の光に柔らかく照らされながら道を歩いた。
相変わらず言葉少なであったが、優しい沈黙は二人の間に心地よい空気をもたらしていた。
「あ.....」
ジョゼの手がそっとマルコに握られる。
彼が何も言わなかったので、ジョゼも黙ってその手を握り返した。
ひとつに繋がった二人の影が、コンクリートの路に細長く伸びて行く。
やがて二人はいつかの十字路まで辿り着いた。ここを左に曲がると、マルコの家がある筈だ....。
曲がり角にある大きな桜の樹の下のベンチに腰掛ける様に彼が促す。
ゆっくりとそれに身を預けると、ひんやりとした感覚が体を少し震わせた。
そしてマルコもジョゼの隣に、同じ様に腰を下ろす。
しばらく....手を繋いだまま、すっかり葉桜となってしまった大木の隙間から見える星を二人で見つめていた。
「ジョゼ」
マルコが静かに彼女の名前を呼ぶ。
その声は緊張の為か少し震えていた。
「.....僕は....君に返したいものがあるんだ....」
「え.....私は何も貸して....」
しかしその言葉はマルコの真剣な眼差しによって遮られた。
「ずっと借りてて....必ず返すと約束していて....それでも僕は約束を守れなかった...。」
マルコはひとつ溜め息をつく。そしてジャケットのポケットから平たい包みを取り出した。
落ち着いたグレーの包装紙がかさりと音を立てる。
「本物は返せないから....せめて似たものを探して買って来たんだ。どうか受け取って欲しい...。」
マルコはそっとジョゼに包みを手渡す。彼女は困惑した表情でこちらを見つめていた。
マルコが思いついた賭けとは、これだった。
この包みの中のものは....ジョゼとの大切な約束のしるしだ。
もしかしたらそれを見て....思い出してくれるかもしれない....。
逆に言うと、これが駄目ならもう打つ手は無い。大人しく諦めて....彼女との関係を一から築き直そう。
それでも....そう覚悟していても...どこか期待してしまう自分がいる。
どうか....思い出して欲しい.....。
ジョゼ.....!
ジョゼは受け取った包装紙をしばらく困った様に眺めていたが、やがて「....開けますね」と一言了承を取ると、テープを丁寧に剥がし始めた。
包みが開かれ、中から真っ白いハンカチが現れる。
無駄な装飾は一切無く、ただ端にグレーの花がひとつ刺繍されているだけだった。
ジョゼは....その白いハンカチをそっと持ち....ゆっくりと眺めた....。
そして何だか申し訳無さそうな、泣き出しそうな表情をして、もう一度マルコを見つめる。
マルコは、そんなジョゼの様子を見て、心がみるみる絶望に塗りつぶされて行くのを感じた。
.......彼女は分かっていない.....!
このハンカチがなんなのか....全く理解していない.....!!
ジョゼの表情は....困惑と疑問しかない......。
駄目だった....。結局僕の力では....彼女の記憶を取り戻す事はできなかった....!
ジョゼ.....!!何故君は......
僕の事を思い出さずに....また...元の日常に戻って行くというの....?
そんなの嫌だ....。そんなの.....
マルコはそっとジョゼの頬を撫でる。姿形は全く変わっていないのに....何故記憶だけ....
たまらなくなってその体をゆっくりと抱き締めた。
彼女の体がびくりと震える。
....状況を全く理解していないジョゼにとっては、驚くのも無理は無いだろう....。
それでも僕は...思い出して欲しかったんだ...!
でも.....これが現実だ....。
現実....なんだ.....。
「ジョゼ」
マルコはジョゼからゆっくりと体を離して、その名を呼んだ。
「僕は....君の事が好きだよ....」
.....あの時と同じ様に....ジョゼの髪が星の色に染まっている....。瞳に...街灯の灯りが映り込んでいる....。
「マ.....マルコく....」
ジョゼが何とか自分の名を呼ぼうとしている....でも...もうその声も遠い....
「こんな夜に...呼び出してごめん....。送らなくても...帰れる....?」
「う....うん....。」
「そう....じゃあ...また明日....。」
ゆっくりとベンチから体を起こす。
.....我ながら....身勝手な行動をしていると思う....。
それでも....もう今は...ジョゼの姿を見る事も出来なかった。
心は悲しくて張り裂けそうで.....。
だって僕は....何千年もの間、君の面影をただ探し続けて....やっと会えたのに...それなのに....
「ジョゼ.....さようなら」
振り向かずに、一言そう言って自分の家へと続く道を歩き始める.....が、その体は何かの力によって全く進めなくなった。
「え.....」
ふと自分の体を見ると、腹の辺りに腕が回っている。しかも恐ろしい程強い力だ。
「......さない」
ジョゼが僕の首筋に顔を埋めながら囁く。
「さようならなんて許さない....!また私から離れていってしまうなんて.....!
私が今まで何度君の事を夢に見たと思っている....!そしてその度に...何度目を覚まして泣いたと思っているんだ....!」
「ジョゼ......?」
声が震える。彼女の体も震えている。
そよりと風が吹いて、散ってしまった桜の花びらを舞い上げた。
そっと彼女の腕の力を緩めて....向きを変えて見つめ合うと....彼女の柔らかな睫毛に涙が光っていた。
「マルコ....」
あぁ、どれだけ僕が...君にそうやって名前を呼んでもらいたかったか....。
「ごめんなさい....。忘れてしまっていて....本当にごめんなさい....」
彼女の目から涙がこぼれ落ちる。
「....ハンカチを返してくれて....ありがとう...!」
そう言いながら、ジョゼは微かに笑った。
喜びと、切なさと、愛しさと....色々な感情が複雑に混ざり合って言葉にならない。
だから、君の体を強く抱きしめた。
やはり、あのハンカチと同じ優しい匂いがする....。
君への気持ちは僕の中で....昔と比べてもっと強くなってしまった様に思う。
会えない時間が長くなる程、交わした言葉や約束が痛い程胸を掴んできて....
想いが強くなれば、不安や焦りもどんどん膨らんで....
でも、それも全部、こうして君に触れるだけで嘘の様に安らかなものになる。
「君と....こうして抱き合えた日の事が...ずっと私の支えだったよ...」
それは僕も同じだ.....。
「でも...君が居ない現実に戻る度に悲しくて....ありもしない君の温もりを夢見て.....
でも...今やっと本当に.....!!」
またジョゼが泣いてしまう....でも、僕はこうしてずっと君の事を泣かせ続けたんだろうね....。
「マルコ...君に伝えたい事がある....」
ジョゼがゆっくりと僕から体を離してじっと見つめて来る。
涙の中にも細かい星が光っていて、まるで彼女の内側から淡い光を放っている様に見えた。
「マルコ....私は君が好き....。心の底から.....愛しています....」
僕の服をぎゅうと掴みながら言う。ひどく切なくて...苦しそうな声色だ....。
「.....ずっと言えなくて....ごめんなさい....。」
「......ジョゼ...」
「これが言えなかった事だけが心残りだった....」
「.......ジョゼ...!」
僕の目からも....涙が一筋流れ落ちた。
この時を....僕がどれだけ待ち続けたか....。
そうだ....君が隣にいてくれれば、それで良かったんだ....。
それを、記憶が戻らないからといって気持ちを拒否してしまったりして....僕は本当に馬鹿だ....。
「謝るのは僕の方だ.....」
彼女の頬にそっと触れると、嬉しそうに目を細めてくれる。
その仕草のひとつひとつが、心の底から愛おしくて....
「本当にごめん.....」
ジョゼはゆっくりと首を横に振る。彼女の優しさが嬉しくて、辛かった。
今日は本当に星が綺麗な夜だ....。あの時と同じ位.....。
ジョゼの瞳に映る沢山の光を眺めながらそんな事を思う。
そして、その光にだんだん吸い込まれる様にして....ジョゼの唇に自分のものを重ねる。
でも、一回だけじゃ足りなかった。もう一度触れて、噛んで、感じる。何度も、何度も....
しばらくして、ようやく満足した様に唇を離すと、ジョゼは自分の口元を押さえながら困った様にこちらを見る。
照れると耳が赤くなるのはジャンと同じだ。
「嫌だった....?」と聞けば小さく笑って首を振る。
ジョゼは本当に可愛い。出会った時からずっとずっと......。
「でも.....びっくりした。」
彼女が少し怒った様に言う。
「....ごめん、突然過ぎたかな.....」
軽く謝罪すると、彼女が自分の頬を撫でてくる。そしてそのまま自分の唇を同じ様に重ねてきた。
触れるだけのそれを済ました後、「仕返しだよ...」とジョゼは淡く笑った。
僕は何だかもう胸が一杯になって....その体を必死に掻き抱いた。
長くて...辛い道のりだったけれど...君の事を待ち続けて...本当に良かった...!
僕が存在する意味はここにある....確かにあるんだ...!!
また二人が離れてしまう事があっても...今度はちゃんと信じてあげよう....。
君は必ず僕の元に戻って来てくれる筈だから...
ジョゼ、ありがとう。僕の事を愛してくれて....。
本当に、言葉にならない程僕も...君の事を愛している.....。
夜の十字路は二人の息づかい以外何も聞こえず、広い世界にたった二人だけになってしまえた様に思える。
そこにあるのは優しい星の光と二人を包む夜の風、そしてお互いへの強い想いだけだった。
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