病室にはぱちり、ぱちりという乾いた音が響く。
マルコの爪の先が割れてしまっていたことを発見したジョゼが、ついでだから…ということで彼の爪を切りそろえている音だった。
「…………………。」
室内は静かである。
ジョゼは基本的にひとつのことにしか集中出来ない女性なので、作業を始めると極端に口数が減る。
元よりそこまで喋る性質でも無いのだが。
「ジョゼ」
マルコが綺麗に丸く鋏で整えられていく自身の爪を見下ろしながらその名を呼んだ。
んー…だとかいう生返事がなされる。
「………さては調査兵団の忘年会抜け出して来たろ」
そう言った途端、一定の感覚で途切れなかった鋏の音が止む。
「…………………。」
ジョゼは黙ったまま爪切りを再開した。
ああ、これは図星だな。とマルコは確信する。
「確かに今は……調査兵団は忘年会の真っ最中だよ。兄さんや皆も、そこにいる。」
「ジョゼは抜けて来ても良かったのか」
「うん…。もう皆大分出来上がってるから…私がいなくても分からないよ。」
「まあそれもそうか。ジョゼ存在感薄いし。」
「……………。否定はしないけどさ。」
ようやく最後まで爪を整え終えたジョゼがふう、と彼の指先に軽く息を吹きかけた。そのこそばゆさを右手は感覚しない。
マルコは「どうもご苦労様。」と笑って左掌で彼女の髪を撫でる。今度は感じた。相変わらず柔らかくて細い毛質をしている。
「さては寂しくなったんだろ、ジョゼ。」
切り落とされた爪受けにしていた新聞紙を丸めてゴミ箱へと捨てているジョゼに対して、悪戯っぽく声をかけてみた。
ジョゼはマルコの方を振り返って数回瞬きしたあとに「………うん?」と不思議そうにする。
「昔からお前は…大勢で騒いだりするときに皆の中に馴染めなくて、結構苦労していたじゃないか。」
「そんなこと……」
弱気に呟きながら、ジョゼがマルコの傍の椅子へと戻ってくる。
けれど否定の言葉が最後まで語られることは無かった。
……少しの沈黙の後、「そうだね、マルコはよくあぶれちゃった私に構ってくれてたよね」とジョゼが恥ずかしそうに零す。
ありがとう、嬉しかったよ。と礼を述べられるので、マルコは笑ったままでどういたしましてと応えた。
「でも……、今の兵団は…先輩や上官の人も含めて皆すごく優しいから、前ほどは…一人じゃないよ。」
「…………。そっか。」
「うん。調査兵団の皆はとっても良い人だから……私はすごく、好きだな。」
マルコは一瞬返答に窮する。
ジョゼが周りと親交を深められるようになったのはとても良い事だと分かってはいるけれど…なんでなんだろう、と自身の如何ともできない子供っぽい感情に呆れた。
左手を伸ばしてその頬に触ってみる。兄であるジャンも色素が薄く色白だけれど、彼女は輪にかけて白い肌をしていた。
自分との皮膚色の違いがよく分かる。
急に触られたことに驚きつつも…ジョゼは「どうしたの」と尋ねて来た。なんでもないよ、と返す。
彼女は僅かに首を傾げるが、マルコのさせるがままにしていた。嫌では無いのだろう。
「……………でも。やっぱりちょっと、寂しかったかも。」
おかしいよね、大勢に囲まれているのに寂しいなんて。とジョゼがふいに零す。
そして、急に来ちゃって…ごめんね。と若干項垂れるように目を伏せた。
いいよ、とマルコは言う。
未だに掌はジョゼの頬に触れていて、それからまた髪を撫でる。
かわいいな、相変わらず仕様が無い子だな、すごく好きだな、色々なことが胸の底からゆっくりと浮かんできた。
「………いつになく正直だね。」
「そうかなあ。」
「良い事だよ。まあ…元よりジョゼは嘘が上手くはないからな。」
「うん……。嘘を吐くのはいつも兄さんの役目。」
それで私は…、と言いかけてジョゼは口を噤んだ。
………続きを少し待つけれど、遂にその声は途切れたままになってしまう。
彼女の役目は、何だったのだろう。ジャンの傍で一体どんなことを見て、判断して、行動してきたのか。
僕は全部受け入れる準備は出来ているのに、まだジョゼは話してくれない。
どんなお前だって嫌いには決してならないのに、分からないのだろうか。それを思えば辛い。
………でも。まあ……。
「今夜は来てくれて嬉しかったよ。」
なんせ大晦日の晩だ。一人は僕もちょっと寂しい、と場に僅かに張ってしまった緊張の糸を緩める様に明るい口調でマルコは言った。
ジョゼは少しほっとしたのか、照れ臭そうに「……良かった。」と零す。
「でもね、ここに来たのは寂しかったからだけじゃないんだよ。」
やがてゆっくりと離れていったマルコの指先を眺めて彼女が続けて言った。
そして元の位置に下ろされた彼の手に自身の掌を重ねる。
「………色々なことが終って…いなくなっちゃった人もいるけれど、私はここにいて…それでいて変わらずに年が暮れて……
なんだろうねえ……本当に。皆が安心して笑って年越し出来るのがものすごく久しぶりみたいな気がして…とても特別に思うであるから……ああ、うん」
どうやら相変わらず長く話すのは苦手のようである。
思考の迷路に迷い込んだジョゼは天井を眺めて難しそうな表情をした後に、もう一度マルコの瞳をじっと眺めた。
「そう考えたら……マルコにすごく会いたくなったんだ。」
強引に言葉はまとめられる。
彼もまたジョゼの瞳を見つめ返した。………そして、何故か無性に泣きたくなる。
でも悲しくもないのに泣くのは変だし、格好悪い気がしたから寸での所で堪えた。
「そうだったんだ。」
やっとそれだけ返す。
心の内側からは次々と色んな事が先程から浮かんでくるけれど…最後にはやっぱり、生きていて良かったな、ジョゼを好きでいて良かったな、という言葉に収束されていった。
「理由は分からないんだけどね……」
と言いながらジョゼは窓の外を眺める。
青味がちな月明りはまるで夜明けかと思うくらいであった。しかしまだ、ずっと夜である。
「………それは、ジョゼが僕の事をすごく好きだからじゃないかな。」
マルコも彼女と同じ方向を眺めては言った。
ジョゼは少し俯く。横目でそれを眺めると、髪から覗く耳が仄かに赤く染まっていた。
「うん……きっとそうなのかな。恋人同士だもんね。」
か細い声がマルコの耳に届く。
彼女の口からその単語を聞く事が出来たのが、マルコにとっては何にも変え難い喜びだった。
しかしけわしい歓喜とは裏腹に、彼の心は落ち着いている。
大晦日という活気に溢れる特別な夜の中、取り残された様に静かなこの空気の所為だろうか。
もう一度窓の外を眺めて、ゆっくりと瞼を下ろす。
ぽったりと熱くひと雫溢れるが、それは幸いにもジョゼには気付かれていないようだった。
「そうだな……。そんなんだよ。」
マルコもジョゼと同じくらいか細い声で呟く。
重なった掌が少し強く握られた感覚がした。
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