(……………………。)
洗った掌をハンカチで拭いながら、ジョゼは夕焼けが差し込む廊下をのんびりと歩いていた。
………真っ直ぐ、図書室には戻らなかった。
冬のからりとした空気の中で橙色の光はいかにも澄んで、綺麗である。
その中を今しがた生徒が男女入り交じって五六人、騒々しく笑い興じながら通り過ぎたが、影はまだ往来に残っていた。
(落ち着く………。)
平和な景色である。
記憶を取り戻してからというもの、ジョゼは日常の平穏を感じる度にしみじみとした心持ちに耽った。
幸せな時間である。生きていて良かったなどと大袈裟なことを考えてしまうくらいに。
立ち止まって、並んだ窓の内ひとつから外を覗く。
触れたガラスはひやりと冷たく、冬の気配を色濃く映していた。
…………しばらくそうしていると、隣に誰かに並ばれる。
ゆっくりとその方に顔を向ければ良く見知った親友にして恋人が伺う様にこちらを眺めていた。
「………………。」
「………………。」
暫時沈黙して見つめ合うが、やがてジョゼが「どうしたの?」とマルコに尋ねる。
「いや………。ちょっと」
彼は歯切れ悪く答えた。
そして話を逸らすように「ジョゼこそ…こんなところで何をしているの」と聞き返す。
「うーん、散歩かなあ?」
ジョゼ自身もいまいち自分が何の用事があってぶらぶらしているのか説明出来なかったので、同じ様にお茶を濁すような返答をした。
「そっか……」
マルコは相槌を打ちつつ、先程ジョゼがしていたように窓の外に視線を向けた。彼女もそれに倣って同じように。
空の色は橙から紅に変化していた。
校門を通る人の数は疎らである。赤い光の中で、長い影を緩やかに伸ばして皆家路へとついている。
「あの………」
やがて、マルコがようやくといった調子で声を発した。
ひたすらにのんびりとした気持ちになっていたジョゼは、んー…という気の抜けた返事をする。
「あ、あの……。髪、さ。触っても……良い?」
「…………………。」
ジョゼは要望を聞き届けてからマルコの方を見た。
しかし彼は目を逸らす。………しばし、視線を交えないままで二人は固まった。
「…………………。どうぞ。」
ジョゼは……とくに問題は感じなかったので快く了承の意を示す。
しかしマルコはまだ彼女へと向き直ろうとしない。
……背けた彼の顔の側面、耳や首の辺りが赤くなってしまっているのは……夕日の所為か…それともどうしたものなのか…とジョゼは考える様に顎の辺りに指先をやった。
「………大丈夫。触っても噛み付いたりしないから。遠慮なくどうぞ。」
「いや、別にそういう心配はしていない。」
「そう……。それは良かった。」
ジョゼに促されて、ようやくマルコは姿勢を元に戻して腕を伸ばす。
彼女の髪はやはり柔らかかった。……触れられて心地良かったのか、目を細めている。
その仕草にマルコの心持ちは少し平静を取り戻した。
「……確かに少し、匂いが違う……のかも。」
マルコの呟きに、ジョゼは「君もベルトルトもよく気が付くね…」と感心したように応えた。
「うん…。なんか、女の子みたいな香りがする」
「私は今も昔もずっと女の子だけれども」
「あ、そういう意味で言った訳じゃ」
マルコは少し慌ててフォローをする。
しかしジョゼはあまり気にした様子は無く、むしろもっと触って欲しいのか彼の傍にもう一歩近寄った。
「…………これはね、母さんが買って来てくれた石鹸なんだ。」
ジョゼの色の薄い髪は夕日の中できんとして光っている。
梳いて絡めて、撫でると嬉しそうにしてくれた。
……なんとなく彼女の反応は自分だけの特別のような気持ちがして、マルコは温かな気持ちになる。
「良いと思うよ……。これからも使いなよ。」
「そう……?マルコがそう言ってくれるなら」
「うん。あと……髪もこのまま伸ばしてごらんよ。長い髪のジョゼのことも見てみたいし…きっと似合うよ」
「…………実は、伸ばしたことはあるんだけどね。」
ジョゼの発言にマルコははた、と指先の仕草を止めた。
二人の視線がぶつかって…それから彼女は淡く微笑む。そっかマルコは知らないんだよね、と小さく零しながら。
「じゃあ……伸ばすよ。」
そうしたらまた髪に触ってね。とジョゼは微笑ったままで言った。
マルコは少し目を伏せてから、彼女のことをもう一度見る。
やはり気持ちは幸せだった。……切なさもほんの少しだけ思う所はあったけれど。
「いいよ。………分かった。」
マルコは穏やかに言いながら、彼女の髪を撫でていた掌を頬へと移動させた。
白い皮膚に触れた後、幸せそうにしては「ジョゼはかわいいね」と笑う。
ジョゼはその言葉を受けて非常に照れ臭そうにした。
しかし、どうやら喜んでいるらしい。ありがとう、というか細い声がマルコの耳に届いた。
理莉様のリクエストより
試験勉強をジャンとマルコとベルトルトとする、マルコと抜け出すで書かせて頂きました。
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