(恋人時代)
憲兵団の宿舎の一角....マルコの部屋で、ジョゼは眉間に皺を寄せてチェス盤を睨みつけていた。
その恐ろしい形相は子供が...いや、きっと大の大人でさえも...泣き出してしまいそうなものだった。
だが彼女の向かいに座っていたマルコは至って穏やかな(むしろ嬉しそうな)表情で彼女の事を眺めている。
「......ひどいよマルコ」
ぽつりとジョゼの口から言葉が漏れた。
マルコは何の事だと言う様にしながら相も変わらず笑みを浮かべて駒を盤の上に並べ直している。
「私はひと月前にやっとルールを覚えたばかりなのに...!ちょっとは手加減してくれても良いじゃないの....」
「それは無理だね。王を全力で守るのが憲兵団たる僕の務めだ。」
「ゲームと現実の世界は違うよ....」
「というか...逆に言うとルールを覚えてひと月経つのにここまで弱いジョゼの方に僕は驚きだよ」
「.....昔からゲームは苦手。カードゲームとかも兄さんに一度も勝てた事無い....」
「ああ、そんな感じがする。ジョゼは鈍臭いからなあ」
「ひどい....」
ジョゼは溜め息を吐いて....またしてもゲームセットされた盤を見下ろす。
「まだやるの....?」
「継続は力なりだよ。反復練習すればそこそこにはなる。じゃないといつまで経っても僕の相手にならないじゃないか」
「......マルコって意外と厳しいよね」
「君とジャン限定でね」
「えっ」
「.....特に君にはね」
「ええっ」
ジョゼはもう一度溜め息を吐き...観念した様に目を伏せた。
一方マルコは非常に楽しい思いをしていた。
.......というか、チェスの反復練習云々は半分建前である。
少しでもジョゼが時間を忘れて自分に付き合ってくれれば良いと思った。
彼女の、『そろそろ帰らなくちゃ...』の一言を聞くのが、毎度毎度とても嫌だったから.....
だが...いくら嫌でもその時は訪れる。
ジョゼがビショップをとんちんかんな場所に進めた時、ふと「あれ...今何時...?」と問うた。
「......七時少し過ぎだね。」
ビショップは斜めにしか動けないんだと言っただろう、と零しながら配置を直してやる。....重たい気持ちで。
「そっかあ...じゃあそろそろ帰らなくちゃ...。このゲームが最後だね。」
ジョゼはそうだっけ、うっかりしてた...と頬を掻いた。そのうっかりを何度続けているんだ、と小さく溜め息を吐く。
「....あともう一回位出来るよ」
......先程とは違い優しい手を指した。気を抜くとジョゼは勝手に自滅して、一瞬でゲームが終ってしまうから...
「うん...私もそうしたいけれど...調査兵団の宿舎はここからちょっと遠いし...」
今度はルークを斜めに進めながらジョゼが言う。おい、それは横・縦にしか動かせないんだって。というか全くルール覚えてないじゃないか。
けれど....少々寂しげに言う様子から、ジョゼもまた自分と同じ気持ちでいる事が分かって嬉しかった。
「......ほんと、ジョゼは何だって調査兵団なんかに入ったのさ....」
今まで何回目になるか分からない呟きを零せば、ジョゼは「私だって君とはもっと一緒にいたいけど...」と困った様にする。
「何なら泊まって行く?」
半分冗談、半分願望を含めてそう尋ねる。二人共チェス盤を見つめてはいたが今や全くゲームには手つかずだった。
まあ....勿論無理なのは分かって「良いの?」
..........え?
思わず視線を上げてジョゼの事を見る。彼女もまたこちらを見つめていた。....表情はいつものままだが、瞳の中に細かい光の粒が浮かんでいる。
「え.....いや、あの.....」
「泊まっても、良いの?」
ジョゼがしどろもどろになる僕の方へと身を乗り出して再び尋ねた。
いや....勿論願ってもいない事だけど、....
僕らは.....何と言うか、非常に純な付き合いをしていた為.....夜を二人きりで過ごす事は、あまり無かったから...
「.......あ、もしかして冗談だった.....?」
その時、ジョゼがはっとした様に口元を抑える。それから少々恥ずかしそうに身を引いた。
しかし僕は彼女の腕を掴んで、それを阻止する。
......落ち着け、僕。
何も泊まるからと言って色々な事になる訳では無い。
というか恐らくジョゼはそこまで深い事は考えていない。これは取り越し苦労だ。
......ほんの少し残念な気はするがそんな事は気の所為である。
あれだけ.....ジョゼと離れるのが嫌だった僕なんだ。
良いじゃないか....。これはとても嬉しい事だ。
「......泊まっていきなよ。」
心の中の逡巡を悟られない様、穏やかに言う。
少しの間を置いた後.....ジョゼの瞳の中に、光の粒が復活してきた。
それを眺めて...ああ、僕は本当に愛されているのだなあ、とじんわりとした幸せを感じた。
「凄い....嬉しいな。友達の所にお泊まりだなんて、私、初めてだよ」
「.....僕と君は友達じゃないだろう」
「ひどい....」
「.....ひどいのは君だ」
「あっ、うん....恋人だもんね....。親友でもあるけど。」
.....いつまで経っても親友扱いが抜けないのには困ったものだ。互いの好きを確認した時から数年の月日は流れているというのに。
そうなんだよ....。僕らは親友でもあるけど、恋人なんだ。
「......近くの雑貨屋が閉まる前に必要な物を買っておいで。」
腕を握りっ放しだった事に気付いて、離してやりながら告げる。
ジョゼはこっくりと頷いて席を立った。....そして、何故かこちらへと歩を進める。
不思議に思いながらそれを眺めていると、彼女は僕の傍に立って、おもむろに首に腕を回した。
「えっ」
間抜けな声が漏れると同時に顔に熱が集まる。.....彼女は驚く程恥ずかしがり屋の癖に、時たまこの様に突飛な行動を起こすから心臓に悪い。
「......嬉しい。大好き。」
そう呟いてからジョゼは僕の元から離れて、あっという間に部屋の外へと出て行ってしまった。
えー......
うん....何も起こらないのは分かっているんだけど.....逆に言えば、起こさないで....いられるのか....?
(あー.....)
机に突っ伏せばチェスの駒がいくつか倒れる。
.......困った。
僕はとんでも無い誘いを持ちかけてしまったのかもしれない。
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