(息子五歳、名前は固定されています。)
…………暗い部屋の中、マルコはテーブルに肩肘をついてぼんやりとしていた。
時刻は、数時間前に日付を越えた所である。マルコは水差しからグラスに一杯水を注ぎ、対して乾いてもいない喉に流し込んだ。
「…………帰って、来ない………か。」
その呟きは無音の部屋の中でいやによく響く。
これ以上は仕方が無いと思ったマルコはひとつ溜め息を吐いて椅子から立ち上がった。
しかし、部屋には自分一人しかいない筈にも関わらず、どういう訳だか小さく人の気配がする。
(………………?)
注意深く辺りを見回すと………いた。扉から半分顔を覗かせてこちらを見ている背丈の小さな少年が。
予想外の人物に予想外の時間に巡り会った事にマルコは少々驚く。…………そして、こんな時間帯に起きている事を叱るべきか、それともどこか具合でも悪いのか心配すべきか迷った挙句…………後者を選んだ。
「…………どうした、マヤ。怖い夢でも見たのか」
目線を合わす様に屈んで低い位置にある頭を撫でる。髪の色は自分と同じだ。
「……………………。」
相変わらずのだんまりである。しかし自分の首に腕を回して、ぎゅっと抱きついてくる事から何となくの事情を察したマルコは、その小さな背中をトントン、と優しく叩いてやった。
「…………夜、一人は怖いもんな。」
そう言ってマルコはマヤの事を抱き上げた。
(……………軽いな。)
自分もジョゼもそこそこ健康な身体付きをしているのに関わらず、この子はいつまで経っても他の子に比べて小さく、華奢なままだ。それが最近、少々心配になる。
「………………みず」
微かな声でマヤが呟いた。
そのまま寝室へと向かおうとしていたマルコは一度頷いて足を止めると、元のテーブルへと近付く。
そしてマヤを下ろしてやると、水差しから二つのコップに水を注いで、自分とマヤの前にこつりと置いた。
椅子によじ上ってコップに手を伸ばそうとするマヤを助けてやりながら、マルコもまた隣の椅子に腰掛ける。
「……………………。」
部屋にいる人物が二人に増えたのにも関わらず、相変わらず室内は静かだった。
マルコはゆっくり水を飲むマヤの横顔をじっと見つめながら、不思議と心が穏やかになるのを感じていた。
……………けれど、やはり胸の内の何処かでは穴がぽっかりと空いた様な寂しさがある。それを我が子に気取られない様、マルコはそっと眼を伏せた。
「………………母さんは」
しかし、その心情を読み取ったかの様にマヤが呟く。マルコは肩を揺らして思わずもう一度彼の方を見た。真っ直ぐにこちらを見上げる瞳の何と澄んでいる事か。
(………この子はジョゼと違って、随分と勘が鋭いな………)
柔らかな頭髪を一回撫でてやると嬉しそうに頬を染めるマヤ。………可愛かった。
「…………ジョゼは………最近、ちょっと、忙しいみたいだね。」
マルコはゆっくりと言葉を紡ぐ。それで、自分の事を納得させる様に。
「だから………家に帰る事が、難しいみたい。」
マヤは父親の言葉を黙って聞いていた。飲み干されて空になったグラスの表面を水滴がなぞる様に垂れている。
「…………仕方無いよ。仕事なんだから………」
彼の言葉はまるで独り言の様な虚しい響きを持っていた。
それから、マルコはおもむろに立ち上がって戸棚の上に乗っていた赤いリボンがかかった掌サイズの白い箱を取り出してテーブルの上に置く。
「今日さ、父さんの誕生日なんだ。」
穏やかにそう零すと、マヤは少々考え込んだ後にパチパチ…と数回拍手をした。全く持って表情は変わっていないが彼なりに大いに祝ってくれているのだろう。
マルコはそれに淡く笑いながら「ありがとう」と応えた。
「…………で、これは母さんがくれたプレゼント。」
マルコは指の先でその小さな箱をつついた。何が入っているのだろうか、少々重みがある。
「多分………誕生日には、帰れないから、先に渡しておくって言われてさ………」
マルコの溜め息と共に吐き出された発言に、マヤは不思議そうに父親の顔を眺めた。
恐らく、「開けないの」と問うている。
「…………うん。そりゃあ日付の上ではもう誕生日だし、開けていいと思うんだけれど……」
マルコは赤いリボンのかかった箱に必要以上触れる事は無く、再び元の戸棚へと戻してしまう。
「帰れない……って、言われてるのになあ……」
そう言いながらマルコはマヤの頭を再び撫でた。細い髪が指通りよく掌に触れて行く。
マルコはひとつ、苦笑する様に唇の端を持ち上げては、息を深く吐いた。
「…………全く、僕はお前と対して精神年齢は変わらないのかもしれないな」
しばらくの間マルコはマヤの髪を撫で続けた。その間、マヤは何かを言おうと口を開きかけるが、すぐにまた噤んでしまう。
少しして、マルコが「寝ようか」と穏やかに言うので、マヤもそれに従う様にこくりとひとつ頷いた。
…………寝室へ向かう時、マヤはふと後ろを振り向いて白い箱が収まった戸棚を見上げる。
数秒立ち止まった後、マルコが手を引いて「どうしたんだ」と尋ねてくるので、「何でも無い」と言う様に首を振り、寝室への歩みを進めた。
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