(遅いな...)
時計をちらりと見れば、とうの昔に日付が変わり、草木も眠る時間帯である事を知らされる。
(...マルコ...どうしたんだろう...遅くなる日は予め言ってくれるし...残業もここまで遅くはならない筈なのに...)
ジョゼはひとつ溜め息をついた。
(....もし、事故か何かに遭ってたらどうしよう)
急に不安が胸の内に湧き上がる。
今やマルコの存在無しでは生きていけないジョゼに取って、彼が居なくなる事はこの世の終わりに近い意味を持っていた。
(.....遅くなった理由なんてもう何でも良い...。無事でさえいてくれれば...)
ソファに腰掛け、不安を静める為クッションを胸に抱く。
きっと今の自分は非常に情けない顔をしているに違いない。
クッションを抱く手の力をぎゅうぎゅう強めるが、心に渦巻く暗雲を払いのける事はできず、何だか涙が出そうになる。
良い年をしてこんな事位で...と少し恥ずかしく思い、目を閉じて涙が零れるのを阻止した。
しばらくそうしているとようやく心が平静を取り戻したのは良いが、何だか眠気を感じる様になってきてしまう。
ジョゼは段々とそれに抗う事ができなくなり、マルコが帰って来る少しの間だけ...そう、少ししたらきっと帰って来てくれるから...とゆっくり眠りに落ちて行った。
*
「.......!!?」
激しい衝撃をその身に感じてジョゼは目を覚ました。
「.....何?何?何事?」
寝起きで回転の鈍い頭は軽いパニックに陥る。地震か?強盗か?はたまた巨人の襲来か?
「僕だよ」
聞き覚えのある声がしてジョゼはようやく状況を理解する。
先程の衝撃はマルコが寝ている自分にダイブをかました上に力一杯抱き締めた際に発生した物の様だ。
そして現在も体は彼の二本の腕によってきつく締め付けられている。
「ジョゼ、ただいま。」
そう告げて軽くキスをしてくる彼からはアルコールの匂いがした。
「マルコ、酒臭いよ...」
「ん?そうかな。....僕が帰って来る前に寝ちゃうなんてひどいよ、ジョゼ。」
「....それは君があんまりに遅いから....。でも無事に帰って来てくれて良かったよ。安心した。」
「はは、ジョゼは可愛いねぇ」
「.....水を汲んで来るよ。大分酔っているみたいだから...」
「本当に可愛い...」
「....ほら、手を離して」
「何でこんなに可愛いのかなぁ...」
(.....駄目だ会話が成立しない)
酩酊中のこの夫の為に水を持って来てやりたいジョゼだが、その逞しい腕にがっちりと拘束されている為それも適わない。
もう10代の頃の二人では無いのだ。その体格差は歴然としている。
「......離さなくていいからとりあえず水を飲もう。....立てる?」
「.......ん」
自分の体にびったりとくっ付いているマルコをやっとの思いで立たせ、水差しが置いてあるテーブルまで一緒に向かう。
重いし歩きにくいしで抱き締められながら歩く道のりは想像以上の困難を極めた。
ようやく辿り着いた場所で、置いてあったガラスのコップに水を注いで「ほら」と彼に差し出す。
マルコは彼女の手の中にあるそれをとろりとした目でじっと見た後、「飲ませて」と小さく呟いた。
その言葉にジョゼはひとつ溜め息をつく。
後ろから抱き締められている今の体勢では飲ませにくいので、体を反転させて向き合う形を取り、その口にコップをあてがってやる。
.....しかし、彼は首を振ってそれを拒否した。
「....マルコ?」
「....おかしいなぁ....。何か違うんだよ。」
「.....?何が違うの」
「僕とジョゼでは...同じ言葉でも...どこか意味が違うんだ」
「.....何の話?」
「例えばね...」
マルコはジョゼの体から片手を離してコップを受け取り、その中の水を一口飲む。
彼の喉が上下する様をジョゼは大人しく見守っていた。その間にマルコは再び水を口に含む。
ふと、視線がぱちりと合った。しばらく見つめ合った後、彼はおもむろにジョゼの顎に手をかけてくる。
マルコが何をしようとしているか察したジョゼは腕の中から逃れようとするが、それは無駄な抵抗に終わり、彼の口から直接水を飲まされる事になった。
口の端から水が零れそうになるのを阻止する為に懸命に注ぎ込まれたものを飲み込むが、間に合わなかった水が数滴顎を伝う。
唇を重ねたついでとでも言う様にマルコがそれを嘗めとっていった。
自分が何をされたか理解すると、ジョゼの顔には急激に熱が集中していく。
「....おいしかった?」
マルコはそんな彼女を満足げに見ながら尋ねる。
「おいしくないよっ.....!」
ジョゼは彼の手からコップを引ったくり、改めて水を並々と注いでずいと渡してやった。
「....水くらい一人で飲みなさい!子供じゃ無いんだから...!」
「....大人だからこそ飲ませて欲しいんだけれど...」
「飲まさないよ!!」
コップをマルコに押し付けると彼女は肩を怒らせてソファの方へ行ってしまう。
半ば照れ隠しの怒りと言った所だろうか....
「ジョゼ、怒らないでよ。」
水を飲ませてもらう事を諦めてそれを一気に飲み干すと、マルコはジョゼを追いかけてソファに向かった。
「....怒ってないよ」
「そっか、照れてるんだよね」
「違うよ!ほんと性質の悪い酔い方をする...!」
「機嫌直してよ。ケーキ買って来たんだ。一緒に食べようよ」
「.....私は今から寝る所だったのだけれど」
「いいじゃないか。食べようよ。」
「....はぁ。別に良いけれど。」
「遅めのデザートだね」
「....もう早めの朝ご飯の時間になってきちゃったよ....」
結局の所、どう足掻いてもジョゼはマルコに勝つ事はできないのだ。
昔から議論や討論で勝てた試しが無い。彼は頭が良いし、彼女の押しに弱い性格を熟知している。
...そして何よりジョゼが自分をとても愛しているが故に甘くならざるを得ない事を理解しているのだ。
実にずるい。こうして今日も彼女はマルコの良い様に丸め込まれるしか無いのである。
→