......掌がひんやりとする。
ああ、分かった。これは、今まで何度も経験した...優しいものに包まれる感覚だ。
冷たくて....気持ち良い。
いや....ちょっと、違うな。私の体が熱いんだ。
......いつも、傍にいてくれてありがとう。
「.......兄さん」
ゆっくりと、瞼を開きながら微かな言葉を紡ぐ。....しかし、右手の先に兄さんはいなかった。
「僕は....ジャンじゃないよ」
穏やかな声が返ってくる。
目を数回瞬かせて、オレンジ色のランプの逆光に輪郭を照らされた人物を見つめた。
それが誰だか理解すると、ジョゼは微かに笑って「ごめんね、マルコ」と言う。
「....少し、食べれるかな」
そう問われたので力なく首を横に振った。
「そっか...。でも、水だけは飲んでおこう」
......優しい声だ。
「起きれる....?そう、ゆっくりで良いから...」
背中を支えてくれた掌はやっぱり冷たい。....大きい手だなあ。きっと兄さんより大きい。
差し出された水の入ったコップをぼんやりと眺めていると、「駄目だよ、飲まないと」と言われて唇に透明な縁をあてがわれた。
それを喉に流し込んでみると、如何に自分の体が渇いていたかがよく分かった。
砂に零された一滴の雫の様に、水分がじわりと沁みてくる。
水を飲み始めたジョゼに安心したのか、マルコは彼女の手にコップを持たせてその様子を見守った。
そして空になったものを受け取って、「ちゃんと飲めたね...」偉い、偉いと言う。
「...何だかマルコはお母さんみたいだね」
再びベッドに沈んだジョゼがぽつりと零した。
「少し複雑だなあ...」
彼が苦笑いしたので、ジョゼも淡く笑みを漏らした。
「.....でも、結構的を射てるかも。
きっと今君にしている事は、小さい頃僕が風邪をひいた時に母さんがしてくれた事と同じだから...」
彼女の汗を拭ってやりながらマルコが言う。
ジョゼは少しの間何かを思案する様に中空をぼんやりと見つめた。
何処から入って来たのか、その視線の先では寿命を迎えようとしている小さな羽虫が力なく漂っている。
「.....不思議だね」
やがてジョゼが口を開いた。
「マルコにもお母さんがいるんだ...」
そうやって視線を合わせてくる。彼女の言葉にマルコは「当たり前だろ」と呆れた様に返した。
「....僕を一体なんだと思っているんだ」
ぺちりと彼女の額を軽く叩く。....相変わらず熱いな。
「いや...それはね、勿論分かっているんだけど...マルコにも、私の知らない子供の頃があって...沢山泣いたり笑ったりしていたんだろうなって....そう思うと、なんだか不思議な気持ちがするんだよ...。」
ジョゼ が喋り終える頃には、先程の羽虫の姿はもう無かった。
朝に生まれて夜に死ぬそれの羽ばたきが一秒に千回であるとすると、この虫にとっては自分たちの一日は彼らの千日に当たるのかもしれない...。
「.....そうだね。僕も似た事を時々思うよ...
ジョゼと僕は出会ってからまだ一年とちょっとしか経ってなくて...僕が知っている君は本当に少しだけなんだなあって、」
....時々、すごく寂しくなるんだよ、という言葉は飲み込んだ。
「うん...。私も同じだよ。君の事は本当に一部しか知らない。」
ジョゼはマルコへと手を差し出し、小さな声で「握って」と言う。
その言葉に従って握ってやると、彼女の瞳が少し細められた。
...少ない表情の変化、小さなサインを見逃さない様にとそれをひたりと眺める。
「.....きっと、君は沢山楽しい事も辛い事を経験して...色んな人に愛されて、今私の前にいるんだね」
静かな声が暗い部屋へと沈んで行く。
月光が彼女のベッドのあらゆるくぼみに満ちあふれ、掬えるかと思う程だった。
「君の形を作ってくれた...色んなものに感謝しないと...」
僕が大好きなグレーの髪もまた、月に優しく照らされて金属の様に静かな光沢を宿している。
「......なんてね」
そう言って微笑むジョゼのそれを撫でてやれば嬉しそうにしてくれた。...僕も、つられて嬉しくなった。
「何だか...ジョゼの方がお母さんみたいだよ」
柔らかい髪を一房指に巻きながら零す。
「そうかな、初めて言われたよ。」
「うん....。僕も初めて思ったから。」
「.....そうなんだ。」
「そうなんだよ....。」
どうしてそう思ったのかはよく分からない。
けれど、彼女に名前を呼んでもらった時...すごく安心したんだ。
不安も寂しさも柔らかく解けて行って...残ったのは愛しさと切なさをない交ぜにした、懐かしいと思う気持ちだけだった。
「....ジョゼは、良いお母さんになるよ。」
言葉に少しの願望を含ませて零してみる。
「嬉しいな...。お母さんになれるかどうかは分からないけどね」
「なれるよ...、....きっと、必ず.....」
「ありがとう。そう言うマルコも良いお父さんになるよ」
「そっか....。君がそう言うなら、そうなんだろうね....。」
もう、光を放つのものは月とランプの灯りだけになっていた。暗闇に沈む空気の中で、それでもジョゼの顔だけはよく見える。
.......綺麗な顔をしていると思う。彼女は随分自分の顔の様子を気にしているけれど、それすら魅力になっている事が分からないのかな....
いや、違うな....
きっと、僕だからそう思うんだ。
君の事が大好きな僕だから....
「.....少し寝ようかな」
ジョゼがぽつりと呟く。
「うん....。おやすみ。」
そう言って微笑むと、彼女は少し不安げにした。
「寝るまで...こうしていても、いい?」
繋がっていた掌に力がこもる。
「どうしたの。....何だか甘えただね。」
少し意地悪く言いながら手を握り返す。......すごく、嬉しかった。
「無理にとは言わないよ....。ごめんね」
「....謝らないで。僕らは友達じゃないか....頼れば良い。」
今はまだ.....ね。
「うん....ありがとう。」
ジョゼと視線が交わる。
長い睫に包まれた中は、ただ一面に穏やかな湖面の様に優しかった。
その瞳の奥に、ランプに照らされた自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。
「......おやすみ、ジョゼ」
「うん、おやすみ....マルコ。」
ジョゼの瞳の中の僕が、ぼうっと崩れて来た。
静かな水が動いて写る影を乱したように流れ出したと思ったら、彼女の眼はゆっくりと閉じていく。
長い睫毛の間から涙が頬へ垂れて、最後に....きゅっと掌に力がこもった。
.....もう、眠っていた。
君がお母さんになる時、僕もお父さんになれているかな....
同じ子供の、親になれているかな。
二人の子供が、この世に生を受ける事はできるのかな....
「好きだよ...。君の事が、大好きだよ。」
おかしいな...意識が無ければここまで容易く言えるのに...
でも....まだ、言う時じゃない。
....ジョゼはこの意味をきっと知らない。
だから、誰かが教えてあげないと....。それは僕じゃないと駄目なんだ。...絶対に。
過去はどう足掻いても変えられないけれど、未来なら新しく作って行ける。
僕の未来.....
憲兵団に入りたい。
母さんに楽をさせてあげたい。
今一緒に生活している奴らとずっと友達でいたい。
そして隣に君が居て欲しい。
「....好きだよ、ジョゼ」
この言葉は不思議だ。
時には鋭く胸を突き刺すのに、今は何て穏やかな響きを持っているのだろう。
「寝るまでじゃなくて良いよ....」
両手で包み込む様に、彼女の掌を握り直した。
「ずっと....傍に居るから....」
嫉妬したり...卑屈になったり...決して恋は幸せなだけではない。
けれどこんなにも優しい気持ちになれるなら、やっぱり僕は君を好きになって良かったんだ。
....本当に、良かったんだ。
部屋の中には平穏な寝息、窓の外には夜露に濡れた草地、光の霧のような月光、虫の声がある。
そして僕もゆっくりと眠りに落ちていく。
「.......本当に産まれたんだなあ.....」
「そうだよ。......きっとすぐに大きくなるよ。身長もマルコを抜かしちゃったりするかもね。」
「うーん。もうちょっとこのままでいて欲しいかなあ....。」
「そうだね....。でも、時が経つのは本当にあっという間だから....。
この子と過ごす毎日を大切にしないとね。」
「うん、そうだね.....。」
そんな、幸せな夢の中に....
....違う、夢じゃない。これは、確かに存在する、僕と...君の....
匿名様のリクエストより
風邪を引いてマルコに優しく看病してもらうお話で書かせて頂きました。
←