やがて、二人は手を繋ぎ合ったまま小川に出る。
それはなだらかにのんびりと薄墨色をして、静かに流れる程は揺れもしないのに、水に映る影は弱って、ゆらゆらと火の粉の様な光を水面の上で揺らしていた。
(ああ…………。)
確かに綺麗だった。久しく見ていなかった蛍を前にマルコはしばし見蕩れてその光景を眺める。
「………もう少し歩いたら兄さんが待っている所に出るから…。」
ジョゼは気を取り直す様にひとつ咳払いすると、声色を一段明るくしてそう告げた。
そうして何でも無い様にジャンの元へと歩き出そうとする彼女の掌を、マルコは強く握って再び引き止める。
…………きょとりとしてこちらを見つめるジョゼを、マルコは静かに眺めた。
その脇を蛍が大気を漂う様に飛んで行く。それはすいと消え、ぱっと灯った。
「馬鹿……。」
マルコは何の脈絡も無く一言告げる。
彼の濃茶の瞳の中にも、煌々とした薄緑の光が灯る様に映っていた。ジョゼはただそれを覗き込み、言葉の真意を汲み取ろうと懸命に努める。
「ジョゼは馬鹿だよ……。」
もう一度繰り返された言葉に、ジョゼはようやく何かを感じ取ったらしく、一回だけ頷いた。
「…。そうなのかな。」
「……そうだよ。…本当、馬鹿なんだから。」
「………うん。」
マルコはもう一度だけ馬鹿、と呟いた後、何も言わなくなった。
「……………。ありがとう、マルコ。」
ジョゼもまたそれだけ言った後、唖の様に黙ってしまう。
――――――――静寂。
背景には勿論……石の多い川の音が円やかに響き、更には蛙の鳴き声も低く続いていたが……その時の辺りは無音よりも静寂に近かった。
ジョゼとマルコは、じっと互いとその背景に飛ぶ蛍の震える灯りを見つめながら、各々の胸中で色々な事を考える。
静かな時間が、眼下を流れる河の如く、非常にゆっくりとした速度で流れていた。
「…………ジャンには無い、ジョゼの良い所。沢山あると…僕は思う。」
やがてマルコはゆっくりと口を開く。
「そりゃあ…ジョゼはジャンと違って色んな事に鈍臭いし、気もあんまり効かない。でも…それで良いんだよ。ジャンみたいなのが二人もいたら、それこそ困る……」
マルコは何やら頭の痛い想像をしたらしい。頭を軽く左右に振ってそれを追い払おうとする。
そうして、息をひとつ吸うと、今から自分が言おうとしている事が如何に恥ずかしいかを思っては、またしても少し、赤面した。
「………ジョゼは、優しいから……。」
マルコの言葉は、静寂な空気を縫ってよく響く。ジョゼはただ、彼の事をじっと見つめてそれを聞いていた。
「ジョゼは優しいから…。人を傷付ける事を絶対にしないだろ…?」
言いながら、マルコは一生懸命これからの発言を整理する。
だがそれはどうにも纏まってくれず、上手な文章の体を成さずに唇から零れて行ってしまう。
「それを弱さという人もいるかもしれないし…。そういう性質の所為で他者を責められないで、必要以上に自分を傷付けてしまう事もあるかもしれないけれど…」
言葉を、切る。……落ち着け。まだ、違う。まだ、本当の気持ちを伝える訳ではないから……
「でも、ジョゼのそういう所がさ…。…少なくとも僕は…ちゃんと、好きだから…。」
言ってしまってから、想像以上の恥ずかしさに目頭がじんわりと暖まった。ジョゼは瞬きひとつしない。…じっと、ただこちらを見つめている。
「……それを、覚えておいて。」
最後の声は掠れてしまっていたと思う。もう、ジョゼの事も見ていられなくなったマルコは彼女から目を逸らして、墨色の水面の流れを眺める。
………瞬間、合わさった掌が痛い程の力で握られた。汗ばんだ互いの掌が密着し、まるでそこから溶け合ってしまいそうな心地だった。
「……………うん。」
ジョゼがはっきりとした声で一言告げる。
「うん…。忘れない。………ずっと、覚えてるよ。」
しっかりとした声色ながらも、その背景には少しの痛切な響きがあった。
それを聞いていて、目頭の熱は更に温度を高めてしまう。
…………泣いてしまいそうだった。
理由は分からないけれど。
でも、きっとジョゼも同じ気持ちなんだろうな。
そう思うと…少し、嬉しい。
「ありがとう。」
ジョゼの声は相変わらずはっきりとしていた。
二人の間を蛍が光の糸を曳いて漂って行く。
弱々しい光だ。彷徨う人間の魂の様にも見える。
「本当に…ありがとう。」
それだけ言って、ジョゼは笑った。
今まで見た中で、一番はっきりとした笑顔だったかも分からない。
自然とマルコも笑いながら……あと何回、この笑顔が見れるだろうかと、ふと。考えた。
(いや。………何回でも見れるじゃないか。……笑わせたら良いんだから……僕が。)
これからの人生で。……まだ時間は沢山あるんだから…。
色んな事がある筈だ……。生きていれば。悲しい事も悔しい事も経験するだろう。
そんな中で、沢山沢山、目一杯笑ったジョゼの事を何度だって僕は見るに違いない。
何の根拠も無い、そんな確信を。僕はこの時…確かに、抱いた。
ジョゼが、そろりと歩き出す。……手を繋いだままで…恐らく、ジャンの所へ向かうのだろう。
僕もそれに従って同じ様にそろりと川縁を歩き出した。相変わらず蒸し暑いけれど、風が吹いてそれも少しだけマシになった。
……………遠くで、軽く手を上げてここだと示す見慣れた人影が見えた。
おせえよ、何してた、
うん。ごめんね兄さん、ほらマルコを連れて来たよ、
おう、来たか、
彼等の声はまるで遠くの郷から聞こえているかの様だった。
僕はゆっくりと瞬きを一回して………うん、来たよ。と言いながら、何だか心の底から嬉しくなってしまい、晴れやかに一度、笑った。
まさお様のリクエストより
ジャンにヤキモチを焼いたマルコが頑張るお話で書かせて頂きました。
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