時は過ぎ、二人の壁外調査は目前に迫っていた。
僕も...体の傷は大分良くなったが、腕は.....懸命に挑んでいる辛くて痛いリハビリの結果はまるで出ず....ぴくりとも指が動かないままだった。
最後の日にはジョゼが一人で来た。ジャンはまだ準備が終わっていないのだそうだ。
定位置となったベット脇の椅子に腰掛け、手際良く林檎を剥く彼女の様子は、明日から壁外に行くとはとても信じられない位いつも通りだった。
「....うさぎにした方が良かったかな」
首を傾けながら自分が剥いたものを見下ろす視線は相変わらず鋭い。
「いや、大丈夫だよ。ありがとう」
弱く笑いながら半身を起こし、彼女が差し出す林檎を口に入れる。
....冷たくて、甘酸っぱい。
ジョゼに食べさせてもらうと何でも美味しくなるから不思議だ。
....でも、それと同時に情けなくなる。
利き腕が治らなければ、ずっとこんな風に...彼等の世話になるばかりなのだろうか....
きっと二人は優しいからいつまでも根気強く付き合ってくれるだろう。
でも僕は....僕は君たちに手を引かれるのでは無く、隣に立って....一緒に歩いて行きたい....
僕がこうして歩みを止めている間にも、二人はどんどん前へ行ってしまう....
.....怖い。.....置いて行かれたく無い....。
「.....マルコ....?」
動きを止めてしまった僕の顔を、彼女が不思議そうに覗き込む。
....明日には、唯一の心の支えだった二人も....遠い遠い....二度と帰って来ないかもしれない壁外に行ってしまうんだ....
ジョゼは僕の顔色が青ざめている事に気付いたらしく、手にしていたフォークと林檎の入っていた皿をサイドテーブルに置いて、そっと左手を握ってくれた。
.......時計が時を刻む音がいやに大きく聞こえる....。
彼女は何も言わず、そろそろと空いている方の手を僕へと伸ばして来る。
腕が首に回る。柔らかな体が僕を包み込んだ。
その体温の気持ち良さに、目を閉じてしばらく感じ入る。
握られていた手をゆっくりと離し、僕も彼女の背中に腕を回した。
「......僕は、怖い。」
言葉が....勝手に口から零れ落ちてくる。
「そう....」
ジョゼが小さく相槌を打った。
辛うじて動く右手でその頬を、髪をそっと撫でる。
「.....こうして君に触れても....皮膚と髪の毛の違いさえ分からないんだ....」
左腕で彼女を抱き締める力を強めた。
言葉にしてしまうともう止まらない。不安が次から次へと溢れ出て来る。
「1年....1年なんて.....長過ぎるよっ...!
それだけ時間があれば、今まで苦労して修得した事も全部忘れてしまう....。
3年間、僕は僕なりに頑張ってきたのに...!!全部全部なくなって....僕だけ置いて行かれてしまうんだ.....!」
悲しみが巨大な渦になって胸の中心に現れた。
焦り、もどかしさ、怒り....全てのものがそれに向かってなだれ込んで来る。
辛くて、痛くても...生きていて良かったと思えた筈なのに....何故生きるというのは試練の連続なのだろう....
しばらく、僕は彼女の首筋に顔を埋めて歯を食いしばりながら泣いた。
ジョゼもやはり苦しそうに...目を閉じてその感情を受け止めてくれていた.....
「......マルコ」
彼女が僕の名を呼ぶ。頭がぼんやりして...よく聞こえない。
「今から私が言う事は...マルコにとって失礼な事になるかもしれない.....
だから、聞きたく無かったら言って....。やめるから。」
ジョゼは僕の体を抱き締め直しながら言った。呆然とする頭で何とか意味を理解する。
「......辛かったら、マルコはもう....休んで良いと思うんだ。」
ゆっくりゆっくりと彼女の口から言葉が紡がれた。
「.......え?」
「兵士でなくても.....生きていく道はあるよ。」
「それは.....どういう....」
「新しい生き方を探すんだよ。.....それなら、リハビリももっと楽なものになる筈....」
「でも.....僕は....僕の夢は....」
「....夢を叶えなければいけない決まりなんて無いよ...。
それに、何をしてたって君は....マルコは、素敵で尊敬できる....素晴らしい人だから...」
ジョゼは僕の体からゆっくりと体を離して目を合わせてくる。
「.....君が生きていてくれて....私は一生分の幸せを実感した。
きっと皆も同じ事を思った筈...。苦しい事や、辛い事から逃げても誰も君を咎めはしない....」
優しい言葉だった。
全てのしがらみから抜け出して、その言葉に身を委ねてしまいたくなる位.....
でも、僕の肩に置かれた彼女の血豆だらけの手を見た時に....それは駄目だと思った。
.....強く、思った。
ゆっくりと首を横に振ってささくれた手を握る。
手を見れば分かった。
彼女は今も.....努力を怠らない、僕が大好きなジョゼのままなのだ....。
「......それはできないよ.....」
「.....そう」
「ありがとう。そう言ってくれて凄く嬉しいよ.....。でも、僕はやっぱり兵士だから....」
「うん....」
「君が頑張っているのに、僕だけ休む訳にはいかない。....そんなの、格好悪過ぎる....」
「そっか....」
彼女は淡く微笑む。
「....やっぱり、マルコはとても素敵だよ...。」
その手は、僕の掌の中で少し震えていた。
「......ジョゼ。明日、不安なの....?」
そう聞けば彼女は素直に首を縦に振る。
「......私はね。君が好きなんだよ.....。」
そしてぽつりと呟いた。
「うん。なんとなく....そんな感じがしてたよ....」
「返事が遅くなってごめんね....。でも、この気持ちがあるからこそ....外に行くのが怖い....」
「そう....」
「君と離れたく無いんだ....。.....どうしよう。こんなにも人を想った事なんて初めてで....。」
掌を握る手を離してその体をそっと抱き寄せる。今度は彼女の頭が僕の首筋に埋まった。
「.....大丈夫だ。ジョゼはずっと頑張ってきたじゃないか。自分を信じてあげなよ....。
ジャンもついてる。.....それに以前僕に、帰って来ると約束してくれただろう...?」
嬉しかった。
彼女が僕を想って、不安で震えてくれている。
.....やっぱり生きていて良かった。
どんな辛い事や悲しい事も、ひとつの幸福の前にたちまち消えてしまう...
生きているという事はそれだけ強い事なんだ....。それを君は教えてくれた。
だから僕も、笑顔で彼女の背中を押してあげよう.....
「行ってくるんだ、ジョゼ。僕はここで....待っているから」
「ありがとう....。君を好きになって良かった。....本当に...良かったよ。」
そっとジョゼは僕の体から身を離して、しばらく瞳を見つめた後、もう一度優しく微笑む。
気付くと僕は、ほとんど無意識に...その唇に自分のものを重ねていた。
「.......なっ」
彼女は驚いた様に口元を押さえる。軽いパニックに陥ってしまった様で、動きがフリーズしている。
「ひと月前に、君だって僕にした」
そう言ってやると、ジョゼは徐々に赤くなっていく顔を覆いながら「.....だって....!あれは頬だったじゃないか.....!」と声を絞り出した。
「一回は一回だよ」
「.............。」
恥ずかしさが頂点に達した彼女はそのままベットに半身をくずおれさせてしまう。
髪から覗く耳は見事な朱色に染まっていた。
「ジョゼ」
その柔らかな髪を撫でてやりながら名前を呼ぶ。返事は無い。
「僕が君を好きで、君が僕を好き。その事はもう分かったんだ。
だから....もう僕はあまり我慢をしない事にするよ。」
ジョゼの体がぴくりと震えた。
「僕たちは今、恋人同士になったんだ。」
ね、と呼びかけるとほんの少しだけ顔をずらして彼女がこちらを見る。
そして消え入りそうな声で「.....よろしく」と言うものだから、なんだか笑ってしまった。
こうしてジョゼは壁外へと旅立って行った。
遠い、危険な場所へ......
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