ジョゼが目を覚ますと辺りはすっかり薄暗くなっており、朦朧とする意識も手伝って一瞬自分がどこにいるのかさっぱり見当がつかなかった。
(......どの位眠ったのかな....)
体の感覚から、そこまで長く眠っていたわけでは無い様だが、確実に熱は上がってきている。
さっき以上に頭は重く、ぐるぐるとする。更に目を開いていると言うのに辺りの状況がさっぱり掴めない。
がちゃり
(.......誰か入って来た....)
保健室のドアが開く音がする。休みに来た生徒だろうか。
ゆっくりとした足音がこちらに近付いて来る。
.....何故か空いているベットの方へは向かわずに、カーテンが閉まっているジョゼのベットの前でその音は止まった。
(え......?)
視覚がまるで使い物にならない分、聴覚は異常に鋭敏となっている。
間違いない。確かに自分が中に居るカーテンの前にそれは立っている。
ゆっくりとカーテンが開かれる気配がする。
どくどくと波打つ旨を押さえながら、その方向へ必死に目を凝らす。
「兄さん.......?」
暗闇の中で白い男子制服のシャツがやけに目立っている。.....身長と体格はジャンに近い。
微かな声でそう呼びかけてみるとその人物は少し驚いた様に体を揺らした。
.....恐らくジョゼが起きているとは思わなかったのだろう。
「兄さん.....?もう、六限は終わったの.....?」
恐らくジャンが迎えに来たに違いない。ほっと安堵してジョゼは彼に話しかける。
だが、返答は無い。
「どうしたの、兄さん.....。私....今知らない人が入って来たのかと思って不安で....」
ジョゼはそちらの方に寝返りを打って手を伸ばす。
やはり視界はぼんやりとして、暗闇に浮かぶ清潔そうな白いシャツしか今のジョゼには認識できなかった。
「手、握ってもらっても....大丈夫...?」
薄暗さと体の不調も手伝ってジョゼの心には少し不安の影が差した。
また甘えたと馬鹿にされてしまうかもしれないが、今は二人しかいないから問題は無いだろう。
ジョゼの言葉を受けて、彼はそろそろと暗がりから手を伸ばしてジョゼの手をしっとりと包み込んだ。
ひやりとした体温が熱のあるジョゼの体に心地よく流れ込んで来る。
「....ありがとう、大好きよ....」
ジョゼは瞳を閉じながら呟いた。その手がぴくりと震える。
それからジョゼは自分の手を握ってくれた彼の手をそっと自分の頬へと持って行ってあてがった。
よりその冷たさを感じる事ができて、思わずほうと息を漏らす。
「兄さん....もうひとつお願いがあるの....」
ジョゼは目を閉じたまま囁いた。
そうしてゆっくりと自分の半身を起こす。
「私の事、ぎゅうって抱き締めて......」
その要望に少し相手は躊躇している様だ。しかしジョゼはどうしてもジャンに抱き締めて欲しかった。
.......不安だったのだ。色々な事が頭をよぎる。
....やはり、記憶が戻らないのが一番重い痛みとしてジョゼの思考を支配する。
色々の人がジョゼの記憶が戻る事を望んでいる......。
しかし....ジャンだけは、記憶の有る無しに関わらずいつでもジョゼに優しかった。
世界中で一人になってしまった様な、そんな孤独と焦りの中、ジャンだけが今のジョゼの希望だった。
「兄さん....お願い.....」
まだ握ったままだった手をぎゅっと握る。その声は微かに震えていた。
やがて彼の手はジョゼの体にゆっくりと回っていく。
二人の体がぴったりと触れ合い、お互いの体温がじわりと染み出していくのが分かる。
ジョゼは相手の体を掻き抱く様にしっかりと背中のシャツの生地を握りしめた。
首筋に顔を埋めて深く息をする。ジョゼの吐息がくすぐったかったのか少しその体が身じろぐのが分かった。
「ねえ兄さん....」
首筋から顔を起こして、自分のものより少し冷たい頬に、同じ物をそっと寄せながらジョゼは囁いた。
「私ね....この風邪が治ったらマルコ君にちゃんとごめんなさいって言うんだ....
本当に、してはいけない事をしてしまったもの....許してくれないかも知れないけれど....」
ジョゼの事を抱き締めながらも、相変わらず目の前の人物は無言だ。
しかしその静かな温もりが逆にジョゼの心を安心させた。
「......それで...今度こそ、ちゃんと友達になって下さいって言うの....。
....記憶の無い私を私だと思えないなら違う名前で呼んでもらっても構わない.....
だから....、お願いだから.....私の事、嫌いにならないで欲しい.....!」
話しながら瞳に涙が溢れて来るのを感じた。
ジョゼの事を抱く腕の力が少し強まる。
「私はね....今まで兄さんが世界の中心だったの。
それが高校に入って....友達が沢山できて....凄く楽しくて....。
でも、楽しい事ばかりじゃなかった.....。
私の世界に突然やってきたあの人...マルコ君と二人でいる時、凄く胸が苦しくて自分の行動ひとつひとつが不安で....。
それで、逃げてしまった....本当は一緒に居たいのに.....。
こんな気持ちは初めてだよ....。私、どうすれば良いんだろう.....」
そこまで言うとジョゼはもう一度彼の首筋に顔を埋めた。
白いシャツに涙の跡がぽたりぽたりとできていく。
「思い出してあげたい....。皆の為に、マルコ君の為に....。
だから何にも分からない今が辛い....。皆は私に沢山の事をしてくれたのに私は何も返せない....」
ジョゼの体に回っていた手がゆっくりとその背中を撫で始めた。
安心させる様な優しい手付きにジョゼは再び深く、呼吸をする。
「でも....思い出せなくても良いから....今の私なりに...ひとつずつ行動にうつしてありがとうって...ごめんなさいって....伝えたい......。だから兄さん....お願いだから私の傍に......」
背中に伝わる心地良いリズムにより、ジョゼの思考は再び浅い眠りへと落ちて行く。
やがてジョゼはその身を腕の中に委ねながら規則正しい寝息を立て始めた。
*
(...........。)
寝てしまったジョゼをそっとベットに戻した後、マルコはハンカチで彼女の涙を優しく拭き取った。
ジョゼの事が心配になったマルコは居ても立ってもいられず、六限目を途中で抜け出してきてしまったのである。
(僕がジャンじゃないと気付く前に寝てくれて良かった....)
ほっと溜め息をつく反面、ジャンとはいつもああいうスキンシップを取り合っているのか...と複雑な心境になる。
(た、確かに思ったより大きか....違う!そんな事はどうでも良い!!)
肝心なのは彼女が吐露した胸の内だ。
.......本当に僕は駄目な男だ.....。
ジョゼが一番辛い時、いつだって僕は傍に居られない...。
今回なんて手を伸ばせば届く距離にいたのに自分が傷付きたく無いからってそこから逃げて....。
(これ以上、彼女を縛り付けておくのも可哀想だ.....)
もう、記憶が無いジョゼだってマルコは充分に愛しいと思う事が出来た。
さっき彼女が語った自分への想いだって、言葉にならない程嬉しい。
.....それでもなお、記憶を取り戻して欲しいと思うのは、完全なる自分の我が儘だ....
(だから、これで最後にしよう......)
マルコはひとつの賭けを思いついた。
......これで駄目なら、もう彼女を苦しめる様に過去の事に触れるのは止めよう.....。
記憶が無い彼女も、前と同じ位、いや、もっと沢山愛してあげよう......だってジョゼは、こんなにも...
(僕の醜い悪足掻きを、どうか許して欲しい.....)
ベットに横になるジョゼの柔らかいグレーの髪をひとつ撫でる。
熱の所為かうっすらと汗をかいてしまっていた。
.......僕は、やっぱりジョゼの事が好きだよ.....。
君は、目を覚ましたらまた僕以外の誰かとどこかに行ってしまうんだろう....?
僕は時が静止した様なこの瞬間しか、君に触れられないんだ....。
(もう、時間はあまり多くは残されていない....)
本当なら、ジャンの変わりじゃなくて僕自身の目を見つめながら抱き締めてと言って欲しい....。
何千年もの間、君とあの星空の下で抱き合った優しい記憶だけが僕の支えで、幸せな思い出の全てだったんだ。
どうか、僕からまた離れて行ってしまわないで.....。
思い出して欲しい......。
マルコは髪を撫でていた手をそっとずらして頬に沿える様に触れた。
そのままゆっくりと彼女の方へ自分の頭を下ろす。
唇が触れた頬は、しっとりとしていて熱く、まるでそこから溶けてしまう様だった。
六限目が終わったのか、保健室の外は少しずつ騒がしくなっていく.....
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